あれやこれやお知らせ
・修論出せました。
題目は「Xジェンダーの現象学的心理学―「男/女」いずれかではないアイデンティティを名乗ることの意味―」。
死ぬかと思った(口癖)。
・博士入学試験は落ちました。
例年11人中6人はとるものの、当日棄権が出て10人中上から6番目でみごとぎりぎり落選(5人まで)。
筆記試験は専門と英語とも良かったものの、面接で研究計画の説明がグダグダしてしまい。
じゃあ次は受かるっしょーと、博士浪人キメました。
・ルームシェア始めました。
大阪で友人一人とルームシェア。
私は食事を準備する係…。
・徳島で性をテーマにした映画祭をやります。
やります。
ひ と ま ず
題目は「Xジェンダーの現象学的心理学―「男/女」いずれかではないアイデンティティを名乗ることの意味―」。
死ぬかと思った(口癖)。
・博士入学試験は落ちました。
例年11人中6人はとるものの、当日棄権が出て10人中上から6番目でみごとぎりぎり落選(5人まで)。
筆記試験は専門と英語とも良かったものの、面接で研究計画の説明がグダグダしてしまい。
じゃあ次は受かるっしょーと、博士浪人キメました。
・ルームシェア始めました。
大阪で友人一人とルームシェア。
私は食事を準備する係…。
・徳島で性をテーマにした映画祭をやります。
やります。
ひ と ま ず
読みました「性同一性障害という概念の批判から、性についての広範な考察まで。」
Twitterできつつきさんからブログ読んで感想くださいとお願いされていたのをすっかり忘れていました。ということで、遅くなりましたが、書かせていただきました。どうやら私はそのコンテンツが正しかろうが正しくなかろうが「片側を読む」ことがモットーらしく、そういった読み方がされています。
読んだ記事はこちら!
『どこでもない場所』
性同一性障害という概念の批判から、性についての広範な考察まで。
http://ashfindingsky.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
ということでどうぞ。
トランスセクシュアルとトランスジェンダーについての部分ですが、これは位置づける人々によってけっこう異なってきます。
たとえば、割り当てられた性が男性であり、身体の性をトランスしはするけれど、心の性はまぁ男性だ、という人もいます。トランスジェンダーという言葉は広義には用いられるものの、一方で心の性をメインに置いた位置づけが主流なんですね。そこで、体の性だけ変えてみたいんだけどな、という人にとってはちょっと遠い言葉になってくるとも言えます。そこで、トランスセクシュアルという言葉をそこで用いるのですね(という解釈)。そういった位置づけ方もあります。
性同一性障害について、これはきつつきさんが指摘するように、疾病概念としての位置づけの問題はこれまで散々批判されてきたかと思います。私もそう思います。ところが、私はメインストリームが見えてくるとそこから脱したくなるたちでして(あまのじゃく)、では、疾病という言葉によって「救われた」という人々はどうなるのかという問題を考えたくなります。社会全体的な見方による批判は簡単なのですが、主観的な苦しみを癒す方法は規定できないんです。そういった部分をちょっと意見していただいてみます。
「ジェンダーを本質化すること」のあたりのパラグラフではきつつきさんが社会構築主義に則っているのがよくわかると思います。まぁそうですよね。二分している性質が認識の相互作用で形作られていくわけですから。
一方、社会構築主義は社会的な側面で個人の認識を解きほぐしますが、個人の認識の理解にはつながりにくいです。諸々の認識が構築物だとしても、本人の主観的な事象はいかなるものなのか、現象学はそれを提供することができますが、二重に、そういった意味で社会的な側面の限界がありました…。
「ジェンダーと身体性について」のパラグラフはちょっと分かりにくいですが、身体へのアイデンティファイに即してのものだと思います。ここでは、きつつきさんが身体性をアイデンティファイする/アイデンティファイできないそれぞれの人々の「自己の感覚」に焦点を当てています(と思っていますw)。おそらく、社会的に構築された感覚でありながらも、そういった感覚はどのようなものへ焦点づけられているのか、という考察だと読み取ったのですが、一方で、違和感ないし親和性を「感じにくい/感じやすい」という観念そのものも社会的な構築の末路です(だと思う)ので、これはちょっとどう読み取りましょうと、困惑いたしました。
ジェンダー・アイデンティティの構成要素についてですが、これらの3つはおそらくそれぞれの領域が重なっているのでしょうね。身体イメージは男性/女性の帰属へ繋がりますし、その帰属は文化的なイメージへも繋がります。簡単に言えば、社会的な営みの中で相互作用的にモデリングされ、自己の男性/女性イメージ(そうでないにしろこの二分性を軸として)と帰属(アイデンティファイに等しいもの)が重なるといったところでしょうか。
読んだ記事はこちら!
