2月20日(水曜日晴れ


昨日はSの家の近くのマクドナルドはんばーがーポテトコーヒー


込み入った話だけで、面白い客もおらず・・・てな事で歴史ですメモ


2月10日の続きだよチョキ


武田信元(三郎・穴山満春・修理大夫・信濃守・陸奥守・空山)

武田信春の子。『武田系図』に、信満の弟満春について「満春四郎穴山修理大夫。又信元。応永24年兄自害之時入高野山。其後家督相続。号浄国院穴山」と見え、『浅羽本武田系図』にも「満春信濃守修理大夫改信元云々」と見え、満春・信元同人説が主張せられている。

信元が穴山氏を称していたことは『後鑑』所見見聞軍抄等に見え疑問の余地はない。上杉禅秀の乱には与しなかったが、兄信満の自殺後高野山に逃れ、剃髪して空山と号して閑居した。

鎌倉公方足利持氏は逸見有直の甲斐国守護補任を幕府に申請したが許されず、幕府は1418年2月以前に信元を守護に任命し、甥で信濃国守護の小笠原政康に帰国を援助させた。同年10月以前に入部を果たし、守護代に跡部駿河(明海)、景家父子を登用した。入部したのは甲斐国南部、下山辺と考えられ、信元は穴山氏を継いだ人なので、まず旧領の回復を企図したものと解釈される。

足利持氏も信元の守護職を認めて、鎌倉府に出仕させた。

守護在任中逸見有直を屈服できず、守護代跡部氏の専横があり、統治は安定しなかった。没年は1419年~1420年の間と推定されている。


次回は武田伊豆千代丸ですチョキ