福島県会津地方は、古くから桐材加工で知られた地域です。桐下駄をはじめ桐箪笥なども有名です。


また、良質な桐材の産地としても知られ、その歴史は江戸時代に藩主、保科正之によって桐の植林政策が行われたことが始まりといわれています。

桐加工の職人の多い地域であったため、その道具を作る鍛冶屋も多く存在しました。藩主の富国強兵策によって刀工が多く、刀工の閑期の仕事として道具作りがなされたこと、廃刀令後に多くの刀鍛冶が道具鍛冶や農具鍛冶に転業したことも理由と考えられます。

なかでも、「重房」の銘で知られる若林家は、安左衛門と弟の猪之吉が多くの弟子を育てて、一大勢力となりました。重房の名は、幕末から明治ごろには江戸にまで名が知られ、「重房の鑿は日本一」といわれたことが伝わっています。


重房の鉋(若林安左衛門作)幕末〜明治初期頃


兄の安左衛門の系統は後継が無く、養子の定之進も短期間しか活動せずに終わっていますが、弟子の重正(藤井源蔵)が多くの弟子を育て、この系統は昭和50年代まで続きました。

重上の鉋(左銘 大河原利平作)初代重正弟子 昭和初期頃

弟の猪之吉系統は4代続きますが、出征した昇が昭和19年に戦死したために途絶えています。また、分家として若林守蔵の系統があり、栃木県今市に移って昭和50年代まで活動しました。

会津には、この重房系統以外にも、刀工との兼業で道具を作っていた鍛冶屋がありました。なかでも刀工として有名な三善長道の系統があります。残されている鑿の形状からみると、かなり古い時代から刀とともに道具も製作していたことが推測されます。

また、長道系の刀工で、猪之吉の元で修業した日下部善吉も「重道」の名で道具を作り、4代にわたって続きました。


さて、以上のような鍛冶屋が作った道具を桐細工職たちは使用したわけですが、その道具を見てみると、いくつかの特徴があります。代表的な道具である鉋はとても薄手に作られており、鋭角に研がれています。通常の鉋より1割ほど薄く、刃角度は一般に28度~30度のところ、20度から25度に研がれていることが多いのです。また、鉋刃を台に仕込む角度も、通常の八分勾配に対して七分から六分五厘勾配と、かなり寝かせてすげられています。これは、柔らかい割りに繊維が強い桐材を、逆目を起こさずに仕上げるための工夫だったと思われます。

古い時代の台鉋は、現在と違って一枚鉋で、裏金と呼ばれるものがありませんでした。桐材は切れ味の良い鉋でないと、表面が毛羽だってしまうため、鉋刃の台への仕込み角を寝かせ、刃を鋭く研ぐことで対応したと考えられます。鉋刃の薄いのは、仕込み勾配を寝かすと、鉋の背と刃でできる稜線が刃先よりも出っ張ってしまうのを防ぐためだったと思われます。

現在の鉋は裏金のある二枚刃で逆目が起こりにくいので、仕込み勾配はやや寝かすにしても、刃を鋭角に研ぐ必要はありません。しかし、伝統的に鋭角に研いできたためか、今でも鋭角に研ぐ職人は多いようです。極端に鋭角に研がれた刃は、長切れせず、刃こぼれも起きやすいので、あまりメリットはありません。

春日部の桐細工職の鉋については、今後調査を進めたいと思います。


 

 前回、旧豊野村(現春日部市)の鋸鍛冶、日向孫右衛門について書きました。その日向孫右衛門と共に大日本金物名鑑に掲載されていた鋸鍛冶、中屋久作は明治の初め頃、東京で大変有名な鋸鍛冶でした。(大日本金物名鑑発行時には、すでに息子が継いでいた時期と思われます。)

 

通称十五代中屋久作は、実際には鋸鍛冶として初代であったものの、自身の家の始祖から十五代ということで、鋸に15代と刻んでいたといいます。

 

久作は、初期には他の鍛冶屋同様に、砂焼き入れ、もしくは泥焼入れという方法で焼き入れ処理を行っていましたが、あることをきっかけに油焼き入れを始めて、名工と呼ばれるようになったようです。そのきっかけとは、同じ江戸に住む鋸鍛冶、中屋平治郎の元を訪ねたことでした。

 

中屋平治郎は、幕末の鋸の名工として知られていましたが、その製法は秘伝であったといいます。その秘伝を知ろうとして中屋久作は、平治郎の元を訪ねました。平治郎の仕事場の前にきた時、天ぷらを揚げたような匂いがしたことで、久作は全てを理解しました。それは、油焼き入れという方法だったのです。

 

油焼き入れは、後に鋸製作には不可欠なものとなりましたが、それ以前の鋸の焼き入れは、砂や泥などで行われていました。しかしこれらの方法では失敗も多く、割れたり、均一に焼きが入らなかったりして、半ば博打的な方法だったのです。

 

では、久作が油焼き入れの秘伝を盗んだ平治郎が油焼き入れを考案したのでしょうか?

