飛行第七一戦隊
飛行第七一戦隊
【通称】
天風第一八四二九
誠 第一八四二九
【戦隊長】
綾部逸雄 少佐 (49期) 19年5月~敗戦
【飛行隊長】
石井弘文 大尉 (52期) 19年5月~8月
山本実三郎大尉 (53期) 19年8月~20年2月
【第2中隊長】
空 哲雄 大尉 (55期) 20年2月~敗戦
岡林竜之 中尉 (航士56期)
西村 敬 中尉 (航士56期)
石坂健郎 中尉 (航士56期)
池内正澄 中尉 (航士56期)
辻 嘉市 曹長 (下士89期)
福田瑞則 軍曹 (少飛10期)
三浦 軍曹
【整備隊長】
元 欣治 大尉 (54期) 19年5月~敗戦
【所属】
第二一飛行団
飛行団長:吉岡 洋 中佐
昭和19年5月6日
軍令陸甲第34号により、亀山(北伊勢)で編成を開始した。第二一飛行団を構成。
綾部戦隊長は軽爆よりの転科。
操縦者は学生課程を終了した航士、特操、少飛の技量未熟者が多く、中心は航士56期の6名と、少飛10期生6名。
機材の充足も遅れ、第二一飛行団(第七一、七二、七三各戦隊)の中では戦力が最も劣弱だった。
昭和19年8月下旬
滋賀県八日市飛行場に移動。
逐次到着しはじめた四式戦闘機による未修教育を実施。
第一二飛行師団に編入。
昭和19年9月17日
編成完結。
昭和19年9月21日
小月飛行場に移動。
昭和19年9月24日
福岡県雁の巣飛行場に移動、ここで対ボーイングB29「スーパーフォートレス」四発重爆撃機迎撃の戦闘法を訓練しつつ、北九州防空任務に就く。
昭和19年9月25日
B29の大村地区来襲時に迎撃したが、戦果なし。
昭和19年10月31日付
大陸指により、戦隊はフィリピン派遣を命じられる。
昭和19年11月11日
錬成不足ながら、戦隊長綾部少佐以下28機が雁の巣を出発、同時に整備隊長:元大尉等最小限の地上要員56人が九七式重爆撃機に分乗して同行。
上海に向かう途中、済州島沖で偶然、本土攻撃に向かうB29の2機編隊を発見、第2中隊(長:空中尉)の12機が攻撃。B29は海上に投弾して遁走下。しかし、この攻撃で第2中隊機は燃料不足となり、大部が済州島に着陸し、上海で本隊に合流した。
他にも故障の続発で落伍する機が少なくなく、上海、屏東を経て、11月14日にクラーク基地群デルカルメン基地に戦隊長とともに着いたのは、18機のみ。
一方、特操、少飛を中心とする未熟操縦者10数名は残留し、留守隊長:山井照男少尉(少侯24期)の下で、11月防府に移駐し、練成を続行した。
昭和19年11月19日
クラーク基地群は米艦載機群の終日にわたる波状攻撃を受け、デルカルメンの七一戦隊は、炎上9機、大中破5機の損害を出した[七四戦隊の百式重爆は全滅]。人員に損失はなし。
昭和19年11月20日
ポーラックに移動、その後、若干の機材を補充。
昭和19年11月23日
綾部戦隊長以下可動全力の6機がネグロス島マナプラへ前進した。
昭和19年11月24日
「第二次航空総攻撃」
基地上空の制空を行い、レイテ島に出撃する主力の出発と帰還時の掩護に当たり、来襲したロッキードP38双発双胴戦闘機を迎撃。
岡林中尉が戦隊による初撃墜を記録した。
【戦果】
71FR岡林 竜之 中尉(航士56期) ※撃墜:P38戦闘機1機
昭和19年11月末頃
戦隊はデルカルメンに後退し、機材の補給を受ける。
昭和19年12月上旬
戦隊はマナプラに再進出し、レイテ島向け増援・補給船団(多号第7~9次)、特攻機突入の掩護等に当たった。
昭和19年12月6日
「ブラウエン降下作戦」
第一八戦隊[3式戦Ⅰ型]、第三三戦隊[1式戦Ⅱ型]と協同。
【戦死者】
71FR 西村 敬 中尉 (航士56期) *ネグロス
昭和19年12月11日
「多号第9次輸送船団護衛」
