1月12日(土曜日雨


昨日は退院したてで大人しくしてたので、今日は歴史ですメモ

しかし・・・早く祇園に出ないと・・・・まだ今年1回も祇園日記書いて無い(_ _。)


武田信重(三郎・刑部大輔・光増坊道成) ?-1450

武田信満の長子。母は小山田弥三郎の女。

父の信満が上杉禅秀の乱に際し、これに党し自殺すると、剃髪して高野山に入り光増坊道成と号した。

叔父信元が死ぬと、幕府は新たに信重を守護に任命して入部させようとし、鎌倉府と交渉した。1421年の頃である。

鎌倉公方足利持氏は信重の甲斐守護、山入与義の常陸守護任命に同意しないばかりか、1422年10月には兵を出して山入与義を討滅してしまったから、将軍義持は怒り、翌1423年6月一方的に常陸守護に与義の子祐義、甲斐守護に信重を任命して補任状を出してしまった。しかし信重は固辞し続け、四国へ身を隠してしまった。

1428年将軍義持が急死すると、弟義教が将軍になると持氏と冷戦状態となった。

同年10月信重は駿河国佐野、沢田両郷を与えられ四国から召しだされた。

将軍義教は1432年摂津国溝株庄を与え信重を庇護している。

1435年3月、跡部氏が上京し密かに信重と会い忠誠を誓っている。

なかなか入国出来ない理由として、郡内の武田信長、河内の伊豆千代丸、北部の逸見氏、北巨摩郡の跡部氏という勢力分野が成立していたからだと考えられる。

1438年8月将軍義教は信濃守護小笠原政康に信重の帰国の援助を命令している。

帰国後持氏の征討軍に加わり、持氏、逸見有直を討った。

1440年3月下総の結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵した。信重も攻撃軍に加わり、1441年城を落とした。翌年逸見氏の反乱も平定した。

1450年(宝徳2年)11月24日に没したと言うのが通説になっているが、『一蓮寺過去帳』では宝徳3年となっている。

『東八代郡誌』には、境川辺りに勢力を持っていた黒坂太郎なるものを討伐しようと兵を率いて戦いを挑んだが、穴山伊豆守に背後を襲われ、小石沢の館を焼かれ、ついに前後の敵にかなわず宝徳2年11月24日、居館にほど近い所で自殺した、とある。高野賢彦氏は信重を敗死させた穴山伊豆守は信重の孫信懸と唱えている、が私は別人を考えている。ここでは私説を控えたい。この信懸は一時川田館に住んでおり、当時の穴山氏が強大だった証拠だと思える。

守護代跡部氏が信重を迎えに行った背景には、跡部氏VS伊豆千代丸・武田信長の主導権争いが有ったのであろう。

菩提寺は六角山成就院、法名は「成就院殿功岳道成大居士」