『どこでもない場所』
性同一性障害という概念の批判から、性についての広範な考察まで。
http://ashfindingsky.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
ということでどうぞ。
トランスセクシュアルとトランスジェンダーについての部分ですが、これは位置づける人々によってけっこう異なってきます。
たとえば、割り当てられた性が男性であり、身体の性をトランスしはするけれど、心の性はまぁ男性だ、という人もいます。トランスジェンダーという言葉は広義には用いられるものの、一方で心の性をメインに置いた位置づけが主流なんですね。そこで、体の性だけ変えてみたいんだけどな、という人にとってはちょっと遠い言葉になってくるとも言えます。そこで、トランスセクシュアルという言葉をそこで用いるのですね(という解釈)。そういった位置づけ方もあります。
性同一性障害について、これはきつつきさんが指摘するように、疾病概念としての位置づけの問題はこれまで散々批判されてきたかと思います。私もそう思います。ところが、私はメインストリームが見えてくるとそこから脱したくなるたちでして(あまのじゃく)、では、疾病という言葉によって「救われた」という人々はどうなるのかという問題を考えたくなります。社会全体的な見方による批判は簡単なのですが、主観的な苦しみを癒す方法は規定できないんです。そういった部分をちょっと意見していただいてみます。
「ジェンダーを本質化すること」のあたりのパラグラフではきつつきさんが社会構築主義に則っているのがよくわかると思います。まぁそうですよね。二分している性質が認識の相互作用で形作られていくわけですから。
一方、社会構築主義は社会的な側面で個人の認識を解きほぐしますが、個人の認識の理解にはつながりにくいです。諸々の認識が構築物だとしても、本人の主観的な事象はいかなるものなのか、現象学はそれを提供することができますが、二重に、そういった意味で社会的な側面の限界がありました…。
「ジェンダーと身体性について」のパラグラフはちょっと分かりにくいですが、身体へのアイデンティファイに即してのものだと思います。ここでは、きつつきさんが身体性をアイデンティファイする/アイデンティファイできないそれぞれの人々の「自己の感覚」に焦点を当てています(と思っていますw)。おそらく、社会的に構築された感覚でありながらも、そういった感覚はどのようなものへ焦点づけられているのか、という考察だと読み取ったのですが、一方で、違和感ないし親和性を「感じにくい/感じやすい」という観念そのものも社会的な構築の末路です(だと思う)ので、これはちょっとどう読み取りましょうと、困惑いたしました。
ジェンダー・アイデンティティの構成要素についてですが、これらの3つはおそらくそれぞれの領域が重なっているのでしょうね。身体イメージは男性/女性の帰属へ繋がりますし、その帰属は文化的なイメージへも繋がります。簡単に言えば、社会的な営みの中で相互作用的にモデリングされ、自己の男性/女性イメージ(そうでないにしろこの二分性を軸として)と帰属(アイデンティファイに等しいもの)が重なるといったところでしょうか。
博士入試に向けて
さてさて、博士入試までの勉強まっただなかです。
兵庫教育大学連合大学院の博士課程後期の入学試験、2月17日に向けてやっています。
出題は臨床心理学と教育心理学からなのですが、ときどき精神医学も出ます。
日本の臨床心理学では精神医学の視点を取り入れながらなのでそりゃそうなのですが…。
いまいち出題の傾向がつかみづらいです。
臨床心理学の何を勉強してても出そうにないように感じられます。
いっぽう、「教育心理学」が範囲でありながら、過去問では教育心理学的なものはみかけにくいように見えます。
そろそろ教育心理学的な問題も出るかなと、教育の分野もやってはいますが…。
なんとかわかる範囲での、問題の傾向として、範囲が広いということから、ひとまず、知らないものを手広く知っておくことにしようと思います。
兵庫教育大学連合大学院の博士課程後期の入学試験、2月17日に向けてやっています。
出題は臨床心理学と教育心理学からなのですが、ときどき精神医学も出ます。
日本の臨床心理学では精神医学の視点を取り入れながらなのでそりゃそうなのですが…。
いまいち出題の傾向がつかみづらいです。
臨床心理学の何を勉強してても出そうにないように感じられます。
いっぽう、「教育心理学」が範囲でありながら、過去問では教育心理学的なものはみかけにくいように見えます。
そろそろ教育心理学的な問題も出るかなと、教育の分野もやってはいますが…。
なんとかわかる範囲での、問題の傾向として、範囲が広いということから、ひとまず、知らないものを手広く知っておくことにしようと思います。
過去の自己との対話を試みたところ
Facebookで記した内容ですが、ここでも記録しておこうと思います。
***************
もう落ち込んでいられないのだと覚悟決め、博士入試の勉強をしようとヒルガード(×2)を本棚から取り出しました…(ここらへんでもう泣きそう)。
ついでに修士院試勉強時代に使っていたノートも出してみたのですが、なぜ8冊もあるのでしょうか…。
児童福祉法まで勉強したんですか…。
…鳴教の過去問にちらほらありましたものね…。
徹底分析ですね…。
なぜ2007年の日付があるのでしょう…。
お前意気込みありすぎじゃ…。
…最初に英語論文(といってもブリーフレポート)を訳し始めたことは覚えてます…。
学部1年生の冬でした…。
いろいろと忙しくなったような、2年生の2008年の日付は飛んで、2009年になってますが…。
中身を読んでみても過去の自分に押しつぶされそうです…。
死ぬ…死ぬ…。
こんな修士2年でごめんなさい…。
Twitterで続きを書こうと思います。
って、その続きをここにコピペ。
でもおかげでやる気になったというか。あのとき頑張ってた自分が今の自分を引っ張ってくれる気がして。もし、過去の自分に会ったらどやされるだろうな。おいこら勉強しろよ修論出したしもうちょいだろ!と。
「経済的に修士だけで精一杯だったかもしれないのに、うまいこと博士までいけそうなんだからそのまま気合い入れてのっかれよ!諦めかけてたのに、なりたいものになれそうじゃん!」
「しかもなに?パレードやらトークやらワークショップやらファッションショーやら関わったり依頼きちゃったりさ、学会でも3回も発表してる!やりたいことやり通しちゃってるじゃん!動きすぎ!友達たくさんじゃん!うまくいかなくてそりゃ自信無くすけど、やりたいことやり通しちゃってよ!」
ですよねー。ちょっと世界の見え方変わってきた。
****
ということで、少なくとも1時間前よりも世界の見え方は変わってきました。「やりたいことをやろう」、自信は二の次。それまで、「この先何をしても、ここで失敗したのだから努力は無駄で、何をしても無理ではないか。誰かに咎められるのではないか。一年前はあんなに自信満々に周りに虚勢を張ってきたのだから。なにをえらそうに。そのツケはそのうち回ってくるのだ。」という認識でしたが、過去の自分からしたら「まぁそれもあるし、でもぶっちゃけあなたは研究以外でいろんな活動でいろんなことで頑張ってきたから、そのせいもあるかもしれないけど、比べるにしてもその失敗は微々たる程度だよね(笑)。いろんなことを人々の交流の中で学ぶことはかけがえのないわけで。修士で完璧な研究は無理よ~wやってみないとわからないし、やれるだけやったし、問題点は見つかりまくり!糧にすんの!」という認識みたいなので、そのものの見方で見てみようと思えてきました。
現象学は難しいんですね。ですね。ですよね↓
ということでファイト!!
