7月15日(火曜日)
逸見光長(逸見太郎・上総介) 1142- ?
逸見清光の長子。父清光の跡を継ぎ逸見氏を称する。弟、武田信義と双子という、が双生児説は信をおき難い。『尊卑分脈』に、信義のところだけ「母手輿遊女」とあり、光長の方は単に「母」とあるだけであるが、それはもともと光長の母に関する資料がなかったためであり、二児双生児説は後世の書き込みと思われる。これについて広瀬広一氏は「おそらく信義は手輿遊女の出にして庶流、光長は嫡出の異母兄で、たまたま同年生まれあったのであろう。清光が後継者を定めるに当たり、光長をもって逸見氏を継がせ、これに父祖伝来の地を与え、信義には新領の地を与えて武田を称させたもので、この事情からも、嫡庶本別は明瞭である。後世、武田氏を一族の宗家とするに至ったため、系図にも作為が加えられ、たまたま2人が同年生まれであったことから、同胞双生児説が起こったものであろう。」と説明している。
1180年の挙兵の時、上総介として上総にあり、子供は京都にあって皇嘉門院の院司を務めたりしていたので、消極的であったため甲斐源氏の惣領は自然に武田信義に移っていったものと思われる。
『吾妻鏡』1185年6月5日条に、「上総国人飯富季貞の子宗季を猶子として宗長と改めさせた」と記している。
逸見基義(逸見太郎・義経)
逸見光長の子。皇嘉門院の院司。皇嘉門院は藤原忠通の娘聖子。忠通は逸見荘の荘園領主であったと考えられる。
逸見惟義(逸見太郎・西忍)
逸見基義の長子。承久の変の際関東守護として残り治安と防衛の任に当たった。戦後摂津国三条院勅旨田を与えられた。和泉国守護職になったともいう。1234年の『六波羅御教書』に出てくる逸見入道は和泉守護の立場と思われる。この逸見入道を惟義と推定している。(『大阪府史』)
逸見義重(逸見又太郎)
逸見惟義の子。承久の変には武田信光に従い、美濃国大炊渡りで戦功をあげ、戦後恩賞として美濃国大桑郡を賜った。承久年間に大桑城を築いた。子孫に大桑氏と深津氏(甲斐国巨摩郡)がいる。
逸見有綱(六郎)
逸見惟義の子か?1286年閏11月13日、和泉国久米田寺領のことを施行している。
大桑重氏(又三郎)
逸見義重の3子。
大桑頼隆(大桑太郎・逸見三郎太郎)
大桑重氏の子。大桑郷を相伝する。
大桑氏義(大桑七郎・逸見七郎)
大桑重氏の末子。大桑郷の総領となる。
大桑惟泰(大桑七郎太郎)
大桑氏義の子。大桑郷の総領を継承しているが、以後は不詳。
次は武田信義だよ
急にKちゃんとのデ-トになりました慌てて準備してます