私とは誰だ? 

 西洋の凡夫は、我思う故に我あり。
と言う。
つまり、思いが、私だと言っている訳だ!

しかし
 東洋では、思いの雲が晴れると
自己が現れると言う。

 私が思う。故に私は正しい。
私が知らない、理解出来ない事象は、
事実では無いし、あり得ない。
 と思う❬自我の病❭を患っているのが
凡夫=人猿。

 人猿は、自我❬欲の塊❭を否定されると必ず怒る💢

 幼稚園児ですら
これが原因で喧嘩をする。
 思いの流れを❬私だ❭と、勘違いするのが
❬自我❭である。

弟子よ!
❬偽りの私❭を殺せ!



単なるNuage の参考メモ



ヒンドゥー教の悟りとは?

宇宙全体の意識、ブラフマンとの合一である。

不二一元論⇒ワンネス思想


ただ、意識の流れのみがある。ヨーガヴァシシタ。


原始仏教

現世を否定して究極の悟り❬幸福❭を目指す道

現世❬六道輪廻❭ vs 彼岸❬涅槃❭

アートマンは無い。

諸行無常 諸法無我



後期大乗仏教

菩薩となって全ての衆生を救おうとする道

仏性 真如 如来蔵

衆生は元々仏であって、本来、既に救われている。



♂プルシャ⇒仏性⇒アートマン⇘

    ブラフマン⇒パラブラフマン⇒真如⇒涅槃

♀プラクリティ ⇒ 自性清浄心↗



♂プルシャ==認識主体

 =自己=仏性⇒非存在⇒アートマン


♀プラクリティ=客体=心 & 物質

 =五蘊⇒存在⇒無常無我⇒❬サグナブラフマン❭



♂+♀太極⇒全体

⇒パラブラフマン❬ニルグナブラフマン❭

有無を包摂する概念⇒無極



オリジナルの仏陀の仏教は、
ブッダチャリタによれば、一切、存在を超越して全て苦しみを終わらせるために、六道輪廻から、解脱を求める道である。人間や、デーヴァ(神々)を卒業しバカヴァーン=如来に至る道である。
【この世を否定し解脱に向かう道】


これに対して究極の存在である、宇宙意識ブラフマン=アートマンに融合しようとするサーンキャ ヨーガ哲学やヒンドゥーの不二一元論=元祖ワンネスは、【この世を肯定する道である!】

後期大乗仏教時代になると、密教化ヒンドゥー教化して現世肯定の宗教になる。

さて、
私とは何か、自我とは何か?

それは、結局のところ
因果律であり
因縁仮和合である。

【私がしている】と思い込んでいる思考も結局は因果によって思考させられているに過ぎない。

そして 私とは
因縁によって、一時的に、
生じた、その時々の思いの束に
つけられたラベルにすぎない。

名前だけが付けられた
中身の空っぽの器である。
ダライラマ


一般人は 生存本能=貪瞋痴の働きで、
この器に溜まった想念のゴミを
を【私だ!自我だ!】と言い、

その思いに束やその流れを個性と呼んで、固執して、その流れに巻き込まれ、因縁の下流に流されて行く。
【結局のところ、行き着く先は
四苦八苦しかない。何故なら、この世の喜びとは苦しみとセットでしか存在出来ないのだから。】

実のところ、この世の一切は、常に移り変わり
続けて、止まない流れであり、
昨日は、素晴らしかったことも
今日は、新鮮さを失ってしまう。
子供の頃の私はもう何処にもいない、
それどころか
昨日の私、1時間前、一瞬前の私すら
もういない。
それを思い出しても、
もう、それは非現実でしかない。
過去も未来も、
もう、想像上の産物でしかない。

それを私だと思い込んで、
その思いに巻き込まれている
喜んだり、悔やんだり悲しんで、
恨んだりしている限り、
我々の苦しみは終わることがない。

どうしたら、
我々は、私ではないものを
私だと思わせて、巻き込んで
押し流して行く、
思いの川を渡ることができるのだろうか?

思いの流れに飛び込んで、
どんなに探しても
無限に折り重なる思いの川の法則や仕組みは見極める事はできない。

流れは無常であり、常に移り変わるのだから、
無常の中にある天界も霊的世界も常に変化して
掴み所がないのである。

また、
流れごとに作り出す世界は異なるのだから、
国ごと、宗教ごと、民族ごと、村ごと、一族ごと、に異なった霊的世界階層があるのだから、無限にある霊的世界を探求しても、見極めることは難しい上、其々が矛盾することも多いだろう。
例えば、同じ古代神道でも
ホツマツタヱの世界観と
カタカムナは異なる。
グノーシス主義の天球層とカバラの世界観は本来同じルーツであるが、照応させるには矛盾が生じる。スピの親玉の寄せ集めの宗教、神智学ともなると全く照応しない。

一見、真理の探究の様に見える、
霊的世界の探究にしても
結局のところ、単なる知識欲であり、自我を満足させる為の相対的、二元的世界の知識欲🟰煩悩でしかない。
一つを極めたとしても、次から次へと新しい知識情報が見えて来て、際限がない。