***************
ストレスが負荷している状況でのコーピングは対人関係によって、対話によっておこなわれる場合がありますが、今回は「過去の自己」との対話によって得られたように思います。
「昔の自分だったら今の自分を見てどう思う?」、それだけなのですが、偶然にも読み返したノートによって、私はその断片を垣間見たように思います。
自分に励まされたらそりゃ勇気づけられるかな…とも思うのですが、一方で、比較対象としての存在も考えることになります。
「あの人はこれだけやれてるのに自分は…」の、「あの人」が自己に置き換わったときにどのように心理的に自己に働くのでしょう?
私の例のみで言えば、ひとつは、やはり「昔の自分は良かったけど今の自分はてんでだめだ」という認識だと思うのですが、どうやらそれだけではないようです。
ふたつめとして、「もしもその昔の自分が今の自分に声をかけるなら?」のイメージとして、対話が生まれるように思います。
つまり、「どう思う?」という問いかけの契機の生まれやすさです。
比較対象が他者であるなら想像上でも対話しようと思えたのでしょうか。むしろ、「対話しようと試みるルート」によってつむがれたのかもしれません。
自己は今の今まで付き添ってきた存在です。よって、ある時点での自己と対話することは、誰かしら他者をイメージして対話することよりも容易だったのかもしれませんね。
少なくとも、今回は、想像しようとした相手が今の自分の「ある状況」と比較対象可能な自己であったぶん、可能にしたのかもしれません。
***************
もう落ち込んでいられないのだと覚悟決め、博士入試の勉強をしようとヒルガード(×2)を本棚から取り出しました…(ここらへんでもう泣きそう)。
ついでに修士院試勉強時代に使っていたノートも出してみたのですが、なぜ8冊もあるのでしょうか…。
児童福祉法まで勉強したんですか…。
…鳴教の過去問にちらほらありましたものね…。
徹底分析ですね…。
なぜ2007年の日付があるのでしょう…。
お前意気込みありすぎじゃ…。
…最初に英語論文(といってもブリーフレポート)を訳し始めたことは覚えてます…。
学部1年生の冬でした…。
いろいろと忙しくなったような、2年生の2008年の日付は飛んで、2009年になってますが…。
中身を読んでみても過去の自分に押しつぶされそうです…。
死ぬ…死ぬ…。
こんな修士2年でごめんなさい…。
Twitterで続きを書こうと思います。
って、その続きをここにコピペ。
でもおかげでやる気になったというか。あのとき頑張ってた自分が今の自分を引っ張ってくれる気がして。もし、過去の自分に会ったらどやされるだろうな。おいこら勉強しろよ修論出したしもうちょいだろ!と。
「経済的に修士だけで精一杯だったかもしれないのに、うまいこと博士までいけそうなんだからそのまま気合い入れてのっかれよ!諦めかけてたのに、なりたいものになれそうじゃん!」
「しかもなに?パレードやらトークやらワークショップやらファッションショーやら関わったり依頼きちゃったりさ、学会でも3回も発表してる!やりたいことやり通しちゃってるじゃん!動きすぎ!友達たくさんじゃん!うまくいかなくてそりゃ自信無くすけど、やりたいことやり通しちゃってよ!」
ですよねー。ちょっと世界の見え方変わってきた。
****
ということで、少なくとも1時間前よりも世界の見え方は変わってきました。「やりたいことをやろう」、自信は二の次。それまで、「この先何をしても、ここで失敗したのだから努力は無駄で、何をしても無理ではないか。誰かに咎められるのではないか。一年前はあんなに自信満々に周りに虚勢を張ってきたのだから。なにをえらそうに。そのツケはそのうち回ってくるのだ。」という認識でしたが、過去の自分からしたら「まぁそれもあるし、でもぶっちゃけあなたは研究以外でいろんな活動でいろんなことで頑張ってきたから、そのせいもあるかもしれないけど、比べるにしてもその失敗は微々たる程度だよね(笑)。いろんなことを人々の交流の中で学ぶことはかけがえのないわけで。修士で完璧な研究は無理よ~wやってみないとわからないし、やれるだけやったし、問題点は見つかりまくり!糧にすんの!」という認識みたいなので、そのものの見方で見てみようと思えてきました。
現象学は難しいんですね。ですね。ですよね↓
ということでファイト!!
***************
ストレスが負荷している状況でのコーピングは対人関係によって、対話によっておこなわれる場合がありますが、今回は「過去の自己」との対話によって得られたように思います。
「昔の自分だったら今の自分を見てどう思う?」、それだけなのですが、偶然にも読み返したノートによって、私はその断片を垣間見たように思います。
自分に励まされたらそりゃ勇気づけられるかな…とも思うのですが、一方で、比較対象としての存在も考えることになります。
「あの人はこれだけやれてるのに自分は…」の、「あの人」が自己に置き換わったときにどのように心理的に自己に働くのでしょう?
