「詩論時評」

時代は変化し、詩と批評は、実在にどう立ちむかうのか

 

岡本勝人

 

 

(1)『奴隷の抒情』(神山睦美・澪標)

 

 

 ヘーゲルは、五十歳を過ぎたとき、「法哲学」の講義をはじめた。そして六十一歳で、当時、はやっていたコレラにかかり、惜しまれて亡くなる。ここでの問題は、「精神現象学」の主人と奴隷の承認をめぐる闘争に関するヘーゲルの思索である。そこに、普遍性をもつ人間活動に動力を付与する逆転の論理の思想があった。主人と奴隷の関係性が、「法哲学」に関わるのが、国家と市民社会を規定するための抽象化、道徳、倫理、宗教の構造である。国家は、宗教、法、国家という幻想の共同性と深く関わっている。市民社会は、個人や家族から労働や賃金などの社会と経済や職能団体との共存によって、人々が有機的に生活する場所である。この幻想の共同性である政治的国家と欲望の体系である市民社会の実態との調和をいかにはかり、人間と社会および近代国家をどのように捉えるのか、それが「法哲学」の大きな問題となる。

 著書のタイトルは、「奴隷の抒情」である。神山睦美氏は、多様なテクストに対して 「戦争とは何か  」の続編としてこの「奴隷の抒情」の問題を自身に語りかけた。本著で対象となる女性の作品は、『皆神山』(杉本真維子)、『伊東静雄―戦時下の抒情』(青木由弥子)、『赤牛と質量』(小池昌代)、『戦争がはじまる』(対話者・宮尾節子)、『ノートリアス グリン ピース 』(田中さとみ)である。現代の優れた女性の作品群に、著者の思いは、ヨーロッパの現代思想家にパリの高等研究院での「へーゲル講義」で大きな影響を与えたコジェーブやドストエフスキーの「大審問官」を解読するアーレントの人間観を筆頭に、ヘーゲルの 「精神現象学」から「法哲学」を架橋しつつ、「奴隷の抒情」に論点に収斂させる。 その他、本書には『物語論』(藤井貞和)、『〈世界史〉の哲学 現代編1』(大澤真幸)、『アンダーグラウンド』 『騎士団長殺し』(村上春樹)、 『さようなら、わたしの本よ!』(大江健三郎)、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)などの大作や問題作を論ずる他、吉本隆明、森川雅美、佐藤幹夫、古田嘉彦、野呂重雄、太田昌国、岡本勝人の著作にも、懇切な丁寧さをもって、文学主義も含めた多様なテクストを高度な政治批評として論じている。

 一体私たちの個人の思想とは、どのようにして権力的な思考と関わり、それがどのようにして、宗教やファシズムやスターリニズムと結びつくのだろうか。「主人」の立場と言葉となって「奴隷」と関わる心的現象とその克服が、「奴隷」の立場と言葉や生き方へと逆転するところに、  著者のいう「抒情」の言葉が発生する。この問題を「奴隷」の言葉を生む詩的な 差異として、テキストと密着させながら解析し、真摯にその   「抒情」の表出性を問うている。そこに、原理としての「主人」と「奴隷」があり、 「主人」と「奴隷」の原理を逆転させつつ、   現代思想や現在性の詩の「抒情」の変質を描き出している力学が、本書の核心部分である。「奴隷」概念の定立による反転する詩学こそ、独自の著者の文芸理論である。大衆の原像=共苦の思想を内実とする逆転の問題を、大衆の原像に仮託する抒情には、知識人と大衆の問題や国家や権力との大衆の問題も想定されている。

 支配する側の「主人」の問題の析出から、支配される立場のもとに地道に生きていく「奴隷」の存在からのみ生まれた「抒情」の表象には、 言葉の命名よりはるかに、文学の本質としての存在論がある。幾つものテクストを横断する本著には、一貫するテーマが、ここにある。「奴隷の抒情」こそ、弱者への視線へと自省する「共苦の思想」が、還流する向下の還相の線分として見出せるのだ。この「奴隷の抒情」にこそ、起動する人間の存在に対する暗黙の還源による人間への眼差しが仄見えている。本書は、「主人」の言葉である「絶対的多数の群衆の際限ない苦悩」から「奴隷」の言葉である「一人の人間の不幸の特殊性」へと放下した認識へと転換する思索の一冊である。

