昨日(10/26)の朝日新聞の夕刊に、艾未未監修による毛同強個展「I have a dream」の記事が出ていた。
艾未未は、北京五輪の「鳥の巣」の共同設計者として知られるアーティスト。
作家自身よりも艾未未のキュレートであるということが大きく報道されることにも驚くけど、まあ、話題のひとということなのだろう。でも、その個展の内容のほうにわたしは惹かれた。
今回の毛の個展は、キング牧師の著名な演説の内容を西夏文字へと翻訳し、ひと文字ずつ石に刻んだものらしい。全2300文字、重さ47トンの作品! ちょっと記事を引用する。

<<キング牧師の掲げた「民主、博愛、自由、平等」を、「人類の普遍的な価値」と語る毛。だが作品ではあえて対極の、世界で分かる人がほとんどいない文字と結びつけた。地球上の誰もが時を超えて同じ夢をもち得ることと、ある言葉の真意や精神を伝えることの困難さ、を表すために。「人類が互いに意思疎通が図れないのはむしろ当然の状態」と毛は考える。道徳や社会体制、民族の違いなどが極めて複雑な状況を生むからだ。>>

人類どころか、ほんの隣にいるひととでさえ、意思疎通を図るのは大変なことだ。

3・11以降のいろいろな言説について、ほんとうのことを言葉にすることの困難さを、わたしは常に感じている。短歌でいうなら、テレビなどで報道されている程度のことを歌うことを否定され、実際に現場を見に行ったところで直接の被災者でなければ歌えないことがあると言われ、日ごとに深刻化する放射性物質による汚染に怯えながらも正確なことを知らされるわけでもない、その不安さえ、マスコミに操られた言葉ではないのかと誹られる。あげくは、この非常事態に「震災」や「原発」をテーマに歌わないことを非難されたりする。

もう何も歌いたくなくなる。でも締切はくるし、それがお金になる原稿でなかったとしても、歌をつくったり文章を書いたりすることからは簡単には逃れられない。


わたしは、あるときから短歌(あるいは詩でも俳句でも、絵画や彫刻や音楽でも)は自己表現の手段ではないということを自分に言い聞かせてきた。それは、とある勉強会にゲストで来てもらった高橋悠治さんから「短歌って自己表現なの?」と聞かれたときに、わりと簡単に「あ、違うんだ」と思えてしまったことによる。この話はあまり端折って書いてはいけないかもしれないけど、わかるひとにわかってもらえればいいか。なんというか、結果として「自己」の何かしらが出てしまうことはあるかもしれないけれど、「自己」の何かしらを表現するために歌をつくったりするのとは違う、ということをわたしはそのとき非常に納得したの。

では、表現したいものは何なのか? (ここね、いちばん大事な、考えるべきことは)

毛同強の作品から脱線した。関係ないようなあるような。