ゆっくりと差し込む朝の光は、休日の部屋にだけ許される、特別にやわらかな色をしている。平日なら慌ただしくスルーしてしまうその光が、今日はまるで私を包むようにソファへ流れ込んでくる。
 膝を抱えてクッションに顔をうずめたまま、ぼんやりと天井を見上げる。時計の針の音さえ、今日はどこか遠くで鳴っているようで、世界が一段だけゆっくり回っている気がした。

 「今日は……何もしなくていい日だ。」

 その一言を心の中でそっとつぶやくだけで、胸の奥がじんわりほどけていく。
 こんなふうに完全に気を抜ける時間は、意外と貴重だ。忙しい平日は、部活だの課題だの、小さな予定が積み重なり、気づけば息継ぎのタイミングを忘れそうになる。でも休日の朝は、いつだって優しい。急かさないし、求めない。ただ「そのままでいいよ」と肩を撫でるみたいに、静かに寄り添ってくれる。

 背中のあたりで、ふわりと温かい重みが動く。
 振り返ると、我が家の白い猫がじっとこちらを見ていた。まるで「今日はずっと一緒にいるでしょ?」と確認するような、静かなまなざし。

 私がごろりと横になると、猫はその隙間にもぐり込むようにくっついてくる。
 こういうとき、猫は驚くほど空気を読む。こっちが忙しい日は距離を保つのに、気が抜けている日はそっと寄り添ってくれる。まるで「休んでいいよ」の代わりに、ぬくもりをそっと置いていくみたいだ。

 テレビをつける気力もなくて、スマホをいじる気にもなれなくて、ただクッションを抱えながら窓辺の光を眺めていた。
 そんな自分に少しだけ「何もしなくてよかったの?」なんて声が聞こえる。でも今日くらい、そんな声は小さくていい。
 やらなきゃいけないことは、また明日が教えてくれる。
 今日は、心の柔らかい部分を休ませてあげる日。

 猫が喉を鳴らす音だけが、静かな部屋にそっと溶けていく。
 一緒に丸まっているうちに、だんだん胸の奥がふんわり温かくなってくる。何かを成し遂げなくても、ちゃんと満たされる時間があることを、私は彼らに教えてもらっている気がする。

 思えば、小さい頃から私はせっかちだった。予定を詰め込んで、動き続けて、止まったら置いていかれるような気がしていた。でも、家でダラダラする日が増えるたび、「止まってもいい時間」を少しずつ受け入れられるようになった。

 特別なことは何も起こらない。
 だけど、その“何も起こらなさ”が、こんなにも贅沢だなんて。

 窓の外の光が少し傾いて、部屋が柔らかい影をまといはじめる。
 そろそろお茶でも淹れようかな……と思いながらも、体はまだ動かない。猫も私の体にぴったり寄り添っている。動いたら、このぬくもりが離れてしまうのが惜しくて、もう少しだけこのままでいようと思った。

 休日のダラダラというものは、たぶん「何もしない時間」ではなくて、「自分を取り戻す時間」なんだ。
 忙しさの中で少しずつ遠ざかってしまった自分を、ゆっくり呼び戻すように、呼吸と同じリズムで、少しずつほどけていく。

 そしてふと気づく。
 こういう時間が、ちゃんと私を前向きにしてくれているんだと。

 だから明日からまた頑張れる。
 今日のこの静かな幸福が、きっと明日の私の背中をそっと押してくれる。

 「もうちょっとだけ、このままで。」

 そう心の中でつぶやいたとき、猫が静かに喉を鳴らした。
 まるで「もちろんだよ」と言ってくれているみたいに。