概念の階層、概念のヒエラルキー
人間と言う概念で括ると、
鈴木さんも、山田さんも、同じ、人間です。
動物と言う概念で括ると
犬も、猫も、熊も、ウサギも、人間も、猿も
みんな動物です。
植物葉と言う概念で纏めて認識すると、
松の葉も、大葉も、葉蘭、朴葉も、
葉と言う認識ですね。
ビプロプ君
と言う名前の付いた水素原子も、
フルメンドちゃん
と言う名前の付いた水素原子も、
水素原子と言う概念で認識すると同じです。
夜空も、曇り空も、青空も、
空と言う概念で括れば、一つになります。
非存在と言えるゼロも、1から無限も、
数と言う一言で表す事ができます。
0(ゼロ)や、1から♾も、
数と言う概念より下位の概念です。
犬、猫も、動物と言う上位概念で、
一言で纏める事が出来ます。
全ての概念の最上位にあるのが、
仏教で言う空性涅槃です。
道教では、道(TAO)です。
ヒンドゥの不二一元論では、
パラブラフマンです。
私と他人、私と世界の境界線が消えると
もはや、今までの私はいません。
元祖ワンネスの
不二一元論の悟り、アートマンの悟りとは、
存在の最上位の概念に至ること。
しかし、
存在である以上、非存在によって成り立ちます。
それより上位概念が、空性の悟り。
アートマンには、
サッタ、チッタ、アーナンダと言う
属性があります。
属性がある。とは、
まだそこには、境界線があり、
自他の区別のある世界です。
ヒンドゥー教の最高の境地、
非想非非想処においても、それを体験している自己がある。自己がある以上、自己以外の他があり、それが客体として存在する無常なる世界。そこでは、解脱しない。
故に、仏陀は、属性のある
アートマンを悟っても解脱しない
として、最後のサーンキヤ学派の師匠の元を去りました。(ブッダチャリタ参照)
自他の区別が無く一才の属性の無い処が、
彼岸であり、そこが涅槃。
私と言う意識が消えてしまった処に住まう仏陀は、
自分自身を表す言葉として如来と言った。と伝えられている。
如来(にょらい)とは、サンスクリットのタターガタ(梵: तथागत, tathāgata)の漢訳
不二一元論の悟り
仏陀以降のヒンドゥー教哲学は、仏教の非常に大きな影響を受けている。
ヒンドゥー経典『ブラフマ・スートラ(5世紀前半ごろ成立)』が成立してからシャンカラ(700年 - 750年)が活躍する時代までに、ヴェーダーンタ学派の思想は仏教の影響を受けて大幅に変質した。シャンカラは仏教化したヴェーダーンタ哲学を、原点であるウパニシャッドに立脚して本来の在り方に改革した。シャンカラは、仏教的要素にヴェーダーンタ的解釈を施して取り込む形をとった。これにより、実在論的ブラフマン一元論であったヴェーダーンタ哲学は、幻想主義的ブラフマン一元論へと変容した。
全てが私。といえば、
私と言う個人、自我が消える。
自他の境界線が消え、個人としての私が消える。
処にいる私が、神我。
自我とは自他との結界のある状態。
凡夫はこの結界から出られない。
ヒンドゥー教の神の化身 サティア サイババは、
有形のブラフマンをサグナブラフマンと呼び、
一才の属性の無いブラフマンをニルグナブラフマン(パラブラフマン)と呼ぶことで、一才の属性の無い境地を最高の悟りとしている。
当然、この次元においては、自他の区別により生じる凡夫が私と呼ぶ意識は無くなっている。
ババは、
自我があるのが、人間であり、
自我が無いのが、神(バカヴァン)です。
と言います。
大乗仏教では、バカヴァンと言う言葉は、悟りの境地にいる如来を表す言葉ですね。
サンスクリット語の「Bhagavan(バガヴァーン)」「Bhagavad(ヴァガバッド)」、覚れる者という意味で”Buddha(仏陀、ブッダ)と同義語を漢訳している。 漢字では「婆伽梵」「薄伽梵」と書く。
ヒエラルキーがある以上、
無常の世界、無明の二元性の世界です。
ですので、
それ、 ヒエラルキーを教える教祖や、他と比べて自分が優れていると自分自身の偉大さを強調する者は、100%解脱し、悟っていません。
悟った者は、凡夫の持つ私意識は、完全に消えているので、私を主張することは無いと言われています。
如来、バカヴァンと呼ばれる存在は、ヒエラルキーに依って、人を、差別し、偏り見ることは、ありません。
悟りも、解脱も、仏教の用語でもありますので、明確な定義があります。それ以外の定義は、勝手な都合で、その人が言っているにすぎません。
1〜♾の世界は、相対的世界であり、どんなに高い天界と言えども、主体と客体のある六道輪廻の世界です。1〜♾の世界ですから、10次元でも千次元でも万次元でも幾らでも出来ます。
しかし、それはどこまで行っても相対的認識の世界です。解脱とは、仏教世界観のセンブ州から出ることでは無く、人間存在から出ることでも無く
☆存在の世界=六道輪廻から出ることです。
これが仏教の解脱の意味です。
存在の世界では、
自他を区別して【私=自己】は現れます。
存在の世界を超越すると【私=自己】は成り立ちません。そうなった人が悟った人です。その為、その人は、自己を主張しません。
私が居ないなら、誰が悟るのか?
私がいる場合の悟りは、
【わたし】と、【私が認識している悟り】がある訳です。
しかし、
認識する者とされる者がいない状態が悟りです。
悟りの世界では、私とそれ以外の二元性の認識が、
消えるのだから、一般人の言う私は居なくなるのです。
それが仏教の無我の悟りであり、涅槃寂静です。
無限の輪廻の苦海で苦しむのは、凡夫の【私】である。悟った者は、輪廻しない。
因縁仮和合で一時的に生じている表層の【私】は、生まれて死ぬ。心は、今生の【私】のカルマ(行為)を刈り取って次の人生を創り出す。
私と、他者という認識の境界線を超越すると
悟りの彼岸に至る。
【私=個我意識】が消え不生不滅となった、悟った者はには、もはや、凡夫の【私】は成り立たない。【私】が居ないから【輪廻】もない。