 現代の市民社会が、相対主義によって、一元的な世界はないとするのが、「新実在論」である。これは、ポスト・モダン的な言説の数々によって、普遍性や全体性を喪失したことからの反省から生まれてきた考え方が基軸にある。これにより、ヨーロッパにおけるキリスト教、ロシアにおけるドストエフスキイ、日本における親鸞の思想が、「非知」に向かって着地する共時的な関係の絶対性となって、アーレントから取り出した「共苦(コンパッション)の思想(抒情)」へと導く姿が、確かな足取りとなって目の前に存在する。 

 

 

(2)『パッサル、パッサル』(野村喜和夫・思潮社)

 

 

 この詩集を読んでいくと、穴のような通路が二つある。

 ひとつは、表題作の「パッサル、パッサル」である。著者によれば、「パッサル」とは、マレー語で「市場」のことである。「今宵、西から東から、/さまざまな亡霊が集まるカフェ「混沌」、」。ジャワ島が舞台である。東アジアに現象する「混沌」そのものの無数の男女。彼らと彼女らは、「識」(深層の記憶)に感応する「東アジアの市場」の表象空間にある。 もうひとつは、この詩集の構造を支えている冒頭詩「世界以前」と最終詩「生涯」の呼応関係にある。接続と断絶が詩集の像を象る。「世界以前」とは、この詩においては、「出生以前」への近似値が見られる。それは世界の言葉以前からの仮象としての「世界以後」へと、恣意的に分裂させる詩人の言語空間の表象である。「私」は、「種子」である。「種子」とは、存在をなりたたしめている「唯識」の「識」を根源とするエネルギーである。詩人は、ストゥーパの前に佇んで、   異空の   ランボーや金子光晴を幻視する。 思慕と離別が対位法をなす父母や愛犬ガブリエルや入院光景を詩の劇とする。その幻想は、     「世界以前」から「生涯」へと貫流する。その間に政治状況を襲ったものは、コロナによるパンデミックであり、ウクライナへの侵攻である。市民社会では、分裂者分析を不可欠とする人間論の内乱が続いていた。

 さて、文学主義を含む詩と批評の現在の問題である。多くの若い詩人が精神の病に倒れている。東アジアの市場のポエジーでさえ、アジアとしての書字の意味性に立ち戻らなければならない。さらに根源的な難題は、ランボーやマラルメ以後の人間論であり、書字された言葉と意味形象の存在である。グロテスクにエロスを溶かし込み、耳奥の快感の音韻や声だけでは、言葉がことばに変質し、社会の表層と深層の聖俗の変化をどこまでの射程で表象できるかが問題となる。野村喜和夫の詩の現在は、言葉と音韻作動に象徴されている。「世界以前」から「生涯」へとわたる核心とは、シュルレアリズム的な無意識の流動性である。それはシニフィアン優位の限界点も想定しつつ、恣意的な言葉の書字の微粒子的律動にある。言葉による文節は、文節以前と融合しつつ、筆蝕による穴や溝によって詩と空間が生まれでる現象であろうか。

 シニフィアンの律動的遊泳に近いもの。そこには、書かれた混沌とする透明な流れの律動がある。エクリチュールへと湧き上がってくる世界以前や言葉以前や生命の誕生以前には、 詩の生成の根源にある無意識の構造に匹敵する「識」の意味生成上の転変がある。「東野炎立」や「清少納言詩集」のように、現代と古典が遭遇し、語りと物語が「フクシマ」や「議事堂」の「内戦」の記述のエクリチュールに浮かび上がる。そのとき、詩は「シンラのために」と「識」を顕現させる。「今ここを生きるしかないこの亀裂このヌクレオチド/(略)/もうあすあさっての出来事の帰趨なんか/ひまわり/死んでいいよ」。仮象として、まことに存在するように、あるいは真にあるように、実在としては、現に見えている。しかし、芸術としての詩とは、そのような仮に見える「識」の業熟態の美に隣接するものである。現実そのものは、メタ存在論やメタ形而上学に通ずる「識」の薫習と輪廻にある。そこには、「世界以前」から「識」の転変を記述する「生涯」のシニフィアン自体の臨界点の問題がある。事後的に人間論の復活としての境涯の切断された詩の一片一片が、まるで宙雨の音韻変化のように、「世界以前」から「世界以後」へと、大地に降り注いでいる流動体の幻影であるに違いない。

