1月30日(水曜日晴れ


昨日は1日中仕事でした( ̄□ ̄;)!!


この前藤本正行氏『武田信玄像の謎』を読んだ・・・僕は高校時代に何故武田信玄の肖像画に武田菱が無いのか、日本史の先生に質問している。その時の答えは「教科書に載っているから間違い無い」だった。この武田信玄の肖像画を研究し続けたら良かった・・・・我家の墓は高野山に有るのだから研究しやすかった筈なのに。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。あせる


1月21日からの続きです本メモメガネ


仁勝寺宗印 ? -1433

武田信満の3子。仁勝寺に住む。1433年の輪宝一揆(守護代跡部氏・逸見一族側)と日一揆(武田信長側)の戦いで日一揆側について戦死している。この仁勝寺の開基は兄信長である。


江草信康(兵庫介)

武田信満の4子。北巨摩郡江草に屋敷を構えて江草氏を称した。獅子吼城主。


今井信景(左馬助)                      右・・・・・・・今井氏

武田信満の5子。山梨郡今井に住みし、今井氏を称した。兄の信康没後跡を継ぎ獅子吼城主。『一蓮寺過去帳』には「文明5年11月26日 合戦討死 独阿 今井又八郎」とあり、この又八郎が信景と思われる。


巨瀬村信賢(宮内少輔)

武田信満の6子。応永年間(1394-1427年)古代豪族の巨瀬村氏を復活させ、巨瀬村に館を構え、巨瀬村氏を称した。

民部少輔信乗---民部少輔道甲(1526年没)--左衛門佐信里(1563年没)--中沢左兵衛佐信忠(1614年没)と続いた。


倉科信広(治部少輔)

武田信満の7子。東山梨郡倉科に屋敷を構え倉科氏を称した。


山宮信安(民部少輔)

武田信満の8子。山宮氏を称したが発祥地不明。