 

中屋久作が油焼き入れの秘伝を盗んだ話の元になっているのは、東京三軒茶屋の土田刃物店の2代目、土田一郎氏が、道具鍛冶の名工、千代鶴是秀から聞いたことが元になっています。その話によると平治郎は、油焼き入れを「会津の先生に習った」と言っていたそうで、その先生とは中屋助左衛門であったとのことです。

 

会津地域は鋸鍛冶の先進地とも言えるところで、他の地域にも大きな影響を与えました。中でも中屋助左衛門は名工として知られました。では、油焼き入れを考案したのは、助左衛門だったのでしょうか?しかしこれにも異説があります。助左衛門と同じ会津の鋸鍛冶である8代目中屋重左衛門が、油焼き入れ元祖を名乗っているのです。8代重左衛門は安政5年(1860年)の生まれですが、なんの事情か29歳で弟に家督を譲って隠居しています。その年齢を考慮すると、油焼き入れは1880年頃から1889年ごろまでの間に始められたということになります。元号で言えば明治13年以降です。

 

助左衛門と重左衛門、そして重右エ門の家は、会津鋸の御三家と言われ、互いに縁戚関係にあったといいますから、秘伝の油焼き入れが伝わるのは自然なことでしょう。しかし、8代重左衛門が明治13年以降に油焼き入れを考案したとすれば、中屋久作が平治郎から秘伝を盗んだ時期もそれ以降ということになってしまいます。

 

会津 中や重左衛門の鋸

しかし、これには矛盾があるのです。明治11年発行の「内国勧業博覧会出品解説には、鋸の油焼き入れを行なっていた鍛冶屋が数名記載されています。それも会津だけでなく、東京、新潟、長野、静岡の鍛冶屋の名が挙げられているのです。

 

今となっては真実は確かめようもありませんが、油焼き入れという技法は、少なくとも8代重左衛門以前に考案されていたことになります。

 

文化というのは不思議なもので、直接関わりのない地域で、同時多発的に発明されたり、流行したりすることがあります。もしかすると油焼き入れも、各地域で同時多発的に始まったものかもしれません。

 

参考  東京名工鑑  1879

          内国勧業博覧会出品解説  1878

         大日本金物名鑑  1908

         日本の伝統工具  土田一郎著

         

 

明治41年発行の「大日本金物名鑑」に、東京の鋸の名工、中屋久作、群馬の鋸の名工、中屋熊五郎とならんで日向孫右衛門という鋸鍛冶が掲載されています。住所は「北葛飾郡豊野村藤塚」となっていますから、現在の春日部市藤塚にあたります。この日向孫右衛門は、この冊子に広告も載せていることから、それなりに力のある鍛冶屋だったと思われます。しかし、この鍛冶屋については、その鋸も見たことがありませんし、どのような鍛冶屋だったかも不明です。

明治41年発行「大日本金物名鑑」より

 

鋸の研究で知られる吉川金次氏によると、日向孫右衛門の鋸の銘は、真鍮で象嵌がされていて、金文字の立派なものだったといいます。

 

春日部市藤塚周辺は、十数軒もの鋸鍛冶があったといわれる地域で、先に書きました中屋金次郎(逸見家)や村山四朗も同じエリアにいた鍛冶屋です。これほど狭いエリアに鋸鍛冶が集中していた理由は謎ですが、分業や販路の分担などがあったのかもしれません。

 

そんなわけで、日向孫右衛門は、もしかすると藤塚地区の鋸鍛冶から仕入れたものを販売する問屋や商店だった可能性もあるので、必ずしも鍛冶屋であったとは限りません。しかし、鋸の問屋の多くは元鋸鍛冶である場合が多いですし、広告には「製造販売」とありますから、鍛冶屋だった可能性は高いでしょう。

 

広告を出すほどですから、それなりに販売数もあったと思われますし、金文字の銘なら目立つので、見たことのある人がいるかもしれません。

 

