レキシストかつふみのブログ

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勝手に歴史について調べている「かつふみ」のブログです。

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岐阜県の関ヶ原町に行ってきました。

西暦1600年に、天下分け目の「関ヶ原の合戦」がおこなわれた場所。
歴史好きにとっては「聖地」とも言える場所です!


高台から関ヶ原を見渡すと、
中山道と北國街道、伊勢街道が交差する「交通の要衝」であることがよくわかりました。

一般的な古戦場は、
石碑がたっていたり、あるいは、公園として整備されていたりして、
その場所を特定しやすいものですが、関ヶ原の場合は、違います。

合戦のスケールが大きいため、
町の各地に、「○○の陣跡」、「○○がおこなわれた場所」があり、
「案内看板」や「のぼり旗」、「石碑」などがたっています。

これらを一つ一つ訪ね歩くだけでも楽しく、
言ってみれば、町全体が「古戦場」で、町全体が「聖地」です。

そのうちの一つ、「決戦地」の石碑が、これです。




関ヶ原の盆地の中央よりやや西側、現在は水田の真ん中にあります。

合戦の結果を左右した、小早川秀秋らの寝返り。

小早川軍が西軍の大谷吉継隊を攻撃し、
近くにいた西軍の主力・小西行長も含めて大激闘を繰り広げたのが、
どうやらこのあたりのようです。


ところで、
関ヶ原の盆地を見ると、
西側の標高がやや高く、東側がやや低いことがわかりました。

つまり、徳川家康ひきいる東軍は、斜面を登りながら軍をすすめたことになります。

また、
決戦地は、関ヶ原の盆地の中央より西側にあり、
石田三成・宇喜多秀家・小西行長ら大将格の舞台の本陣の目の前であることも分かりました。

これらのことからも、
短時間のうちに東軍が押しに押した戦いであることが、見て取れます。

関ヶ原の合戦をめぐっては、
いろんなテレビ・映画で取り上げられていますし、書物も数多く出版されています。
知識はいろんな方面から入ってきますが、
実際に現場に立ってみると、各部隊の動きが具体的にイメージでき、
歴史なダイナミズムを体感できますね!





富山県の中央部を縦断する、呉羽山丘陵。


富山県では、県東部を、呉羽山の東にあたることから「呉東(ごとう)」、

県西部を、呉羽山の西にあたることから「呉西(ごせい)」と言うほど、なじみのある山です。


その呉羽山の山頂付近にあるのが、白鳥城(しらとりじょう)です。


中世から近世までの歴史を見てみると、
交通の要衝に位置することもあって、
様々な勢力の境界となって衝突があったり、激しい戦闘が繰り広げられたり、
たびたび歴史の表舞台になったようです。

城跡には、現在、展望台が設置されていて、
富山平野を望むことができます。

写真ではややわかりにくいですが、市街地の中央に、小さく、富山城も見えます。
富山城攻めをする際に、ここに陣をとると、
城の防御の具合が、手に取るようにわかりそうです。

ところで、この城、
1585年には、豊臣秀吉の佐々成政(さっさ・なりまさ)攻めの拠点にもなったようです。

「佐々攻め」は、
本能寺の変の3年後、
明智光秀や柴田勝家を破り、すっかり天下人への道筋をつけた秀吉が、
いまだ意地を張り続ける佐々成政を征伐するため、
越中国(富山県)に兵を進めたというもの。
結果、成政は秀吉に降伏することになりました。


ここで気になるのが、豊臣秀吉が、この城に入ったかどうか、、、です。


山川出版社の『富山県の歴史散歩』には、
「豊臣秀吉の本陣とされた」と記載され、
まるで秀吉自身がこの白鳥城に入ったかのような書き方です。

一方、インターネット百科事典のWIKIPEDIAを見てみると、
「先遣隊の織田信雄が入った」と書かれていて、
秀吉の入城に否定的な記載となっています。


さらに、あれこれ調べてみました。

そして、ある書物にたどりつきました。

新人物往来社の『佐々成政関係文書』を見ると、
『国府村史』を引用しつつ、以下のように書いてあります。

「8月19日、利家先導にて秀吉越中へ向かう。
 8月20日に秀吉は倶利伽羅に陣を進める。
29日成政は降伏。
29日、成政は僧衣をまとって秀吉の本陣へ来て、信雄を通して降伏」
とあります。

「倶利伽羅」とは、富山県と石川県の境にある「倶利伽羅峠」のこと。
白鳥城のある呉羽山丘陵から見ると、40kmほど西にあります。

この記載が正しければ、
秀吉は、佐々攻めに際し、白鳥城に入っていない、、、ということになりますね。
(成政が降伏したあとはわかりませんが)

まあ、どちらにしても、
秀吉の佐々攻めは、信長が没した「本能寺の変」のわずか3年後。

信長の次男・織田信雄が富山城の目と鼻の先まで来ただけで、
忠義者の成政にとっては、
戦意が失せる出来事だったのかもしれませんね。





富山県の氷見市の市街地に、「朝日山」という小高い丘があります。




丘の上に立てば、
氷見市の市街地や海が見え、
春には花見客で賑わう人気の場所です。

ここに、大きな銅像が立っています。




この堂々たる像は、
初代天皇の神武天皇さま。

100年あまり前に建立されたそうです。

でも、なんで神武天皇像が氷見に?


神武天皇は、
日向国(宮崎県)で兵をおこし、
敵と戦いながら軍を東に進め、
橿原宮(奈良県)で即位されたと伝わります。

古事記や日本書紀を見ても、
どこにも越中国(富山県)の文字は見当たらす、
ゆかりがあるかどうかは分かりません。


神武天皇は海の神の血をひいていて、
海の神としての性格もそなえていたそうです。
また、東征の過程で荒海を乗り越えたと伝わります。

想像するに、
港町・氷見の人々が、その勇姿にあやかろうとしたのかもしれませんね。
(あくまで想像ですよ)



インターネットで検索すると、

日本全国に、神武天皇像は、
あわせて8つあるとのこと。

となると、
氷見にはかなり珍しいものがあるということになります。

氷見という地名は、
もともとは、比美という字を使っていたそうです。
今でも、市内には比美町という町があります。
「比べようもないほど美しい」と読めるように、風光明媚な氷見の景観。

戦いを終えた神武天皇さまが、ほっと一息ついているように見えます。