私の例のみで言えば、ひとつは、やはり「昔の自分は良かったけど今の自分はてんでだめだ」という認識だと思うのですが、どうやらそれだけではないようです。
ふたつめとして、「もしもその昔の自分が今の自分に声をかけるなら?」のイメージとして、対話が生まれるように思います。
つまり、「どう思う?」という問いかけの契機の生まれやすさです。
比較対象が他者であるなら想像上でも対話しようと思えたのでしょうか。むしろ、「対話しようと試みるルート」によってつむがれたのかもしれません。
自己は今の今まで付き添ってきた存在です。よって、ある時点での自己と対話することは、誰かしら他者をイメージして対話することよりも容易だったのかもしれませんね。
少なくとも、今回は、想像しようとした相手が今の自分の「ある状況」と比較対象可能な自己であったぶん、可能にしたのかもしれません。
スターセイバー ―救星主の伝説―(レビュー)
スターセイバー
―救星主の伝説―
(大橋 博倖)
感想レビューを著者の方より依頼されましたので、ここに記していきたいと思います。
全体的な感想となってしまったので、時間を見つけ次第、また別の角度からレビューしてみたいと思います。
描写の抽象性が高く、世界の広大さがまざまざと感じられるものでした。
登場人物こそ少ないのですが、いかなる世界が設定されているのかが巧妙で、確固とした説明によって世界観が構築されているように思いました。
その説明の量は重たくも感じるのですが、そのおかげもあって、キャラクターの一挙一動が魅力的になっていたと感じます。
一方で、赤川次郎を思い起こさせるフランクさとその空気を作り出すヒロインのキャラクターの印象と、それに対する軍事用語全開のガチガチで重たい文章の印象が、ミックスされた状態で感じられてきます。
これはとても面白い現象だと思いました。
というのも、章や頁によって、私にとっての読みやすさが格段に異なる認識として与えられるのです。
フランクで、言うことは言う、考えるかぎりは考える、そんな魅力的なヒロインのミキが存在しているシーンでは、私は、中学生や高校生の時分に読んでいた小説(といってもほとんど赤川次郎なわけなんだけども)が頭を巡らせられました。
かたや、政府の描写、作戦の描写、メカの詳細な描写では、不慣れな私にはとても重たく感じられました。
過去にほんの少しだけ読んでみた宇宙戦争ものの記憶が呼び起こされたことも印象的です。
このように、まったく異なるジャンルが組み合わさり、相まって与えられる印象、それを呈する小説はそうなかなかないでしょう。
申し訳ないことに、軍事用語に慣れていない私には、硬い描写の魅力を感じ取ることができなかったのですが、その重たさ、硬さによって、ミキのシーンが際立っていたこと(あるいはそれが逆側へとしても)は確かな感覚として与えられました。
ヒロインの描写は活発な少女という、小説にありがちな描写だったかもしれませんが、それは硬さの描写によってより魅力的になっていたと思います。
ありがちとは言いつつも、ミキの知性についての描写は、ありがちではない、個性的で魅力的です。
ぶっちゃけて言いますと、重たい軍事用語のシーンが続いたあとにミキのシーンがくるとものすごく楽しく読めます。
これは私の好みの偏りなのですが、相対的にそう感じられるのかどうなのか、ミキのシーンはとても読みやすくて好きです。
ただ、繰り返すように、重たい部分のおかげでかなりの際立ちを持ったのだと思います。
軍事のほうが好みの場合はこれは逆になるかもしれません。
そういった面でも、読み手が変わるとこの物語は一体どのように映るのか、面白いと思いました。
―救星主の伝説―
(大橋 博倖)
感想レビューを著者の方より依頼されましたので、ここに記していきたいと思います。
全体的な感想となってしまったので、時間を見つけ次第、また別の角度からレビューしてみたいと思います。
描写の抽象性が高く、世界の広大さがまざまざと感じられるものでした。
登場人物こそ少ないのですが、いかなる世界が設定されているのかが巧妙で、確固とした説明によって世界観が構築されているように思いました。
その説明の量は重たくも感じるのですが、そのおかげもあって、キャラクターの一挙一動が魅力的になっていたと感じます。
一方で、赤川次郎を思い起こさせるフランクさとその空気を作り出すヒロインのキャラクターの印象と、それに対する軍事用語全開のガチガチで重たい文章の印象が、ミックスされた状態で感じられてきます。
これはとても面白い現象だと思いました。
というのも、章や頁によって、私にとっての読みやすさが格段に異なる認識として与えられるのです。
フランクで、言うことは言う、考えるかぎりは考える、そんな魅力的なヒロインのミキが存在しているシーンでは、私は、中学生や高校生の時分に読んでいた小説(といってもほとんど赤川次郎なわけなんだけども)が頭を巡らせられました。
かたや、政府の描写、作戦の描写、メカの詳細な描写では、不慣れな私にはとても重たく感じられました。
過去にほんの少しだけ読んでみた宇宙戦争ものの記憶が呼び起こされたことも印象的です。
このように、まったく異なるジャンルが組み合わさり、相まって与えられる印象、それを呈する小説はそうなかなかないでしょう。
申し訳ないことに、軍事用語に慣れていない私には、硬い描写の魅力を感じ取ることができなかったのですが、その重たさ、硬さによって、ミキのシーンが際立っていたこと(あるいはそれが逆側へとしても)は確かな感覚として与えられました。
ヒロインの描写は活発な少女という、小説にありがちな描写だったかもしれませんが、それは硬さの描写によってより魅力的になっていたと思います。
ありがちとは言いつつも、ミキの知性についての描写は、ありがちではない、個性的で魅力的です。
ぶっちゃけて言いますと、重たい軍事用語のシーンが続いたあとにミキのシーンがくるとものすごく楽しく読めます。
これは私の好みの偏りなのですが、相対的にそう感じられるのかどうなのか、ミキのシーンはとても読みやすくて好きです。
ただ、繰り返すように、重たい部分のおかげでかなりの際立ちを持ったのだと思います。
軍事のほうが好みの場合はこれは逆になるかもしれません。
そういった面でも、読み手が変わるとこの物語は一体どのように映るのか、面白いと思いました。
関パレ、クィア学会、LGBT成人式、修論関係なぞ
最後の記事から何ヶ月よ。
え、2ヶ月??
放置しすぎじゃない…。
例のごとく、11月から今日まであった出来事をまとめてしまいたいと思います。
つらつらと簡単に思い出しながら、書いていきながら、また触れたい内容だったら記事にするのだと思います。
いろいろな面で、こつこつできないわたし…。
イベント系と学生系で分けようかと思ったけれど、分けたら次に書くモチベーションが飛んでいきそうなので、いっしょくたにしました。
★関西レインボーパレード2012(2012年11月10日)
遅くなりましたが、無事に、関パレ2012は終了…。
フロート同士が離れすぎてしまったり、なんかいろいろあったけど、今では素敵な思い出で残っています。
衣装作りがんばったねぇ…。
演奏もがんばった…。
毎週の大阪遠征もがんばった…。
動画作成もがんばった…。
最後は、ここまでいろいろ(泊まり先とか交通とか)迷惑かけてきた人を思い出して泣いちゃった。
みんなのおかげで関パレができたのですね。
見守ったり、参加したり、いろいろな方法で触れてくださったみなさま、ありがとうございます。
風船飛ばしは素晴らしかったね…。
他にもいろいろがんばった気がする。
来年やるとしたらの課題も考えながら…。
-----修論で死ぬ-----
★クィア学会で個人発表(11月24日~25日)
修論の内容を発表しました。
iPadのkeynoteだから荷物少なくて助かるね!