この日向孫右衛門については、今後さらに調べてみたいと思います。

 鋸の産地と言えば、新潟県の三条や脇野町(現・長岡市)、兵庫県の三木、古くは福島県会津地域や長野県諏訪、千葉県の房総地域などが知られます。しかし全国には大産地ではないものの、それなりに集団化した鋸の生産地が点在しており、埼玉県春日部市も、そんな鋸の産地のひとつでした。

 

 春日部市は、埼玉県の東部に位置する小さな街です。(現在は合併により面積は増えましたが)その狭い地域に、20軒もの鋸鍛冶が集まっていたといいます。しかし、それは遠い昔で、現在は1軒も残ってはいません。

 

 春日部の鋸鍛冶の発祥は不明ですが、わかっている限りで最も古いの、中屋金次郎の銘で鋸を作っていた逸見(へんみ)家です。

 

 逸見家は甲州の武士でしたが、埼玉に移って鋸鍛冶に転じたといいます。鋸鍛冶初代の逸見思道軒(本名、逸見熊次郎福演)は幕末の剣豪でもあり、地域の治安維持も担っていたといいます。

 

 逸見思道軒は、神道無念流の道場を開いていて、近隣の商家や農家から子弟を集め、最盛期には門弟300人を超えたといいます。

 

 そんな思道軒は、武道には良い刀が必須であると、鍛刀を学ぶため大阪に出て修行しています。その後、江戸に出て鋸鍛冶の技を習得したということですが、なぜ道場もにぎわい、農業もしていたにもかかわらず、鋸鍛冶になることを志したのかは不明です。

 

 逸見家の中屋金次郎の銘は、四代にわたって引き継がれまましたが、この間、逸見家は代々、旧豊野村の村長も務め、農業、鍛冶、剣術道場と、複数の家業を続けたといいますから、さぞ多忙であったことでしょう。

 

 そして、中屋金郎の子弟も近隣で鋸鍛冶として独立し、春日部鋸の裾野を広げてゆくことになります。

 

 中屋金次郎の子弟の中でも、昭和の時代、戦後まで続いた系統に村山四朗がありました。初代村山四朗は、思道軒の四男、四朗で村山家に養子に出て、父から受け継いだ技で鋸鍛冶となります。しかし「中屋」の屋号は継がず、本名の村山四朗をそのまま銘としました。

 

 村山四朗は、父から受け継いだ技に飽き足らず、江戸に出てさらに修行を重ねたといいます。現存する鋸を見ると、顎のえぐりは深く、首は短めで、古き良き時代の江戸鋸の面影があります。

 

 村山四朗は、時代が玉鋼から現代鋼に変わった後も、玉鋼を鍛える技術を維持していたようで、玉鋼製と刻まれた鋸が現存します。玉鋼時代の終焉後「玉鋼神話」、現代鋼で作ったものに玉鋼の刻印を打ったニセモノをよく見かけますが、村山四朗の鋸は実際に玉鋼で作られていて、現代鋼の鋸と併売していたようです。

 

 村山四朗家も子供たちは鋸鍛冶となった者が多く、近隣で独立しますが、新潟の鋸が市場を席巻するようになると、次々に廃業してゆくこととなります。

 

 本家の中屋金次郎も鋸鍛冶を廃業し、村山四朗の家も鋸鍛冶をやめ、金次郎系統のいくつかの鋸鍛冶は目立て屋に転じますが、戦後は目立ての需要も激減して、廃業に追い込まれたようです。

 

 最後まで残った春日部の鋸鍛冶は、村山四朗の次男、準造の家で、村山甚作という銘で戦後まで鋸を作っていました。しかし、時代の流れには逆らえず、金物商へと転じることとなります.

 

 この村山準造の家は、建築資材や金物を販売するムラヤマ産業有限会社して現在も続いています。この家には、一丁の古い胴突鋸が残されており、包み紙には「初代村山四朗作 村山家家宝」の文字あります。

 

村山家が鋸鍛冶をやめて数十年、春日部で鋸が作られていたことを記憶する人は、もうほとんど残っていません。

 

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         参考:「埼玉県民俗工芸調査報告書 埼玉の鍛冶」

                    埼玉県立民俗文化センター発行

       

本項は、削ろう会会報に連載中の「忘れられた鍛冶」に執筆したものを加筆訂正したものです。

 

