全国の受験生の皆さん!こんにちは、karinatatsuoです。

**************************************************************************************
「絵文字が多くて読みにくいです」―ブログの更新をやめた現在でも受験生からいくつかコメントをいただいており、まだこのブログも少しは需要があるのだなと実感しています。この声に応えるため、ご指摘のあった記事を徹底的にひさびさに改訂します。
**************************************************************************************
さて、今回のテーマは『惣領制の解体と国人一揆』&『惣村と一揆』です。
歴史の流れを少しさかのぼりますが、理解を深めるためにも時代を室町幕府の成立あたりまで戻します。
それではまず、「惣領制の解体と国人一揆」について、お話していきましょう

<惣領制の解体>
 さて、13世紀後半室町時代になると、「惣領制(ここで復習!)の解体が始まります。それまで惣領制は宗家(本家)=惣領をトップとし、庶子(嫡子以外の子)にも土地や給料を分け与えることで一族をまとめ、鎌倉幕府の支配体制を安定的にサポートするものでした。しかし、それを繰り返すと土地が散り散りになり、一人の持ち分がどんどん小さくなってしまいます。そこでこれを防ぐため、惣領は庶子にも分け与えてきた分割相続から、嫡子だけに相続する単独相続を行うようになります
 だから、庶子を支える後ろ盾がなくなり、地位が下がってしまうわけですね。そこで庶子は、相続した嫡子に従属するようになっていくわけです。
 一方、財を蓄えた庶子らは独立し、本家と分家に分かれそれぞれ独立していくようになりました。このようにして、かつて鎌倉幕府の支配体制を支えた惣領制は、解体の一途をたどっていきます

<国人一揆>
 惣領制が崩壊したと同じ頃、地元土着の武士である国人たちは、農民たちを支配するために国人一揆を結成します
 その一揆の中には、一揆の参加者は皆平等で、決定は多数決で行うなどと定めたものが多く、守護の力が比較的弱い地域に多く見られました。この国人一揆は守護の支配にも抵抗したりしたわけです
 この後、毛利元就(もうり・もとなり)などを除き、国人たちは戦国大名の同盟者や家臣となっていきます。

 ところで、「一揆」=「戦い」と思っている方、いませんか
よく中学社会科の知識で、「正長の土一揆では、近江の国(現在の滋賀県)の馬借たちが領主に対して蜂起を起こした」となんとなく覚えている方がいるかもしれません。しかし、一揆とは実は「集団」という意味なんですだから私も「一揆を結成します」と書いていますよね。「戦うことを結成します」なんて日本語、ヘンですからね。これ、絶対に覚えておいてください。

ではつぎに、『惣村と一揆』についてお話していきましょう。

<惣村と一揆>
 鎌倉時代も後期にあると近畿地方を中心に、領主からの自立を求め、農民たちによって(そう)・惣村が作られていきます。
 どうして惣村が作られていくのでしょうか。室町時代後期、武士たちは再び戦乱の世に駆り出され、戦いに行ってしまいます。当時の村々はこの武士たちによって安全を確保されていたんです。それがいなくなっちゃうわけですから、自立して「自分たちの村は自分たちで守る」という考え方が芽生えてくるわけです。
 そこで農民たちは団結力を高めるため、宮座(みやざ)という村の代表者が村の神社や鎮守さまを祭礼したりします。やはり自分たちの身を守るためには一人じゃできないですから、代表者を立てて儀式を行ない団結しようというわけですね

<村の運営>
 村の指導者には、農民から武士となった地侍、これらから選ばれたおとな(長、乙名)・沙汰人(さたにん)・番頭・年寄などが就き、惣村の運営をしていました。
 運営をしているということはそれなりに人々が住んでいるわけですが、惣村で暮らしていた村民たちを惣百姓(そうびゃくしょう)と言います。つまり、村の構成員ってことですね
 村の中には、守護などと主従関係を結び武士化した有力な農民もいました。それが地侍(じざむらい)という人です。彼らの中からおとななどの惣村の代表者が選ばれました。

注意 地侍・・・武士化した農民 ⇒ 農民と仲がいいね
        国人・・・農民を支配したもと在庁官人 ⇒ 農民と対立

 さて、村民たちは寄合(よりあい)という会議を開き決議をし、それに従って代表者のおとなが惣村を運営していきます。
 その寄合では、村法惣掟(そうおきて)、村掟(むらおきて))というルールも定められ、村民たちが守らなければならない規則となります。これを破ると制裁が加えられるなどして、規律が結構厳しかったんですね。これも「自分たちの身は自分たちで守る」という堅い決意が背景にあったのでしょう。
 村の秩序を維持するために、以前は守護に検断権(けんだんけん)という権利が与えられていました。しかし、村民たちが領主から自立していくにつれて、村民自身が警察の仕事や裁判などルールの適用をしていかなくてはいけません。そこで村民たちは、地下検断(じげけんだん)・自検断(じけんだん)を行う、つまりは警察の仕事や裁判などを担うようになります
 このように惣村の秩序を守ることで、惣村の農民たちは領主の支配から次第に自立していくようになるわけです。

