12月24日(月曜日祝日晴れ


昨日はガクリガックリで寝てました。

そんなこんなで歴史ですメモ


12月12日の歴史の続きですチョキ


小佐手氏

武田信重の3子永信が東山梨郡小佐手に住み小佐手氏を称した。


小佐手信行(善九郎・宮内少輔)

小佐手永信の子。


小佐手信広(新六郎) ?-1569

小佐手信行の子。武田信玄に仕え、1569年駿河薩捶峠で討死。


小佐手信房(新八郎)1565-1628

小佐手信広の子。武田勝頼滅亡後、1590年徳川家康関東入国の時に家康に仕える。蔵米200俵。


下曾根氏

武田信重の6子賢信が東八代郡曾根に館を構えて、下曾根氏を称した。


下曾根信尾(安芸守)

下曾根賢信の子。


下曾根賢範(源六郎・信恒・出羽守・岳雲軒浄喜) ?-1582

下曾根信尾の子。『甲陽軍鑑』に騎馬20騎、足軽50人の足軽大将とみえる。

1559年から信濃小諸城代。武田信豊配下。

1582年武田勝頼の死を知ると、すぐに小諸城内で武田信豊親子を殺害し、その首級を織田信長に進上したが、謀殺されたという。


下曾根信秀(源六郎・中務大輔)

下曾根賢範の長子。武田勝頼に仕えた。『天正壬午甲信諸士起請文』では「武田御親類衆」に下曾根源六とみえる。しかし『長篠実戦記』の戦死者名に下曾根源六郎政利という名が見えるが、源七郎のことか?


下曾根源七 ?-1575

下曾根賢範の2子。1575年長篠合戦で討死した。織田信長死後に徳川家康に仕えた1人に、下曾根源七郎信辰という名が見えるが別人なのか?


下曾根政基(弥左衛門) ?-1575

下曾根賢範の3子。1575年長篠合戦で討死した。


下曾根信照(刑部大輔) ?-1590

下曾根信秀の長子。武田氏滅亡後徳川家康に仕え、1590年平岩親吉に従い小田原陣に参陣し、武蔵国岩槻城攻めで討死した。


下曾根信正(三右衛門)1572-1608

下曾根信秀の2子。兄の討死後家督を継ぎ、徳川家康に仕え上野国碓氷郡内で千石を領した。


下曾根信由(長宮・三十郎)1599-1683

下曾根信正の子。母は城景茂の女。徳川秀忠に仕え御書院番に列し、大坂両陣に参加した。1633年相模国大住郡の内200石を加増された。1638年島原天草の乱には目付となって島原に出張した。1642年御使番となり、翌年一柳美作守直家死後の領地収公の為、播磨・伊予両国に至る。後に越後・越前・出羽・肥後・讃岐・陸奥・上野・筑後等の国々に出張して御目付を務めた。1668年御先鉄砲頭に移る。


今日は今からSとSママの所に・・・叫び

まさかあせる2人とH!? 無理無理叫び(;´▽`A``あせる


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先輩の店です。少しづつ品数増やしているみたいですよチョキ

祇園のお姉さまご用達【太郎義信の店京都祇園店】