名工などと呼ばれる鍛冶屋ほど多くの弟子を抱えているのは当然といえば当然のことです。名が売れれば入門希望者も増え、注文が増えた分、弟子や職人の力が必要にもなるわけです。基本的には師匠が横座で職人や弟子が先手を努めるわけですが、多くの需要に応えるために複数の金床を据えて、優秀な弟子にも横座をさせる場合もあったようです。もちろん最終的に師匠が検品をして、自分のブランドに恥ずかしくないものだけを出荷していたことでしょう。

 

新潟三条で仕事をしていた龍進斎悦英こと堤伝作も、多くの弟子を抱えた人気のある鍛冶屋であり、その中でも右腕と言える優秀な弟子がいました。

 

名前を吉川栄造といい、明治35年、新潟県弥彦に産まれました。栄造は幼くして両親を亡くし、10歳で堤伝作の弟子となります。悦英工房には兄弟子が二人おり、ひとつ年下には、後に悦英を継ぐ堤政悦がいました。

 

大正12年、関東大震災が発生し、多くの建物が倒壊、また火災で焼失します。その反動としての復興特需は建築業界に活況をもたらし、結果として大工道具鍛冶にも及ぶこととなります。勤勉で商才のあった堤伝作は、日頃から鉋の注文があると注文数より必ず余分に作っており、そうして貯めた鉋を、特需の求めに応じて一度に放出することで財を成します。そしてそれを元手に、東京神田美土代町への移転を決めます。

 

東京移転をきっかけに、一番弟子の今井忠次は「忠弘」の銘で新潟三条で独立し、他の多くの弟子も三条に残りました二十代後半になっていた吉川栄造は、師の堤伝作とほぼ同時期に東京に移り、世田谷代田橋に独立します。(後に東京蒲田移転

 

悦英工房は東京移転後も仕事が増え続け、商才もあった堤伝作は、単なる鍛冶屋から、次第に大工道具全般を扱う「問屋」として活躍し始めます。当然鍛冶仕事だけをやっているわけにもいかず、弟子や外注に仕事を任せることが増えたようです。

 

そんな時、鍛冶屋としての仕事を支えたひとりが吉川栄造で、悦英工房の鉋、「悦英」、越丙工房が東京の武藤勘助商店に納めていた「行安」「村正」などの銘の鉋を請け負っていました。

 

栄造が40歳代になったころ、太平洋戦争の空襲により東京焼け野原となりましたが、新潟三条に疎開して事なきを得ます。疎開中は兄弟子であった忠弘(今井忠次)の元で仕事をしていたといいます。

 

戦後、吉川栄造は東京に戻ろうとしますが、東京封鎖という地方からの人の流入を抑える政策の為、戻ることが叶わず、やむなく昭和二十二年、堤伝作の紹介で埼玉県春日部市に土地を購入して鍛冶屋を再開しました。

 

その後も悦英工房の下請けを続けるうちに、栄造の腕は次第に知られるところとなり、他の道具屋からの注文も多くったようです。

 

地元、春日部市の金物店、村山金物や松本金物には、その店の銘を刻印して納めています。(村山、奇峰、若樹、宏寿など)他にも、東京板橋の鍛冶で、堤伝作のの親戚筋にあたる堤朋一(男盛の銘で有名)と懇意で、一部の鉋を栄造が手がけていたそうです。

 

また、吉川栄造が直接販売する鉋には、五三の桐の紋に「吉弘」の刻印を打って販売しました。

 

吉川栄造の仕事は、昔ながらの道具立てで、センとヤスリによって仕上げていました。鉋の形も伝統を守って薄手で軽やかな造りであり、鋼は美しく一直線に鍛接されています。地金の選別が上手で、地元の新井建具店の新井さんは、今も仕上げ専用として「吉弘」の鉋を使い続けています。地金が軟らかくて良い刃が付くとのことです。

 

悦英工房時代は、多くの兄弟弟子と仕事をしていた栄造ですが、独立後はひとりで仕事をこなし、家族が納品などを手伝っていたうです。弟子は取らず、ご子息も手道具の需要減少を見越して他の仕事に就いたため、後継はいません。

 

昭和40年代、栄造は、惜しまれながら仕事場をたたみます。廃業時には駆け込み需要があり、最後のにぎわいを見せたそうです。

 

今も「悦英」の名は多くの人の知るところですが、それを支えた吉川栄造の名は、残念ながら忘れられています。ここにその名を留め、後世に伝えられればと思い、本稿を執筆しました。

   吉川栄造 作 銘 村山(山甚印)

調査協力:吉川栄造さんのご家族

     埼玉県行田市、プロショップホクト

     埼玉県春日部市、ムラヤマ産業有限会社(村山金物)

     埼玉県春日部市、新井建具様