でも直前まで死んでたよ!
あ ん の じ ょ う ! !
(のちに誰かがダンシング報告って言ってた気がする!)
質問の受けごたえ全然だめね!わたし!
死ぬ!
懇親会であいさつできたけど!
総会とかいろいろあったね!
Twitterもね!!!
あぁ!!!!!
もう!!!!!
人間関係って大変ね!!!!
-----修論で死ぬ-----
★博士の願書の〆切が明後日だと気づく(12月12日)
死ぬかと思った。
できてない修論を送ってしまった…(それでいいんだけど)。
死ぬ…。
博士の研究計画書だって…。
方法論が…。
何ビデオ録画とか考えてんのよ…。
無事〆切14日に出せました…。
-----ここらへんで関東へ-----
★淑徳大学吹奏楽部定期演奏会(2012年12月28日)
母校の定演のお手伝いに行きました。
とってもかわいい後輩が入って、ぐふふふ。
一緒に写真を撮ってもらいました。
良い思い出☆
(演奏の話は?)
★仲間内での年越し会(2012年12月31日)
やかにゃん、ミズキくん、ヒバリさん、くろちゃん、そうちゃんで年越し鍋~。
あんど、年越しツイキャス!
なにしゃべったかは覚えてないです…。
あ、ノロで死にかけました。
----ここらへんで鳴門へ-----
----修論で死ぬ----
★修論提出〆切(2013年1月18日)
死ぬかと思った…。
結局誤字もありそうだし(あった)、全然分析できてない…。
死ぬ…。
なんとか提出はできました…。
あぁ…。
あ…。
推敲していただいたみなさま、ありがとうございました。
★LGBT成人式(2013年1月20日)
修士論文を提出して次の日に渡関東。
衣装はいろいろアイディアが間に合っていなかったし、「自分らしさ」を表現できるのは関パレの衣装かなと思い、そのまま流用しました。
段取りでバタバタしたけど、結果オーライ♪
みんな楽しんでもらえたみたいで何よりです。
何日かやかにゃん宅で滞在し、秋葉原でiPod touch(4S)を買いました。
やったね!
そのあとはそうままんと合流して赤羽でやっすいお店で立ち飲み。
あんま飲めなかった…。
----ここらへんで鳴門へ-----
★現在
口述審査(2月4日)と博士入学試験(2月17日)で、
死亡ぎみ…。
M1のときにあんなに大見栄張ったり、えらそうにしたりしてごめんなさいとか、質的研究法について講座開いたりとかそんなことやってるわりにこんなできでごめんなさいとか、あぁもうすみません、もう懺悔しかできません…。
あぁ…。
あぁ…。
あぁ……。
え、2ヶ月??
放置しすぎじゃない…。
例のごとく、11月から今日まであった出来事をまとめてしまいたいと思います。
つらつらと簡単に思い出しながら、書いていきながら、また触れたい内容だったら記事にするのだと思います。
いろいろな面で、こつこつできないわたし…。
イベント系と学生系で分けようかと思ったけれど、分けたら次に書くモチベーションが飛んでいきそうなので、いっしょくたにしました。
★関西レインボーパレード2012(2012年11月10日)
遅くなりましたが、無事に、関パレ2012は終了…。
フロート同士が離れすぎてしまったり、なんかいろいろあったけど、今では素敵な思い出で残っています。
衣装作りがんばったねぇ…。
演奏もがんばった…。
毎週の大阪遠征もがんばった…。
動画作成もがんばった…。
最後は、ここまでいろいろ(泊まり先とか交通とか)迷惑かけてきた人を思い出して泣いちゃった。
みんなのおかげで関パレができたのですね。
見守ったり、参加したり、いろいろな方法で触れてくださったみなさま、ありがとうございます。
風船飛ばしは素晴らしかったね…。
他にもいろいろがんばった気がする。
来年やるとしたらの課題も考えながら…。
-----修論で死ぬ-----
★クィア学会で個人発表(11月24日~25日)
修論の内容を発表しました。
iPadのkeynoteだから荷物少なくて助かるね!
でも直前まで死んでたよ!
あ ん の じ ょ う ! !
(のちに誰かがダンシング報告って言ってた気がする!)
質問の受けごたえ全然だめね!わたし!
死ぬ!
懇親会であいさつできたけど!
総会とかいろいろあったね!
Twitterもね!!!
あぁ!!!!!
もう!!!!!
人間関係って大変ね!!!!
-----修論で死ぬ-----
★博士の願書の〆切が明後日だと気づく(12月12日)
死ぬかと思った。
できてない修論を送ってしまった…(それでいいんだけど)。
死ぬ…。
博士の研究計画書だって…。
方法論が…。
何ビデオ録画とか考えてんのよ…。
無事〆切14日に出せました…。
-----ここらへんで関東へ-----
★淑徳大学吹奏楽部定期演奏会(2012年12月28日)
母校の定演のお手伝いに行きました。
とってもかわいい後輩が入って、ぐふふふ。
一緒に写真を撮ってもらいました。
良い思い出☆
(演奏の話は?)
★仲間内での年越し会(2012年12月31日)
やかにゃん、ミズキくん、ヒバリさん、くろちゃん、そうちゃんで年越し鍋~。
あんど、年越しツイキャス!
なにしゃべったかは覚えてないです…。
あ、ノロで死にかけました。
----ここらへんで鳴門へ-----
----修論で死ぬ----
★修論提出〆切(2013年1月18日)
死ぬかと思った…。
結局誤字もありそうだし(あった)、全然分析できてない…。
死ぬ…。
なんとか提出はできました…。
あぁ…。
あ…。
推敲していただいたみなさま、ありがとうございました。
★LGBT成人式(2013年1月20日)
修士論文を提出して次の日に渡関東。
衣装はいろいろアイディアが間に合っていなかったし、「自分らしさ」を表現できるのは関パレの衣装かなと思い、そのまま流用しました。
段取りでバタバタしたけど、結果オーライ♪
みんな楽しんでもらえたみたいで何よりです。
何日かやかにゃん宅で滞在し、秋葉原でiPod touch(4S)を買いました。
やったね!
