ヒンドゥと仏教の悟りの違い
凡夫の私なりに、考えてみました。私の偏見でもありますので、
その程度の意見です。凡夫の参考メモ
ヒンドゥー教の悟りは 1=∞ 不二一元
ヒンドゥー教の悟りとは、
全ての存在 (あなたも私も動物も草木も鉱物も自然も宇宙も)が一つであると悟ることである。
1=∞ を知り体験することである。
ヒンドゥの悟りは、ワンネスであり、 全ては一つであると言う、宇宙、世界の根源意識を悟り体験することである。
◎世界のすべて、自然のすべて、そして、あなたが戦っている敵や、あなたの嫌いな人を作り出しているのも、あなたを作り出しているのも、本当のあなたであるところの神我である。それを体験的に知ると相手に対する全てのネガティヴが無意味であることに気づくのである。
あなたのアートマンは、ブラフマンと同一である。
ヒンズー教は、基本的に、存在の究極の形であるワン(ワンネス=不二一元=Advaita Vedānta)を信仰しています。
究極のワンネス!サイババの教え
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仏教の悟りは ( 1=∞ vs 0 ) < 空 (śūnya) である。
仏教の悟りとは、存在 1=∞ と非存在の0を包含しこれを超越した状態と言える、空=スンニャ>0に至ることである。
全てワンであると知っても、それは、
無常の本質を悟ったに過ぎないのである。
1=∞と言う存在の全てを知ってとしても、やはり、それは、絶対的無=ゼロによって支えられた、相対的概念である。
仏教は、
1=∞→有る vs ゼロ=0→無い
を包含し超越する悟り、空を説くのである。
仏陀は、
相対的世界を超越したところを彼岸とします。
仏教では、アートマン、ブラフマンと言う究極の宇宙意識も因縁仮和合な無常です。 それは、属性のあるものは全て無常なる二元性の世界にあるので解脱した存在ではないのです。属性とは二元性の中でのみ成立する概念だからです。最も高い天界の神々もそこが悟りの世界だと思っているので、解脱出来ない。と言われています。私と言う意識は、私と他を識別することで生まれてきます。二元性の出発点ですので、私を超越しなければ、悟りに至ることは出来ないのです。
Q,私が居なかったら誰が悟るのだろう?
A,
ヒンドゥー教のアートマンとは、究極の存在としての私を悟った状態です。それをワンネスと言います。
しかし、仏教では、
私と他人という、二元性の意識を超越しそれを包摂する意識に至ることが悟りです。私と言う認識主体が消えることで、存在と非存在、生と死と言う、二元性の世界が消えます。そこに存在を超越した不生不滅の悟りが現れます。その為、仏教では、無我、ゼロというのです。
実のところ、
ヒンドゥー教の女神のタントラでも同じことをいいます。また、先程のサイババ言葉にニルグナブラフマンとありますが、それは無色界ではなく、一切の無い世界です。
★存在と非存在を超越した涅槃に至った覚者、仏陀、阿羅漢は、どんなに高い天界を探しても見当たらない。天界とは、どんなに高くとも、存在の中にあるのだから、そこに覚者、仏陀、阿羅漢は居ないのである。
仏教は存在を超越するゼロ<空を目指しています。
それは有と無を
包含(包摂)する空性(śūnya)です。
包含とは、上位の概念と捉えることができます。
犬も猫は、種類としては別の概念ですが、
動物と言う概念で捉えると同一の概念です。
動物とは、動物の種類を表す概念より上位の概念であると言えます。
仏教では、
地獄の存在、餓鬼界の存在、動物界の存在、羅刹、阿修羅界の存在、人間界の存在、また、天界の神々、つまり、欲界の存在、色界の存在、無色界の住人も全て、輪廻の苦海に、迷える衆生、凡夫という概念に含まれます。
六道輪廻の存在は、存在と非存在のある世界に生きて死にます。六道輪廻の存在は、存在の有無が常に移り変わる、二元性の世界、無常な世界に生きています。
存在と非存在が繰り返される無常な世界の
上位の概念が空性です。
まとめ
ヨーガ哲学は、最高の実在。
プルシャ唯我独尊カイバリヤの悟り。
ヒンドゥ教不二一元論は、最高の実在、
アートマン=ブラフマン。
ワンネス (1=∞)の悟り。
仏教は、存在を超越した空
ゼロ<空性涅槃の悟り。
タントラ、密教、唯識派は、唯、識(心)がるのみ。
ワンネス (1=∞)の悟り。
★これらは、皆、真理に対する見解と考えるべきかもしれません。真理は、概念、言語にした途端、その言語概念に限定されて、真理本来の、無限、不生不滅の姿が失われてしまいます。
しかし、我々、凡夫には、言語で語って聞かせるしかし理解する方法がないので、聖者たちは、それぞれの言葉で教えたのです。
一見矛盾する様に聞こえてもそれぞれの立場で真理を解りやすく言語化してきたのです。
例えば、山岳地帯に生まれてその土地から出たことの無い人に、太陽は何処にも涼むのか尋ねれば、当然、遠い山の向こう側に沈むというでしょう。
しかし、
海辺に住み何時も海の見える処で暮らす者に、同じことを、尋ねれば、当然、太陽は、海の向こうに沈む。と言うでしょう。
生まれた時から、街に住んでいる人は、太陽は、ビルの谷間に沈むといいますね。
どの人も、その人から見た真実を語っているのです。
そう言った、それぞれの視点から見た真実を、見解と呼ぶ訳です。
ですので、自分の信奉する主義以外は間違えとして排除していくのは、如何なものでしょうか?
それは、単なる自我の主張であり、
仏教的に見れば、それはエゴという、主観に依って判断した、偏った見解である。偏見である。となります。
あらゆる聖人が共通して言うことは、
エゴと、愛は相反すると言うことです。
人間には、エゴ=自我があるが、
エゴ=自我が無いのが、神である。
エゴとは、真理を、遮る雲であり、
エゴ=自我がある限り、
悟りに至ることは出来ないと言われています。
勝義諦と言う、涅槃寂静の如来の視点においては、
この世は、無常であり、空性であり、無我です。
世俗諦において、無常な六道輪廻の世界は、
仮に一時的に現象として現れて、消えていきます。
自我とは、認識に依存して、一時的に現れてくる現象
ですので、消えて行きます。無常なものです。
この世を肯定する道、ヒンドゥー教でも、
否定する道、仏教でも、最終目的地は、解脱です。
本来、そこを1=ワンといっても、ゼロ=0と言っても
正しくはありません。何方も、存在の有無つまり、二元的世界だからです。
正しく言うとしたら、
そこは、存在の有無、1をも0をも、を超越した世界だとだけ言えるのです。
言語は、二元性で成り立っているのですから、悟りを言語では説明することはできないのです。
Hinduism ascribes to the ultimate form of existence, the one.(Advaita Vedānta)
Buddhism aims at the zero (śūnya)that transcends existence.
It is the path (śūnya) that embraces yin and yang, being and non-being, zero and infinity (being).