<共同利用>
 それから、惣村の運営として、農業生産に必要な山や野原などの入会地(いりあいち)を共同で利用するようにします。どうして共同利用にしていくかというと、以前中世から牛や馬と使った農業が行なわれたとお話をしました。でも、牛馬を使うためにはエサが必要ですよね。さらに、刈敷(かりじき)や草木灰(そうもくかい)を肥料としていた中世では、もちろん草も必要です。そして、安全で快適に暮らすためには家も必要ですよね。
 だから、木材を与えてくれる山林、肥料や牛馬のエサを与えてくれる原野は農業生産を行う農民にとってとっても重要なんです。そこでなくならないよう計画的に共同で利用しようと考えたわけですね

 さらに、農民たちは年貢など納めなくてはいけませんから、当然コメの生産もしなければなりません
 確かにコメを作るためには稲も必要ですが、一番重要なのは水。水がなければ稲は成長できません。ですから、水を田んぼに引く灌漑施設(かんがいしせつ)なども共同利用するようになります。
 このようにして村民たちは、「自分だけが生活できればよい」と考えるのではなく、村を維持していくためにみんなで協力して生きていこうとしていたわけです

<領主などに抵抗>
 村民たちは領主に年貢などを納めなければなりません。
でも領主みんながいいヤツだってわけではなく、領主の中には非法、「法に悲(あら)ず」つまり法外な年貢を要求する強欲なヤツだって結構いました。「年貢もっと出しなさいな。出さないならあんたの土地は没収してしまうゾ」ってことです。

 そこで、荘園や公領である郷に属していた村民たちは、領主が異なるその枠組みを越えてタッグを組みます。これを郷村制(ごうそんせい)と言います。
 どうしてこんなことをするの?と思うかもしれませんが、財を蓄えている領主に抵抗するためには、やはりたった一人だけでは勝ち目がありません。そこでたくさんの村民がちが連合を組むことで、領主に抵抗しようと考えたわけです

 そしてこの時代、惣村の農民たちは「ひどいことする荘官をやめさせよう」「水害や干害の時は年貢の徴収はやめろー」と要求し、一揆を結成します。一揆って先ほど勉強したましたね、「集団」とか「団結」の意味ですね
 詳しくお話しすると、一揆とは目的を実現するために、起請文(きしょうもん)を作って神仏に誓い、神水を皆で飲み交わす一味神水(いちみしんすい)を行い、一味同心(いちみどうしん)と心も一致団結した集団のことを言います。
 今でも「怪盗ルパン一味」という感じで「一味」が使用されているのは、当時の権力者にとって一味とは悪い集団を意味するものだったからかもしれませんね。それだけ一揆とは支配者にとって厄介だったわけです。


 さて、一揆を結んだ農民たちは実力行使、つまりストライキを起こします
農民は百姓申状(ひゃくしょうもうしじょう)をつくり、荘園領主に訴える愁訴(しゅうそ)や、荘園領主のもとに農民全員で直接押しかける強訴(ごうそ)、その訴えが認められないならば逃散(ちょうさん)といい耕作を放棄し、集団で他の領や山野へ逃げるなどして、ストライキを実行するわけです。こうなると、領主にとっては収入源であるはずの年貢を得ることができませんから、領主はめちゃくちゃ困ってしまうわけです
 また、先ほど言いましたように、ストライキを実行する際は荘園の領地にある惣村が連合し、惣荘(そうしょう)を結成したり、公領つまりにある惣村が連合し惣郷(そうごう)が結成されることがよくありました。
 そして、一揆を結んだ農民たちは、生活のため仕方なく借金をしたりしていましたが、実力行使によって債務を破棄、つまり借金を踏み倒し、売却してしまった土地を取り戻す私徳政(しとくせい)を行なったりもしました

<領主への対応>
 そして農民たちが年貢などを領主に納める際、惣村がその納入を一括して請け負う地下請(じげうけ)・村請百姓請が行われるようになり、年貢などの納入は惣村がまとめて請け負うほど力を持つようになっていきます。


 このように、これまで鎌倉幕府を支えていた惣領制が崩壊したことにより、各地で安定的な秩序を求めて惣村が作り出され拡大していくわけですが、その背景には村の安定的な秩序を守るため、農民にとって重要な農業生産を支え、領主に抵抗し団結しようとする農民一人ひとりの姿があったというわけですね

 今回はこれで終わります。最後までお読みいただきありがとうございます。
それではまたお会いしましょう。