そのあとはそうままんと合流して赤羽でやっすいお店で立ち飲み。
あんま飲めなかった…。
----ここらへんで鳴門へ-----
★現在
口述審査(2月4日)と博士入学試験(2月17日)で、
死亡ぎみ…。
M1のときにあんなに大見栄張ったり、えらそうにしたりしてごめんなさいとか、質的研究法について講座開いたりとかそんなことやってるわりにこんなできでごめんなさいとか、あぁもうすみません、もう懺悔しかできません…。
あぁ…。
あぁ…。
あぁ……。
関パレまであとすこし
やー、もう関パレまであっという間にあと1日だよー。
死ぬー。
連日多忙です。
いまさら関パレとはなんぞや
サイト: http://kansaiparade.org/
ブログ: http://blog.kansaiparade.org/
衣装やら楽器やらなんやらで大荷物です。
ここ1ヶ月くらい、忙殺され、考え事が全然できていなかったように思います。
仕方ないけど。
関パレでのメッセージは考えるようにしてます←
本当はそのまま関パレブログに載せる予定の記事をここで先に転載しちゃおうかなと思ったのだけど、さすがに間主観的に見たらちょっとそれはフフみたいに感じ取ることができたのでおあずけ…w
関パレへの思いはそこで書いてる予定なので、アップされた(担当が私だから「アップした」だけど←)らこっちでも転載しようと思います。
じゃあこの個人的なぼそぼそ続けているブログでは何を書こうかなと考えてしまうのですが…。
関パレ記事に書けなかった、書いていない思いについて書きましょうか。
とにかくハード。
でも高校のときの文化祭を思い出してすごく楽しい。
そのときの文化祭は、たかが文化祭でも、文化祭実行「副」委員長をやると楽しいんですよ。
使えない実行委員長の代わりに、校内を走り回り、職員室の放送機材でアナウンスし、作業し、後輩と協力し合ったり、すごく楽しかった。
すっごく独特です。
関パレへ向かっている今の状況は今までの人生の中で参照したらそれが一番近いような気がします。
お祭りだもんね。
あるいは、大学での部活の定期演奏会かな。
でもそれは箱の中でやるものだから雰囲気やイメージや想起してくるものが違いますね。
自分の担当の作業をワーーーっとやって、たびたび達成感が生まれます。
やりがいがあるんだよね。
実行委員の仲間たちはここから大阪へと遠いのだけども、WEBを通じて互いにガツガツ仕事進めてる感じ好きよ。
関パレで掲載する記事にかぶりますが、私は「みんなを勇気づける存在」として関パレで歩きたいと思っています(結局書いてまうのか、みたいな)。
トラメガ使って、みんなを励ますのよ~~。
なんだかぐだぐだと書いてしまった。
死ぬー。
連日多忙です。
いまさら関パレとはなんぞや
サイト: http://kansaiparade.org/
ブログ: http://blog.kansaiparade.org/
衣装やら楽器やらなんやらで大荷物です。
ここ1ヶ月くらい、忙殺され、考え事が全然できていなかったように思います。
仕方ないけど。
関パレでのメッセージは考えるようにしてます←
本当はそのまま関パレブログに載せる予定の記事をここで先に転載しちゃおうかなと思ったのだけど、さすがに間主観的に見たらちょっとそれはフフみたいに感じ取ることができたのでおあずけ…w
関パレへの思いはそこで書いてる予定なので、アップされた(担当が私だから「アップした」だけど←)らこっちでも転載しようと思います。
じゃあこの個人的なぼそぼそ続けているブログでは何を書こうかなと考えてしまうのですが…。
関パレ記事に書けなかった、書いていない思いについて書きましょうか。
とにかくハード。
でも高校のときの文化祭を思い出してすごく楽しい。
そのときの文化祭は、たかが文化祭でも、文化祭実行「副」委員長をやると楽しいんですよ。
使えない実行委員長の代わりに、校内を走り回り、職員室の放送機材でアナウンスし、作業し、後輩と協力し合ったり、すごく楽しかった。
すっごく独特です。
関パレへ向かっている今の状況は今までの人生の中で参照したらそれが一番近いような気がします。
お祭りだもんね。
あるいは、大学での部活の定期演奏会かな。
でもそれは箱の中でやるものだから雰囲気やイメージや想起してくるものが違いますね。
自分の担当の作業をワーーーっとやって、たびたび達成感が生まれます。
やりがいがあるんだよね。
実行委員の仲間たちはここから大阪へと遠いのだけども、WEBを通じて互いにガツガツ仕事進めてる感じ好きよ。
関パレで掲載する記事にかぶりますが、私は「みんなを勇気づける存在」として関パレで歩きたいと思っています(結局書いてまうのか、みたいな)。
トラメガ使って、みんなを励ますのよ~~。
なんだかぐだぐだと書いてしまった。
虹色どまんなかパレード参戦!
行ってきました、虹色どまんなかパレード!
友人知人たちが主体となって運営していただけに行かないわけにはいきませんでした。
2012年10月27日虹色どまんなかパレード@名古屋 池田公園!
写真撮りまくったけどバルーンリリースの写真はないよ!!
被写体に専念したからね!!!
2つのフロートで構成されていて、私は洋楽フロートにいたのだけど、なかなかスピーカーの音楽が聴こえない位置にいたもので、ノリきれないので、叫ぶことにしました。
「多様な性に、YES!!」
「世の中にはゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、Xジェンダー、アセクシュアルの人がいます!」
周りのみんなもノって一緒に叫んでくれて嬉しかったし、楽しかった。
参加者で工夫して楽しまないとね。
即興で考えたものだったのでなかなか改良の余地はありです。もちろん。
せっかく知らない人たちにアピールできるのだから、叫んでおかないと♪
動画も作ってみました。
許可取り済みです☆
画像と動画のアップでへとへとなのでここらへんで…。
いろいろ考えることがあったようななかったような気がしますが…。
(いや、あった)
その人の立場によっては、自らの立場として、楽しむ視点も批判をする視点も必要ですよね。
私は批判をする視点があるから楽しめないというのは乗り越えます。
私はどちらもやってみちゃう。
それが私には必要なので。
たぶん、いつか、批判についてはまとめたいです。
何にでも批判はあります。
そして、この批判は自分にも関係があるので。
ひとまずは、虹パレのみなさんお疲れ様でした!
