3月10日(月曜日雨晴れ


今確定申告完成したチョキ(;^_^A汗飲み屋の領収書の微調整だけです(^▽^;)

飲み友達の税理士さんだから・・・いっぱい認めてねチョキ

今日から外勤出来る~音譜でも寝てない・・・・(゚ー゚;汗久しぶりの徹夜あせる


なので今回も歴史ですメモ

3月9日の続きだよチョキ


栗原昌種(惣次郎) -1508

系譜上での位置は不明だが、信遠の子辺りと思われる。『一蓮寺過去帳』に「喜阿弥陀仏 栗原惣次郎 永正五戊辰十月四日」とあり、昌種は油川信恵・岩手縄美等と共に武田信虎と戦い討死したのが解る。


栗原信友(伊豆守) -1530

栗原信遠の子。『一蓮寺過去帳』に「享禄三年十一月五日蓼山道廓、前伊豆守」とある。『勝山記』の「永正十七年五月栗原殿大将トシテ皆々屋形ヲサミシ一家国人引退ク」の栗原殿は信友の時期に当たる。永正十七年(1520)大井氏・今井氏と共に、武田信虎に叛旗を翻し敗れて大井・今井両氏は信虎に降参し、信友は他国に亡命した。信友は反信虎軍の大将となるだけの血統と実力を有していた。


栗原信重(伊豆守)

栗原信友の子。武田信玄・勝頼の時代の伊豆守。


栗原兵庫 -1531

『勝山記』の享禄四年正月二十一日に信虎に叛し、河原辺にて討死とある。廃『平塩寺過去帳』に栗原伊豆守・兵庫頭・尾張守・阿波守・伊勢守を載せているが、この兵庫頭が『勝山記』の栗原兵庫と同一者であろう。系図には兵庫も兵庫頭も現れない。『一蓮寺過去帳』にも享禄4年に栗原はいない。武田信虎に叛旗を翻しているところから、信友の子か弟であると考えられる。


栗原昌清(左兵衛尉・左衛門佐) -1552

『甲陽軍鑑』では伊豆守の子としている。が栗原氏系図上では不明。200騎の侍大将。1522年常田合戦で重傷を負い、それがもとで死んだという。


栗原詮冬(左近・左衛尉)

『甲陽軍鑑』では昌清の子。父の跡を継ぎ100騎の侍大将とあるが、栗原氏系図上では確認できない。


栗原日向守

武田家滅亡後、徳川家康に仕えた武田御親類衆に名が見えるが、系図上では不明。『寛政重修諸家譜』には日向守政長が見え、「はじめ武田勝頼に仕える。天正十年武田家没落ののち東照宮に拝謁し、本領たるにより、甲斐国長井の郷を賜い、某年武蔵国横山において死す。法名道参」とある。寛政譜によれば、伊豆守信頼の子となっている。


次回は武田信成ですチョキ