目の前のタイムラインの川は、
それぞれのエゴ(自我)が作り出す自己顕示欲と
認証欲求を良く見せてくれる。
同時に、それが閲覧者に依存しているとい言うことも、、、
何一つ独立して存在するものは無い。
ヨーガはプルシャ=真我を認識主体とする。
主体と言った時点で、その概念は客体と言う概念が無ければ存在し得ない。主体は客体に依存しなければ存在できないのである。
故に、真我も独立した永遠不滅の実体では無く、客体がある時に相対的に現れている存在で有る。従って、プルシャ=真我も無常である。
仏教は、無常無我である。
ありもしない【真我=アートマン】という概念に執着する余り悟りに至れないと言う。
現代の言葉で言えば、
【真我=アートマン】とはハイヤーセルフであり、
【無明、無知】とは、ありもしない
【私】に執着する【自我】である。となる
無は、意識性(認識主体)であり、
有は、見られる心(客体)である。
全ての霊界天界は、どんなに高くても
心の世界、客体としてある。
従って、
どんなに高い天界であろうとも
そこは悟りでは無い!
従って、
どんなに高い天界を見て来れる
霊能力者も、覚者=仏陀タタガターでは
無いのである。
善業尽きて今は人
前世が神だったとか天使だったとか、XXX星人だったとか仏だったとか言って、自分を凄い存在に見せようとする人が沢山いる。
百歩譲ってそれが真実であったとしても、
「今、あなたは、自分を、他人と差別して、偉く見せることでプライドを保っている、凡夫の中の凡夫ですよ」と言うのが現実である。
その人が前世で神であったとしても、
善業が尽きて天界から転落したその人の
今は、自分の髪の毛の色一つ変えられない、
ただの人間であると言うのが現実である。
そのような偏見からマズ自分を
解放してはどうだろうか?
善業が尽きれば、神々であっても、何処に転落するか
予想もできないのが、六道輪廻のこの世界である。
と仏教では説かれている。
無は、有と同時にある。
それは状態であり、実体はない。
故に、
ヨーガの言うコーザル体とは状態であり、
それに永遠不滅の実体は無い。
何か不滅の玉があると考えるのは
空性を学んだ意味が無くなる。
ホツマツタエにもタマとシイを結衣合わせて魂(=コーザル体)を作ったとあるが、それは状態であって一時的にあるにである。その証拠に、ホツマツタエでは、魂にもこの世にも寿命がありその長さの記述もある。
仏教では、真我のような永遠に壊れない
不滅の玉は無い。無我という。
では、真我に至るのでは無い、
仏教の悟りとは何か?
仏陀のニルヴァーナは、
ヨーガのプルシャ=真我でも無く、
ヒンドゥーのアートマンでも無く、
大乗仏教の菩薩の悟り空性でもない。
(空無辺処でもまだそれを認識している者がいるからである。認識が有る以上相対的世界を超越していないのである)
仏陀(タタガター)のニルヴァーナは、
存在の有無、生命の生死を超越した彼岸である。
一切皆苦 諸行無常
諸法無我 涅槃寂静
⬇︎ #身延山