パロンポン上空で有力な敵戦闘機群に阻止され、大混戦の中で計11機の戦闘機を損失。
七一戦隊も石坂健郎中尉ら4名が戦死。
【戦死者】
71FR 石坂 健郎 中尉(航士56期) *オルモック
ほか3名
昭和19年12月12日
【戦死者】
71FR 池内 正澄中尉(航士56期) *オルモック
71FR 辻 嘉市曹長(下士89期)
昭和19年12月14日
米軍がミンドロ島に上陸、ネグロス島は後方に取り残された形となった。
昭和19年12月24日
可動機0となったので、山本飛行隊長らがデルカルメンへ機材受領のため戻り、月末から正月早々にかけて、マナプラへ復帰した。
昭和20年1月3日
少数機によるタクロバン攻撃を実施。
昭和20年1月7日
「上陸船団攻撃」
リンガエン湾上陸に向かう輸送船団を、スール海で捕捉するため、福田瑞則軍曹は僚機の三浦軍曹と出撃したが、発見できず単機で帰投中、パゴドロ上空で五四戦隊の杉本 明准尉機と合流、スコールの中を、マナプラ飛行場への着陸進路に入った。
杉本機はファブリカ飛行場に向かったが、この時超低空で偵察に飛来したマクガイア少佐指揮のP38戦闘機4機と遭遇、先頭のリトメイヤ少佐機を撃墜した。
福田軍曹はその直後に高度300メートルで、残りの3機と正面から遭遇、小型爆弾と落下タンクを付けたまま、体当りの体勢で撃ち合って先頭機を撃墜したのち、残る2機と旋回戦闘に入り、1機に煙を吐かせたが、被弾大破して着陸した。米側の記録によると福田機に撃墜されたのが、マクガイア少佐機である公算が強い。
【個人戦果】
71FR 福田 瑞則 軍曹 (少飛10期) ※撃墜:P38戦闘機1機 撃破:P38戦闘機1機
昭和19年1月15日付
大陸指で内地帰還を命じられた。
昭和19年1月23日
【戦死者】
71FR 斉藤 武夫 軍曹 (少飛10期) *タクロバン
昭和19年2月2日
マナプラを脱出した山本飛行隊長機(綾部戦隊長同乗)は、パゴドロ上空でP38戦闘機に攻撃されて不時着、山本飛行隊長は戦死、綾部戦隊長は重傷を負った。
【戦死者】
71FR 山本 実三郎 大尉(航士53期) *ネグロス 事故 飛行隊長
その後
生存操縦者は逐次重爆等でネグロス島を脱出。ボルネオ(サンダカン、クチン)、仏印(ツーラン)やシンガポール経由で、3月末の岡林中尉を最後に内地に帰還した。
また、デルカルメンに残留していた空大尉らの操縦者は、1月上旬特攻隊に編入されリンガエン湾に突入し、生存者は台湾に後退、ついで内地に帰還した。しかし、ルソン、ネグロスに残った整備隊の主力は、陸上戦闘に参加した後、大多数が未帰還となった。
昭和20年4月1日
内地に帰還した戦隊は、防府の残留隊を基幹に、フィリピンより帰還した綾部戦隊長の下で戦力再建に入る。
『フィリピン戦における個人撃墜』〔筆者注:調査未完〕
岡林 竜之 中尉(航士56期) ※撃墜:P38戦闘機1機
福田 瑞則 軍曹(少飛10期) ※撃墜:P38戦闘機1機 撃破:P38戦闘機1機
*未完稿
【参考文献】
テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。
筆者注:調査未完のため、今後、大幅に加筆・改訂を予定しております。
初稿 2007-10-08
大陸令第十二号
ご訪問ありがとうございます。
ご無沙汰しております。
さて、当ブログは「日本陸軍戦闘機隊」より「航空戦史雑想ノート【陸軍編】」に題名を変更いたしました。
これまでは戦闘分科のみの記述でしたが、遅ればせながら全飛行分科を網羅するつもりで改めました。