相対的な現世の知識や知恵では
【悟り】と言う【究極の安穏】
に至る事はできない。
どんなに★高い霊的世界★も、
それは
【創造された世界=無常の世界】である以上、
【悟りの世界】ではない。

仏陀もサイババも言う様に、
知識や霊的修行では、
悟りに至る事はできないのである。

仏陀は、世の中の全ての★霊的修行を行ったが、これによって悟りに至る事は出来ないとの結論に至った。

世の中では、勘違いをしている者が多い様だが、

そう言う理由で、
【霊能者🟰悟った者】ではない❗️
のである。

仮に、霊的世界の仕組みを見極めたところで、相対的世界、無常なる世界の【苦】から逃れる手段にはならない。

数多ある霊的世界に対して仏陀は、世界の一切とは何かを教えた。

それが、【五蘊】である。
霊能力を得てあらゆる世界、霊界を見て回っても、結局は、あなたは、あなたと言う色眼鏡【偏見】を通して見るのだから、
そこに映らないものは、あなたには決して見えないのだから、あなたにとって世界の一切は、【五蘊】である。

【偏見】と言う理由は、仏教において、サティーと言う【正見】で物事を観察できない凡夫の視点は、全て【偏見】または、捏造概念による認識とされるからである。

数多ある世界を見て回っても、結局
世界の本質は掴めない。
それよりミクロな世界である【五蘊】を知ることによって一切を知ることができると言う訳だ。

さて、
心は、無限に浮かぶ思いの一つ一つに
これは私の思い、これは私の気持ち、と言うふうに一々、スタンプを押していく。それによって、我々は、心に浮かぶ思いを私だと思い込んでしまう。
感覚器官に対する反応として、心に思いが浮かんでくるのだが、基本的にその全ては生存本能に基づいている。
生存に対して有効でそれを助ける事象を良いもの→【快=膳】とし、その逆は、【不快=悪】となる。
また、心が、思いに対して、これは私のもの、私の思いとスタンプを押し続ける事で、自我🟰私と言う意識が生まれるが、自我意識のはじまりは、私か私ではないかの判断によっている。
よって自我は、二元的相対的な世界の中に仮に生じるものであると言える。
死に際して外部からの認識対象は全て失われるのだから、生存中の日常的な意識は自ずと消えるのである。

マインドフルネスでは、
思いの川に巻き込まれ、
そこで溺れている意識に救いの手段を提供する。

それが[気づき]の意識である。
思いの川の辺りに立って
川を眺めてみるのである。

一般人が
私と思い込んでいる、
個性と言うものを作っている
思いの流れは、
実のところ、
気付かれているもの、
私に、認識されているものである。

つまり、自我とは、【気付かれている側】の総称であり、実体の無い概念である。

【気付いている意識】が【サティー】である。

ヨーガでは、【自我🟰アハンカーラ】とは違う、【気づく者】である【認識主体、本当の私】を【真我】と呼ぶが、仏教では、これを認めず
【無我】である。

何故なら、
アートマンを認識主体と定義すると、その存在は、客体が無ければ成立しない。故に、それは
結局のところ、二元性の概念になってしまうからである。

❇︎ブラフマン🟰アートマン
に属性とは、
【サット・チット・アーナンダ】
実在(存在)・意識(自覚)・歓喜(至福)。 である

この点については、女神のタントラでもおなじ意見である。
詳しくは、曼荼羅真理アート講座のシュリヤントラの動画で解説しておいた。
仏陀には、
究極の存在形式のアートマンですら、因縁化和合であり、ゴールの解脱ではなかった。

❇︎属性のあるものは、全て因縁によって仮に生じたものであるから、
究極の存在形式のアートマンであっても無常である。

この結論によって、仏陀は
最後に立ち寄ったしたヒンドゥー教サーンキャ学派の師匠からも離れて、一人で苦行に向かったと言われる。
最終的に
アートマンと言う、二元性の概念を超越した
悟りの世界に行った者を如来=バカヴァーン名付けたのである。

悟った者の正見からすると
六道輪廻の中にいる全ての生命、
天界の神々から地獄の住人までは
因縁が和合して仮に生じた様に見えているだけであり実体は、無いのである。天界の神々も解脱していないのだから、仏教的には凡夫となる。

しかし、貪瞋痴で回転するしか知らない苦しむ者【人間】に、それをいきなり言っても、役に立たない。

存在自体が非存在と対になる概念であるから、自性も真我も【究極の存在】であっても、存在である以上、本質的に実体は無い。
仏教の悟りはその様な存在を超越したところにあるのだから、この世の概念や知性や言葉では説明がつかないのである。

仏陀の瞑想の流れを汲むマインドフルネスでは、

普段、思いの川に巻き込まれ、
押し流されている者に、行き成り
心を見る瞑想、と言っても、良く解らないので、身体を観る、【気付きの瞑想】からスタートする。