12月17日(月曜日くもり


今日は夕方から祇園に出るので、今は歴史の時間ですメモ

今日は武田氏滅亡のきっかけを作った穴山信君です戦い


穴山信君(勝千代・彦六・左衛門大夫・玄蕃頭・陸奥守・梅雪斎不白)1541-1582

穴山信友の子。母は武田信虎の女。父信友没後家督を継ぎ甲斐下山に居館し、河内領を支配した。武田信玄・勝頼2代に仕え、その領国経営に参画したが、居地が駿河往還上の要地を占め、かつ今川氏とも婚姻関係にあったため(今川義元妻と信君母は姉妹)、特に駿河政策に貢献した。1575年武田方の属城駿河江尻城主となり庵原郡一帯を兼領した。

川中島、三方ヶ原、長篠などの緒戦に参加。信玄・勝頼の本陣を固めた。

永禄中は駿河興津城、長篠の戦後江尻城を守った。江尻に入城してからは大改築に着手し、武田方の駿河の押さえとして独自の領国経営を展開し、江尻の城下町を造って商人を招き商業政策を推進した。

1582年3月、武田家滅亡の直前に徳川家康に降り、家康を先導し駿河河内口から甲斐市川口へ乱入した。

武田家滅亡後家康に同行して安土に織田信長を訪ね、旧領を安堵された。この時和泉堺を見物中に信長が討たれ、危険を感じた家康は海路で、信君は陸路で難を避けようとしたが、山城国宇治田原で土民のため殺された。

信君は父と2代にわたり武田惣領家と重縁を結び、同時に領内に強い支配権を維持し、武田氏の全盛時代にも完全には直領化し得ず、小山田氏の郡内領と同じく二重の支配構造を許す再支配地域をなしていた。

武田氏を公称し、直臣・奉行・代官などの家臣組織を持ち、被官や寺社に私領を与えてこれを統制し、また新田開発・検地を行い伝馬制度を整備した。

勝頼政権内では、武田信豊との権力争いに敗れ1581年の勝頼の娘と信豊の嫡子との婚約が決まった頃から、家康を通じて信長と接触を図るようになったらしい。

武田氏滅亡に際し、信君は自ら武田家の再興をはかった。


穴山信邦(彦八郎) ?-1566

穴山信友の子。『身延過去帳』に自害とある。


穴山彦九郎 1547-1559

穴山信友の3子。


武田信治(勝千代)1572-1587

穴山信君の子。母は武田信玄の女。父の死後徳川家康に武田氏を名乗るのを許された。穂坂常陸介・有泉大学等老臣の補佐を受けたが、1587年6月死去し穴山氏は断絶した。


武田信吉(万千代・七郎)1583-1603

徳川家康の5子。母は甲斐の秋山虎康の女。1588年穴山信君の子信治の没後を継ぎ、武田氏を称する。1590年下総小金城主となり、穴山氏の旧臣を移封させ、3万石を領す。1592年下総佐倉10万石移封し、関ヶ原の役には江戸城の留守居役。

1602年常陸水戸25万石に移封するが、翌年病死した。室は木下勝俊の女。