ただし、当ブログに良くお寄りいただける皆様はご存知でしょうが、筆者は大変ものぐさで気まぐれですので、なかなか充実しないと思いますが、大風呂敷を広げるだけ広げた、などと思われぬよう、頑張って中身のあるブログにするつもりですので長い目でご覧くださるよう、お願いいたします。
飛行第七〇戦隊
飛行第七〇戦隊
【通称】
満第七一六
天翔第八三七〇
【飛行分科】
戦闘
【編成】
昭和16年3月5日
昭和19年7月30日
【編成地】
杏樹(満州・牡丹江北方)
東京城
【使用機種】
九七式戦闘機、二式単座戦闘機「鍾馗」」、二式複座戦闘機「屠竜」、四式戦闘機「疾風」
【最終所在地】
松戸(千葉県)
【戦隊長】
江山 六夫 少佐 (陸士37期/操28期) 16年3月~19年4月
長縄 勝巳 少佐 (少候15期/操38期) 19年5月~10月
坂戸 篤行 少佐 (航士52期) 19年10月~敗戦
【戦隊付・飛行隊長】
渡辺 啓 少佐 (陸士44期/操57期) 16年3月~17年8月
坂戸 篤行 大尉 (航士52期) 19年3月~10月 〔二中隊長兼務〕
河野 涓水 大尉 (航士54期) 19年10月~20年2月 〔三中隊長兼務〕
本多 寛嗣 大尉 (航士54期/転科) 20年2月~敗戦 〔一中隊長兼務〕
【第一中隊長】
中島 凡夫 大尉 (航士50期) 16年3月~18年6月
林 規矩夫 中尉 (航士53期) 18年6月~19年5月
本多 寛嗣 大尉 (航士54期/転科) 19年6月~敗戦
【第二中隊長】
太田 秦 大尉 (幹候/操64期) 16年3月~6月
田代 三郎 中尉 (航士51期) 16年6月~9月
青木 覚三 大尉 (少候14期/操29期) 16年9月17年7月
坂戸 篤行 大尉 (航士52期) 17年7月~19年10月
渡部 忠良 大尉 (陸士55期/操88期) 19年10月~敗戦
【第三中隊長】
土橋 正次 中尉 (陸士52期/操80期) 17年3月~19年3月
河野 涓水 大尉 (航士54期) 19年3月~20年2月
吉田 好雄 大尉 (航士55期) 20年2月~敗戦
【整備隊長】
向井 達観 大尉 (陸士55期) 19年4月~敗戦
【所属】
第一二飛行団
団長:青木 武三 大佐
三三戦隊と九戦隊の人員を基幹として九七戦2個中隊を編成、一二飛行団に編入。
昭和16年4月
東京城に移駐。
昭和16年12月
南方転用の第一二飛行団より離れ、満州に残留。
第三中隊を新編。
昭和17年8月
杏樹に移動。
昭和17年末~昭和18年春頃
大連地区防空のため、第一中隊が周水子飛行場に分遣された。
その後、他中隊と交代。
昭和18年5月
明野で二式単戦Ⅱ型に機種改編。
昭和19年2月23日
「ホ号演習」
戦隊長以下、二式単戦20機にて杏樹を出発。
威興、太刀洗、大阪を経由し松戸に移駐。
第十飛行師団の指揮下にて帝都防空任務に就く。
昭和19年2月24日付
大陸指により関東軍隷下のまま内地に派遣。
昭和19年11月24日
「関東地区昼間B29重爆撃機迎撃」
第十飛行師団司令部は隷下各戦隊に、警戒戦備甲を発令。
1110 第十飛行師団司令部は当直戦隊の飛行第七十戦隊と独立飛行十七中隊「百式司偵」の出動を発令。
「鍾馗」が柏基地を、百式司偵が調布基地を発進。高度10,000㍍で昼間基本配置をとる。
1200 空襲警報、発令。
【編成】
【戦果】
【被害】
【十飛師戦果】
撃墜:B29重爆撃機5機
撃破:B29重爆撃機9機
三〇二空戦果
撃破・B29重爆撃機1機
《米軍記録》
損失:B29重爆撃機2機(体当り1/洋上不時着1)
被弾:B29重爆撃機11機
*未完稿
【参考文献】
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筆者注:調査未完のため、今後、大幅に加筆・改訂を予定しております。
初稿 2007-07-15