日曜日の朝の光は、どうしてこんなにもやさしいのだろう。
 カーテン越しに差し込む淡い光が、まるで薄紫の布を通して部屋全体を包み込んでいるようで、布団に沈み込んだ身体の輪郭をゆっくりと溶かしていく。
 まだ完全には覚めきらない意識の中で、私は枕に頬を寄せたまま、ごく自然に微笑んでいた。

 社会人になって、早起きは習慣になった。
 電車の時間、上司の視線、朝イチのメールの数。
 それらが私の「起きる理由」を強く引っぱっていく。
 でも日曜日だけは違う。
 目覚ましは鳴らないし、布団から無理に追い出されることもない。
 「起きなくてもいい」が許される、数少ない日。

 私は控えめな性格だけれど、毎日それなりに頑張っている。
 会議で意見を求められて心臓が跳ねたり、慣れない仕事でミスをして落ち込んだり、
 帰り道のコンビニのおにぎりが夕飯になる日だってある。
 けれど、そんな日々を乗り越えた日曜日の朝だけは、世界が自分にやさしくなる。

 半分眠ったまま腕を伸ばし、ふわふわの布団をぎゅっと抱き寄せる。
 その瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が少しずつゆるんでいくのがわかる。
 「寝坊」って、ただの時間のずれじゃなくて、自分を取り戻す行為なのかもしれない。

 社会人になりたての頃、上司に言われた言葉がある。
 「休むのも仕事のうちだからね」
 そのときは冗談めかして笑っていたけれど、今ならその意味を少し理解できる。
 心のバッテリーは、思った以上にデリケートだ。
 夜だけでは回復しきれない日もあるし、金曜の帰り道に “あと一歩で泣いちゃいそう” になるときだってある。
 そんな自分に気づけたことも、大人の階段をのぼる途中にある大切な経験なのだと思う。

 まどろみの中でぼんやり考える。
 私はこの一年で、どれくらいのことが変わったのだろう。
 学生の頃よりずっと早く時間が流れて、覚えることも増えて、
 「大人なんだから」という言葉が自分に向けられるようになった。
 でもその重さに負けそうになったとき、こうして日曜の朝がやってくる。
 “まだ大丈夫だよ” とそっと背中を撫でてくれるような時間だ。

 布団の柔らかさに包まれたまま、心の中でひとつ深呼吸をする。
 すると、昨日まで硬くなっていた心が、ふわりと解けていくのがわかる。
 このタイミングで起きたっていいし、もう少し寝たっていい。
 誰の期待も背負わずに、自分のペースで呼吸ができる。
 そんな当たり前のことが、社会人になって初めて「特別」だと気づいた。

 思い返せば、私はいつも“頑張る方”を選んでしまう。
 先輩に頼まれた資料作りは「はい」と受け取ってしまうし、
 同期と比べてできないところを見つけては落ち込んだりする。
誰かに褒められたいわけじゃないけれど、ちゃんと役に立ちたいと思っている。

 でも日曜日だけは、そんな自分を少し休ませてあげたい。
 寝癖のまま枕にうずくまってもいいし、
 どれだけだらしない格好でも誰にも見られない。
 そして何より、心の奥に潜んだ本音がひょっこり顔を出してくれる。

 「わたし、今週もちゃんと頑張ったなぁ」

 言葉に出した途端、胸の奥があったかくなった。
 誰に聞かせるわけでもない、ただのひとり言。
 でも、この何気ない言葉こそが、私を前へ進ませる燃料になる気がした。

 ベッドに横たわったまま、天井を見つめる。
 光はゆっくりと角度を変え、部屋の中に小さな影を落としていく。
 時間は確かに過ぎている。
 でもそれを急かす人もいない。
 こんな穏やかな朝を、「幸せ」と呼ばずに何と呼ぶのだろう。

 社会人になって知ったのは、
 “頑張ること” と “休むこと” は矛盾しなくていいということだ。
 むしろ、どちらも大切な自分を守るための選択なんだとわかった。
 日曜日の寝坊は、その象徴みたいな存在だ。

 そろそろ起きようかな、と身体を起こしかけて、もう一度布団に戻る。
 そんな自分に思わず小さく笑ってしまう。
 今日はまだ、もう少しだけこのぬくもりの中にいたい。
 いいよね、日曜日だし。

 そして、ゆっくりと瞼を閉じると、
 胸の奥にほのかな温かさがとどまっているのを感じる。
 明日からまた忙しい一週間が始まる。
 不安もあるけれど、今日は大丈夫。
 このまどろみの時間が、私をやさしく支えてくれるはずだから。

 そう思えた瞬間、日曜の朝は
 ただの “寝坊” ではなく、心を整えるための小さな儀式になった。