#平成最後に自分の代表作を貼る
というハッシュタグと共にSNS上で写真載せてる人たちの作品を見るたびに、その才能と努力に脱帽しちょっとばかり嫉妬している自分がいる。
人物写真に対してもそうだけど、特に「よくこんな写真撮れたな」っていう幻想的な風景写真に。
俺が撮影するのは仕事関連の撮影がほとんど。
それはもちろん大切なもので、世界に数多ある企業の中に埋もれないように、世界に対して何かしらムーブメントを起こし、人の心を動かし、モノに価値を乗せていく仕事。
それはもちろん楽しいし、やりがいは感じる。
だけどなんだか、大切なものってそれだけじゃないよなと。
クリエイティブは主に2つに分かれると思う。
それは「カネになるもの」か「カネにならないもの」か。
「カネになるクリエイティブ」は言わずもがな大切。
それでプロモーションをかけられた「モノ」は価値が高まり、購入者はそれを所持することで充足し、企業は利益を得て雇用する者の生活を守ることができる。
言わばそれは「社会のためのクリエイティビティ」
でもその一方で、SNS上のクリエイターたちが投稿しているものは、そのほとんどが「カネにならないもの」
それで利益を稼げる人たちは恐らくほんの数%だと思う。
むしろ出費はかかるし、体力は使うし、単なる損得勘定で言えばマイナス。
でもなぜかみんな創ることを止めないし、そんな作品たちを見て俺の心は震えるし、なんなら嫉妬してムカついてる。
それってなんなんだろうってちょっと考えてみた。
考えてみて、前に展示会で見たクロード・モネの言葉を思い出した。
「何を描くかは二の次で、私が本当に表現したいのは、描くものと自分の間に横たわる『何か』なのです」
モネが生前に描いていた作品のほとんどが風景画。
最初展示会で見たときに、確かに絵として「綺麗だな」とは思うけど、それで彼が何が伝えたかったのか皆目分からなかった。
とは言えそんな自分も元々写真好きになったきっかけは、小学校の頃に見たカレンダーに載ってる風景写真の美しさだった。
社会人になってカメラを持ち始めた時の最終目標は「世界中の絶景を写真に納めてから死ぬ」というもの。
でもなんでそう思ったのか、理由は分からない。
ただ漠然と「どうせ死ぬ身なら絶景を全部見てから死にたいな」と思っていただけ。
会社でカメラマン始めて人物写真を撮るようになってからは、風景を撮るよりは人を撮る方が楽しくなってきて、むしろ「風景写真の何が面白いの?」くらいに思い始めていた。
そんな自分が最近また風景写真に心を奪われ始めている。
もちろん人物写真見ても心を奪われるんだけど。
でもその写真たちはおそらく「カネにならない写真」たち。
でも俺もそんな「カネにならない写真」を撮りたくてしょうがない。
モネの絵画も当時は「カネにならない絵」だった。ゴッホも然り。
じゃあなぜ今も昔も人はカネにならなくてもクリエイティブを創作し、自分もまたそれに惹かれ、それを生み出したがっているのか。
頭の中で反芻するモネ言葉。
「何を描くかは二の次で、私が本当に表現したいのは、描くものと自分の間に横たわる『何か』なのです」
その『何か』とは何なのか。
構図を決めるときに感じるもの。
絵の色使いを決めるときに感じるもの。
筆の動きを変えるときに感じるもの。
シャッターを押す瞬間に感じるもの。
現像の色合いを決めるときに感じるもの。
詞の言葉を選ぶときに感じるもの。
旋律を紡ぎあげるときに感じるもの。
それはきっと「世界というフィルターを通して現れた自分の心の有り様」
「この時代に生き、この空気を吸い、自分の目で見て肌で感じた『この世界』を、誰かに受け取って欲しい」というエゴ。
「自分の心の目で見た世界を、誰かの心に刻みつけたい」というエゴ。
詰まるところ「自分という人間がいて、何を見て何を感じて生きたのかを理解して欲しい」という承認欲求。
「自分自身のためのクリエイティビティ」なんだなと。
まあ小難しい言い回しをしなくたって、考えてみればそうなんだけど。
人はそういう思いで写真を撮り、絵を描き、書をしたため、歌を歌い、物を創り出すのだなと。
そして自分はただ単にそれに飢えているのだなと。
それを身の回りの人間関係で完結して満足できる人間もいれば、世界規模でやらないと気の済まない人間もいる。
まあ、自分はきっと後者の人間の一人なわけで。
「カネになる社会のためのクリエイティビティ」と同じくらい、「自分自身のためのクリエイティビティ」を大切にしたい。
年が明けようが元号が変わろうが世界は変わらんし、宇宙規模で見ればただの時間の繋がりなだけでそんな大した意味はないと思うんだけど、人間が作ったこの「境目」は自分の心がけ一つで自分の行動は変えるきっかけに変えることはできる。
そういう意味では一つの意味はあるのかなと。
平成だろうが令和だろうが昭和だろうが元和だろうが関係ないけど、自分が死ぬかもしれないこの元号に、自分の足跡を、自分の爪痕を、自分の存在を、自分の生きた意味を刻みつけて生きたいなと。そんなことを考えた、平成の終わりの夜。