 このスケールのある多数多様体の詩の中心は、一体どこにあるのだろうか。

 

 

(3)『説教節 俊徳丸・小栗判官 他三編』(兵藤裕己編注・岩波文庫)

 

 

 本著が刊行されたのは、二〇二三年の七月である。中世から連綿と続く語り芸ともいえる説教節の代表作を一つに編集し、「凡例」「あらすじ」「本文の小タイトル」「本文の語注」「解説」と整序された編集の跡が辿れる。ここには編集者の並々ならない企画から編集作業に至る目配りがある。しかし、何を置いても、この一冊に込められた著者の広い古典文学の知識と語り物というパロールの形態で語り告げられる「物語の語り」や「身体と声」の長年のフィールドワークとその江戸時代を中心にまとめられた正本には、奈良の天理図書館などの文献学的な仕事を含めて、学問的な成果を注視することができる。

 著者には、すでに『物語の近代 王朝から帝国へ』(二〇二〇年十一月・岩波書店)によって、学問の通時的な視点による学会横断的な記述スタイルと「近代」の論点を主眼とする仕事があり、『太平記』(岩波文庫)の校註においても、東と西の歴史を通釈する「解説」により、『太平記』の細部への読者の接近を可能にした画期的な文庫化の仕事があった。

 本著の『説教節 俊徳丸・小栗判官 他三編』においても、能や歌舞伎、浄瑠璃から舞踊にいたるまで、日本の大衆に支持される作品のうち「俊徳丸」「小栗判官」「山椒大夫」「愛語の若」「隅田川」の演目を網羅し、ひとつの文庫で読むことが可能になったことは、説教節に関心のある読者や研究者にとっては、誠に注目されるべきものである。「本文の各小タイトル」の簡潔さとナンバリングされた各章の「あらすじ」と懇切な「語注」によって、五つの原作の物語は、一般読者にも十分に解読可能となった。とくに「あらすじ」だけをとっても、物語の該当部分を素早く、簡単に検索できるような工夫があり、これもこの本を楽しく紐解くこと可能にしている簡便な古典への招待となる特色である。

 私も多く「古寺巡礼」として京都・奈良を訪ねることがあった。本著に網羅されている地域は、ほぼ全国にわたる。そこには、京都の清水寺、奈良の信貴山、大阪の天王寺と念仏堂、鞍馬の毘沙門天と東山(以上「俊徳丸」)、日立や武蔵相模、閻魔大王や藤沢の遊行上人、熊野の湯、美濃の青墓(以上「小栗判官」)、越後直江、蝦夷ヶ島、地蔵菩薩、丹後の国分寺、京都の朱雀権現堂、摂津天王寺、清水観音、丹後の金焼地蔵、伊勢、奥州(以上「山椒大夫」)、長谷観音、桂川、閻魔大王、比叡山(西塔)、阿闍梨、天狗、穴太の里、日吉山王大権現(以上「愛語の若」)、比叡山、天狗、西坂本、東国、隅田川、大念仏、霊、相模の大山不動、断食祈祷、比叡山、下総、妙亀山総泉寺、木母寺(以上「隅田川)。本著の物語の基盤となるトポロジーには、仏教や神道の習合と庶民信仰の地名と関わる証左がある。

 日本の古典である書かれたもの=エクリチュールについては、近代作家や現代作家と同じように、いかにそのテクストを読むかという問題がある。テクストのうちに塗り込まれ、影法師のたゆたう言説には、単に日本仏教史の秘史だけでなく、日本思想史の深刻な問題が含まれている。ここに記述されている日本文化の深層にある庶民の悲劇や差別・被差別、母系性の残滓の問題は、一方で、原作者や説教節を担ってきた主体としてのトポフィリア(場所への愛)をも感ぜずにはいない。(了)

 

(金堀則夫個人編集「交野が原」97 2024掲載 2024年9月1日発行)