前の記事で、息子の駄々っ子事件について書きました下矢印




スーパーの入り口で、泣きわめく息子を見た通りすがりのおばちゃんがアンパンマンのビスケットをくれたお話。





昨日、この事件現場に夫と息子と3人で行きました。





すると息子は、





「ここでね、ごろーんして、えーんえーん笑い泣きしたの。」





「おばちゃん、アンパンマンくれた。」





と、何度もニコニコほっこりで話していました。






息子はあの事件を、ただ事実として認識しているだけで、そこに何のネガティブ要素も感じていないんだなと。





私も、おばちゃんのお陰で心が温かくなったし、何とも思ってはいないけれど、出来ればあれほどの駄々っ子はもう経験したくはない。





たぶんこういう時、私が嫌な顔をしたり叱りつけたりすると、息子は、





自分の欲求を表現するのは悪いことなんだ…





と認識して、そういう価値判断をするようになるのかなと思った。





私自身、そういう状況は「あまり良くないこと」と、これまでの経験上、無意識に価値判断しているんだなと気付いた。











「みんな違ってみんないい」





素敵な言葉だなと思うし、その通りなんたけど、これも「みんないい」って価値判断なんだよね。





無意識に良いか悪いか、白か黒か、0か100か、中間を許さないクセがついてしまうと、そこに縛り付けられてしまって自由がなくなる。





「みんな違って、みんないる」





存在をしているだけで十分なんじゃないかな。





「みんないい」もプレッシャーになることもあるんじゃないかと思う。







何か叶えたい望みがあって、望みを引き寄せようとした時、






「無いものに目を向けるのではなく、有るものに目を向ける」「今、満たされていること、感じたい感情を味わう」




ということを意識して、





「あ~、幸せだな~クローバー





って感じるようにしてた私。





そして無意識に、




「あ~、幸せだな~クローバー   これでいいんだ…





価値判断していたアセアセ




これでいいんだ…




はきっと必要ない。それを付け加えることで、それ以外の可能性を排除していたのかもしれない。だとすると現状は変わらない。






「あ~、幸せだな~クローバー




以上ビックリマーク





そのまま、ありのままでニコニコ