第一回目大成功に終わり、参加した身として素晴らしいと思うし、とっても嬉しいです。
そして、すっごく楽しかった!!!
『性の多様性に、YES!!!』
友人知人たちが主体となって運営していただけに行かないわけにはいきませんでした。
2012年10月27日虹色どまんなかパレード@名古屋 池田公園!
写真撮りまくったけどバルーンリリースの写真はないよ!!
被写体に専念したからね!!!
2つのフロートで構成されていて、私は洋楽フロートにいたのだけど、なかなかスピーカーの音楽が聴こえない位置にいたもので、ノリきれないので、叫ぶことにしました。
「多様な性に、YES!!」
「世の中にはゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、Xジェンダー、アセクシュアルの人がいます!」
周りのみんなもノって一緒に叫んでくれて嬉しかったし、楽しかった。
参加者で工夫して楽しまないとね。
即興で考えたものだったのでなかなか改良の余地はありです。もちろん。
せっかく知らない人たちにアピールできるのだから、叫んでおかないと♪
動画も作ってみました。
許可取り済みです☆
画像と動画のアップでへとへとなのでここらへんで…。
いろいろ考えることがあったようななかったような気がしますが…。
(いや、あった)
その人の立場によっては、自らの立場として、楽しむ視点も批判をする視点も必要ですよね。
私は批判をする視点があるから楽しめないというのは乗り越えます。
私はどちらもやってみちゃう。
それが私には必要なので。
たぶん、いつか、批判についてはまとめたいです。
何にでも批判はあります。
そして、この批判は自分にも関係があるので。
ひとまずは、虹パレのみなさんお疲れ様でした!
第一回目大成功に終わり、参加した身として素晴らしいと思うし、とっても嬉しいです。
そして、すっごく楽しかった!!!
『性の多様性に、YES!!!』
吉井奈々 (@xoxo_nana_xoxo) 氏の発言の問題
まずは発言文章より。
Twitterにて、吉井氏は以下のように発言なさいました。
転載します。
吉井奈々 (@xoxo_nana_xoxo) 氏の発言
【A】
テレビのオネエブームを性同一性障害をバカにしてる!トランスジェンダーをバカにしてる!と言っている方々も多いですよね。確かに色々な考え方があって良いと思いますが、それによって楽に生活できているという当事者の学生さんもちゃんと居るわけですし。あまりクローズになりすぎても良くないよね。
https://twitter.com/xoxo_nana_xoxo/status/255465056144347136
【B】
ヘテロの方々も、明るく楽しいポジティブなオネエやトランスジェンダー、性同一性障害、セクマイには偏見やイジメは少ないと思っています。暗くてウジウジしててマイナス思考な方々はセクマイ問わず受け入れられにくいよね。そこを履き違えている当事者さん達がとても多いの。
https://twitter.com/xoxo_nana_xoxo/status/255466074760413184
【C】
トランスジェンダーやトランスベスタイト、性同一性障害の当事者でヘテロの方々へ『偏見だ!私たちにもっと配慮しろ!』と言っている方々は私からみるとヘテロの方々へ偏見を持っている気がします。
https://twitter.com/xoxo_nana_xoxo/status/255467649721593856
以上のように、吉井氏の発言があまりにもトランスジェンダーをはじめとしたセクシュアルマイノリティに関するこれまでの問題系に鑑みていないので、私は以下のようにリプライしました。
【A】に対して
1.【色々な考え方があって良い】
問題を矮小化しています。実際はかなり重大なもので、このメディアによって人々の社会の認識は作られつつあります。これを解決する方向が未だに現在で必要です。
2.【それによって楽に生活できているという当事者】
それは「笑われる者」という役割によって生きながらえているという人々のことでしょうか。それはもはや構造的な問題を度外視しています。笑われずに生きるのはどうしたらいいか考えてみてくださいね。
3.【あまりクローズになりすぎても良くない】
どこがクローズになってるんやら。あなたがこの問題をクローズに見すぎです。もう少し自分の立ち位置を考えて。講師でしょ?人にモノ教えるんでしょ?
【B】に対して
4.【明るく楽しい~オネエ~には偏見やいじめは少ない】
それが偏見ですよね。なんで明るく楽しいイメージなんか与えられなきゃいけないんでしょう。セクマイの実際の姿はどこにいったんですか?
5.【マイナス思考な方々は~受け入れられにくい】
それがどうしたのでしょう。マイナス思考な方はいます。受け入れられるように明るくしろと言えば、あなたは大馬鹿です。結局マジョリティのことしか考えてない。
6.【そこを履き違えている当事者】
履き違えているもなにも、履き違えているのはあなた。あなたは今まで何を見てきたの?誰の助けをしようとしてるの?
