輪廻転生について考えて見た! 


 それは検証も証明も出来ませんが、
ヒンドゥーでも、仏教でも、周知の事実で当たり前のものとされています。 


 人間が死ぬと、生きていた時、人間の生体として纏まっていた組織が壊れて行きます。

何故でしょう? 


 生きていた時には、有機物の塊を生体組織として成立させていた 何かが、あったのです。 


 死と同時に、その何か が離れて、
生体組織を保つことをやめたのですね。


 生前、その人の生体組織を保っていたのは、なんでしょうか? 


 死後、【私】が存続するか否かは、

誰にも確認できません。

【私】を確認する為の【肉体】が、

死後は、機能してないのですからね。


 その何かとは、昔から【魂】とか

【霊魂】とか言いますが、

【魂】とか、【霊魂】と言うと

何だかわかりませんね。


 分かり易くすると、それが【心】です。生きている時でも、【心】自体には、姿形も重さもありません。


 生きている時は、誰でも、【心】が肉体を使って活動しています。

肉体が死ぬと、【心】はそこには居ません。


 【心】が離れていった肉体は、機能を停止して朽ちて腐って分解されて行きます。

その様に【心】は、有機物の塊を肉体として機能させているエネルギーと言えるのです。 


 エネルギーは、物ではありませんね。
光も熱もエネルギーが姿を取ったものの一つです。

エネルギー自体には、姿形がありません。

その様に【心】とは、

姿形の無いエネルギーと言えます。

その【心】と言うエネルギーが、肉体を作り出し、活動して、肉体の耐用年数が尽きれば、死にます。

死ぬと【心】は、その肉体を離れ行きます。【心】の離れた肉体は、単なる物質に帰ります。

肉体を離れて【心】の存在は検証できません。しかし、少なくとも、肉体が生存時には、

【心】が肉体を使っていた事を誰でも知っています。

唯物論では、脳が【心】を作り出すと考えますが、脳内を幾ら探しても、
神経伝達の神経細胞とそこに流れる信号以外見つかりません。

【心】とは、神経回路でも無く、

そこに流れる信号でも無いのです。

脳から取り出せるのは、神経に流れる信号であって、概念や、思考の自体を取り出すことはできません。
神経を流れる、微弱な電気信号は、

脳以外の身体部位でも観察できますね。

現代には、TVがあります。
微弱な電気信号でも脳内にあれば、

何故、人が見ている映像が

取り出せないにでしょう?

(未来の科学では、
可能になるかもしれませんが、、、。)

映像は、スクリーンでは無く、

【心】に投影されているからです。

【心】とは、【運動】の様に、
物体では無く、動きや流れにつけられた
名称です。

【心】も【運動】も、概念として存在しますが、

物として、存在しません。





音楽もそうですね。

楽器の中をいくら探しても、

音楽も、音も見つかりません。

ですから、
脳内を幾ら探しても【心】と言う器官はありません。

体内には、呼吸器官、消化器官、循環器官、運動器官(筋肉)などが、あるのに、
何故、【心】と言う器官は、脳内にも無いのでしょうね?

【心】とは、思考すると言う行為に付けられた名前だからです。

思考すると言う行為は、認識対象の肉体には、

ありません。

肉体は見られている客体ですね。

目も耳も鼻も舌も身も意も見られる対象です。意とは、五感からの信号を概念を使って認識する機能です。

脳はこの機能の一部と考える事が出来るかもしれません。

思考する機能自体は、生きている時にも、物理的世界には、ありませんが、
死んでからも、物理的世界にはありません。

生きていても、死んでいても【心】と言う思考する機能は、どこにも、確認できないのです。

ただ、我々は、その様な【心】の働きがある事を体験して生きています。
【心】は、思考して判断して、行動します。これを日々体験しています。

【心】の流れを日々体験しているだけです。

この想念、思考の流れとは、

目に見えない、エネルギーの流れとも言えますね。

【心】が、感覚を受信し、概念を作って理解し、思考し、判断し、肉体に行動をさせます。

この活動が【心】と言うエネルギーの流れを産みます。

【死】と共にこのエネルギーの流れは、
何処に行くのでしょうか?




肉体や、感覚器官のどこを探しても見つからない、

【心】と言う目に見えないエネルギーの流れは、生きている時も目に見えず、死んでも目に見えません。
肉体が死んだからと言って、そのまま、

心の流れが、消えてしまうとは考えられないのです。
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仏教では、
【私】とは、肉体の感覚器官の信号に対して現れる認識であり、生きている間中、不断にその認識が連続して続くと言います。

従って、【私】とは、何か固定した本体はなく、不断に変化し続ける認識の連続であると言います。
その【流れ】が、【私】です。

【流れ】とは、動きですので、
【魂やアートマン】と言う【不変不滅の本体】は無いと仏教では教えます。

つまり、
輪廻転生の主体としての
魂やアートマンは無いが、

心と言うエネルギー流れがあり、
その流れが、輪廻転生を作る。

流れを作るものは、水だが、流れは、状態である。流れ終われば、流れは消えるが、流れ終わっても、それが水であることに変わりはない。




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凡夫が【私】だと思うものは、流れである。人生と言う流れが終われば【私】は消える。しかし、【私】と言う流れを作っていた【心】は、変わらずに【心】である。

