12月14日(金曜日晴れ


昨日は家から一歩も出ず・・あせる


そんなこんなで、祇園の話は無いですあせる


と、言う事で今回は穴山氏についてです。


武田信武5子義武が巨摩郡穴山を領して穴山氏を称した。15世紀前半には陸奥国に去った南部氏の所領も領し河内地方(今の南巨摩郡・西八代郡)を支配した。

1450年に武田信重を自害に追いやった小山城主穴山伊豆守が誰だか解らない(満春の実子説が有力だが不明)。ただ武田信重が2子信介を穴山氏を相続させたことが戦争の要因の一つだったのだろう。穴山伊豆千代丸と武田信重とに確執があったのではないかと考えられる。


穴山信懸(弥九郎・兵部少輔・刑部大輔・伊豆守・道義入道・臥竜)?-1513

穴山信介の子。南部に居館を構え、武田信昌・信縄・信虎とは良好な関係を保った。近年娘が武田信昌の室で、信縄の母ではないかとされている。今川氏親や伊勢宗瑞とも良好な関係を築いていた。

『妙法寺記』では1513年子の清五郎に討たれたとあり、『甲斐国志』によれば1491年3月20日没となってる。1513年、今川氏と結ぶか武田氏との関係を強めるかで内紛が起こったらしく、信懸は子の清五郎に暗殺されたようだ。

高野賢彦氏はこの清五郎を宗九郎信永と考えられ、信懸は武田信重を敗死させた穴山伊豆守と考えておられる。


穴山信辰(弥九郎・信俊)

穴山信介の子。信懸の弟。


小山信永(宗九郎・伊予守・信采)?-1523

穴山信懸の子。小山城主。1523年花鳥山で南部氏と戦い、敗れて小山城に立て籠もり、浄楽寺で自刃した。秋山敬氏作成の系図では2子となってる。


穴山甲斐守(義貞)?-1531

穴山信懸の子。実名については信綱、信風、など諸説が有るが確認できない。信永の弟か?秋山敬氏作成の系図では長子となっている。父信懸が兄弟にあたる清五郎に暗殺されると、家督を継いだ。恐らく清五郎を粛清して実権を掌握したのであろう。以後今川氏に従属するが、1521年武田信虎に降伏した。


穴山信堯(刑部大輔)

穴山信懸の2子。秋山敬氏作成の系図では3子となっている。


穴山信豊(彦太郎・対馬守)?-1530

穴山甲斐守の子。1530年小田原北条氏に討たれる。


穴山信友(伊豆守・武田伊豆守・幡龍斎)1506-1560

穴山甲斐守の子。甲斐国河内領南部・下山の領主。1521年父甲斐守が武田信虎に降伏した際に、駿河から帰国を命じられた武田八郎は信友のことを指す可能性が高い。天文年間の初めに武田信虎の女を正室に迎え、河内領の支配が磐石なものになって本拠地を巨摩郡南部から下山に移転させたと思われる。1542年信濃の諏訪氏との戦いに功があった。南松院蔵『大般若経』天文16(1547)年の奥書に「大檀那甲州河内下山居住武田伊豆守源信友」と見える。信友の時代に河内地方を統一したと思われる。武田信玄時代は今川氏との外交に重きをなした。