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私を流れと言う運動に喩え、

その流れを作る心を、水に喩えています。

そうすると、

流れを作っている、心と言うものが

存在することになります。

サーンキャ哲学では、流れを作る素材を

自性プラクリティと言います。

唯識派では、意識つまり心を、唯一の存在としているので、中観派の否定した自性、スバヴァーバの存在を認めていることになります。

これを、光輝く心の本性と言っています。

サーンキャ哲学では、心は、認識の対象ですので、

唯識派が悟ったのは、自性の本性となります。


サーンキャ哲学では、

自性を悟っても輪廻すると言います。





唯識派の、光り輝く心の本性と呼ばれるものは、

阿頼耶識とも呼ばれます。

これは輪廻している間ずーっと、輪廻の主体として存続するしますが、心の泉が、枯れると消えてしまいます。

存続中も、永遠不滅の実在では無く、因縁によって常に中身が変化し続けます。

凡夫の思いは煩悩と共にずーっと変化していきますので、輪廻の原因になっている、心の核の様な阿頼耶識も常に変化していきます。


ですので

阿頼耶識も不滅実在ではなく、無常であり、因縁仮和合で、成り立っているのです。

その為、

阿頼耶識は、実体はなく空性であるとされます。


阿頼耶識には、輪廻の原因になるカルマが詰まって汚れているので輪廻すると言うわけです。


これが修行で清まると、

光り輝く心の本性が現れて、

悟りに至ると、唯識派は考えるのです。


サーンキャ哲学では、これをコーザル体と呼びます。

瑜伽行唯識派と言うのは、やはり、ヨーガ哲学を取り入れているからですね。


般若心経をグルグルとエネルギーを作り出す形で写経して行きます! 考えるな!感じろ(⁠◠⁠‿⁠・⁠)⁠—⁠☆

私が成立しない処で私でも他人でも無くなった私は、もはや、私とは言えない。ゆえに無我である (⁠•⁠‿⁠•⁠)v


自我と言う私が、成立しない処で、私でも他人でも無くなった私は、もはや、私とは言えない。ゆえに無我である (⁠•⁠‿⁠•⁠)v


仏陀は、輪廻の消滅または、輪廻からの解脱を求めたのですから、唯識派の自性の悟りは、仏陀の悟りではありません。


唯識派の心の本性の悟りでは、認識している私とその対象の光り輝く心の本性の2つが存在しているので、

完全なる無我の境地である滅尽定では無いのです。


仏陀は、心の流れを、作り出している原因を突き止めたのです。それが、【無明】です。サーンキャ哲学では、我執 アハンカーラと呼びます。

現代の言葉では、【自我】と呼ばれています。


輪廻転生の原因になっている、【無明】が、

無くなれば、輪廻転生は消えます。


無明には、渇愛と執着と言う働きがあります。

そこから貪瞋癡と言う心の活動が生まれますね。


自我がある限り、煩悩の泉から、心が湧き出て、

五つの執着の川の流れとなります。

これを五執蘊といいます。

自我が、活動を、停止すれば、心と言う煩悩の川の流れは止まり、解脱するのです。





▽▽▽

Again!

▽▽▽


【私】は、幻であり、その状態を作っていた【心】こそ、【本当の姿】であると考えるのが唯識派である。

この心を浄めることが、悟りである。と考えるのが唯識派である。

が、仏陀は、そうは言って無い!

この【心】と言う流れは、何処からはじまっているいるのだろうか?

【渇愛と執着】と言う、【煩悩の泉】から【心】は流れ出る。

故に、仏陀は、この【渇愛と執着】を取り除く方法を教えた。

【渇愛と執着】を生み出すものは、
【無明】である。

【無明】とは、現代の言葉で言えば、
【私=自我】である。
実は、この【私=自我】は、幻覚であって、存在しないことを、知る方法を仏陀は教えたのだった。

唯識派は、
【心=意識→実体は無い→空性】
を唯一の真実とすることで、
宗教哲学になってしまった。

同じ理由で、アートマンを実在と考えるヒンドゥー哲学では、仏陀の悟りに到達できないのである。

そう言う意味では、ヨーガスートラの
【アハンカーラ=自我から心が生まれる】
の方が正しい。

それもそのはずで、仏陀の最後のヒンドゥー教の師匠は、サーンキャ学派の行者だったのだから。

★自他を区別する機能がアハンカーラだとすると、これを消滅させた時に残る、我=プルシャの意識に、自他の区別があるのだろうか?


Shirdi Sai Baba, was an Indian spiritual master and fakir, considered to be a saint,  revered by both Hindu and Muslim devotees during and after his lifetime.


シルディサイ・ババは、聖典サイサッチャリタで、繰り返し【個人の名前と個我を忘れることで、全ては、神である。と言う悟りに至ることができる】と言う意味の事を言っている。

サティアサイババは、
アハンカーラ=自我と、真我=アートマンは、認識の方向が違うだけで、同一のものである。と言う。

【気づきの瞑想】で、私が無いという事を悟るのは、明らかに自我 (アハンカーラ)では無い、【私の居なくなった私】と言うべきものである。

これを名付ける事は出来ないとするのが、仏教の無我の立場であり、

これこそ永遠不滅の実在原理プルシャ
とするのが、サーンキャ哲学である。
サーンキャ哲学の最高の悟りは、
私が、居るとも居ないとも言えない状態。
【非想非非想処】と言うが、

仏陀は、『少しでも【私】があるなら、
必ず輪廻に引き戻される』と言う。

仏教の悟りは、完全に【私】が居なくなった状態。

【滅尽定】である。



心を慈悲で回転させることで、如来の慈悲と同調させ心を、浄化する【慈悲の瞑想】です。