【C】に対して
7.【当事者でヘテロの方々へ~偏見を持っている】
偏見を持たされたセクマイに限らず、人は偏見を持っていないとは限りません。しかし、あなたは再び問題をすり替え、マジョリティの偏見問題を棚上げした。問題を問題として認識すべきです。
未だこれに対するリプライは返ってきていませんが、この吉井氏の発言によって苦しめられてしまった人が減ればいいと思います。
世界で、学校で、会社で、家で、店で、道で、いないことにされたり、笑いものにされたり、明るいキャラクターを演じなくてはいけなかったり、そんなことはおかしいです。
セクシュアルマイノリティは誰のための存在でもないし、ましてやセクシュアルマジョリティのための存在でもなんでもありません。
自らがあるがままでいられる、あるいは、みんなが苦しまずに生きられるにはどうしたらいいか、考えてみましょう。
Twitterにて、吉井氏は以下のように発言なさいました。
転載します。
吉井奈々 (@xoxo_nana_xoxo) 氏の発言
【A】
テレビのオネエブームを性同一性障害をバカにしてる!トランスジェンダーをバカにしてる!と言っている方々も多いですよね。確かに色々な考え方があって良いと思いますが、それによって楽に生活できているという当事者の学生さんもちゃんと居るわけですし。あまりクローズになりすぎても良くないよね。
https://twitter.com/xoxo_nana_xoxo/status/255465056144347136
【B】
ヘテロの方々も、明るく楽しいポジティブなオネエやトランスジェンダー、性同一性障害、セクマイには偏見やイジメは少ないと思っています。暗くてウジウジしててマイナス思考な方々はセクマイ問わず受け入れられにくいよね。そこを履き違えている当事者さん達がとても多いの。
https://twitter.com/xoxo_nana_xoxo/status/255466074760413184
【C】
トランスジェンダーやトランスベスタイト、性同一性障害の当事者でヘテロの方々へ『偏見だ!私たちにもっと配慮しろ!』と言っている方々は私からみるとヘテロの方々へ偏見を持っている気がします。
https://twitter.com/xoxo_nana_xoxo/status/255467649721593856
以上のように、吉井氏の発言があまりにもトランスジェンダーをはじめとしたセクシュアルマイノリティに関するこれまでの問題系に鑑みていないので、私は以下のようにリプライしました。
【A】に対して
1.【色々な考え方があって良い】
問題を矮小化しています。実際はかなり重大なもので、このメディアによって人々の社会の認識は作られつつあります。これを解決する方向が未だに現在で必要です。
2.【それによって楽に生活できているという当事者】
それは「笑われる者」という役割によって生きながらえているという人々のことでしょうか。それはもはや構造的な問題を度外視しています。笑われずに生きるのはどうしたらいいか考えてみてくださいね。
3.【あまりクローズになりすぎても良くない】
どこがクローズになってるんやら。あなたがこの問題をクローズに見すぎです。もう少し自分の立ち位置を考えて。講師でしょ?人にモノ教えるんでしょ?
【B】に対して
4.【明るく楽しい~オネエ~には偏見やいじめは少ない】
それが偏見ですよね。なんで明るく楽しいイメージなんか与えられなきゃいけないんでしょう。セクマイの実際の姿はどこにいったんですか?
5.【マイナス思考な方々は~受け入れられにくい】
それがどうしたのでしょう。マイナス思考な方はいます。受け入れられるように明るくしろと言えば、あなたは大馬鹿です。結局マジョリティのことしか考えてない。
6.【そこを履き違えている当事者】
履き違えているもなにも、履き違えているのはあなた。あなたは今まで何を見てきたの?誰の助けをしようとしてるの?
【C】に対して
7.【当事者でヘテロの方々へ~偏見を持っている】
偏見を持たされたセクマイに限らず、人は偏見を持っていないとは限りません。しかし、あなたは再び問題をすり替え、マジョリティの偏見問題を棚上げした。問題を問題として認識すべきです。
未だこれに対するリプライは返ってきていませんが、この吉井氏の発言によって苦しめられてしまった人が減ればいいと思います。
世界で、学校で、会社で、家で、店で、道で、いないことにされたり、笑いものにされたり、明るいキャラクターを演じなくてはいけなかったり、そんなことはおかしいです。
セクシュアルマイノリティは誰のための存在でもないし、ましてやセクシュアルマジョリティのための存在でもなんでもありません。
自らがあるがままでいられる、あるいは、みんなが苦しまずに生きられるにはどうしたらいいか、考えてみましょう。
関西クィア映画祭にて
いってきました、関西クィア映画祭。
友人のキチスケとともに風邪をひきながら…。
関西クィア映画祭の感想について、私がTwitterでTweetした内容をここでまとめ、振り返りながら、それを踏まえて、再考したほうがよいような気がします。
インデントを下げているのがtweetです。
クィアトイレについて
クィアトイレは見つけてからテンションが上がりました。
どうやってジェンダーをバスターする??
関西クィア映画祭では、元の属性とも言える「女子トイレ」と「男子トイレ」を「打ち消す」ことによってそれを試みていました。
これは女子トイレではありません、といったように。
tweetにあるように、そこにも限界がありました。
クィアトイレと言ってしまうことで、カテゴライズされた「女子トイレ」と「男子トイレ」と等しい問題を受け継いでしまっているのですね。
すなわち、実際にはスタンダードトイレではないのか、という。
ただ、そのトイレを今まで利用してきた人々――元の属性を知っている人々に対しては「打ち消す」までしなければそれは「女子トイレ」と「男子トイレ」のままの認識なのでしょう。
ここには、「元の属性を知っていた人々」と「書き換えた属性を知りゆく人々」の問題が現れました。
実際に私がそれをそのトイレの存在を認識したとき、「せっかくだから(元の属性である)女子トイレに入ってみよう」と思い、利用しました。
ここには、その元の属性である「女子トイレ」であることに気づき、それを踏まえて書き換えられた属性のトイレとして利用しようという認識がありました。
つまり、「女子トイレではないトイレ」という標識によってその利用を可能にしてはいるものの、そのトイレへの認識は結局私にとって「元が女子トイレであった」、スタンダードトイレに向けてすら限界があったのです。
元から女子トイレ、男子トイレで二つに分けられている物理的な問題はいつまでもつきまとっていたのですね。
これは私の体験でしかないので、それでは私以外の人の体験を見てみましょう。
私がトイレを利用するとき、ある人がそのトイレを利用しようとしていました。
仮にAさんとしましょう。
私の認識からは、おそらくAさんは京都大学の学生で、いつもそのトイレを元の属性を認識して使っている方です。
Aさんは向かって右側のトイレを利用しようとしたとき、トイレの扉にある「これは男子トイレではありません」を見て、「えっ!?」と驚いて、そのまま立ち去っていきました。
男子トイレだと思い、利用しようとしたAさんにとって、そのトイレ――クィアトイレはAさんがAさん自身として利用してよいか分からず、戸惑ったのだと思います。
書き換えの意図を知らない、しかし、元の属性を知っている人にとっては困惑したのでしょう。
また、Bさんがいます。
BさんはTwitterでどちらのトイレに入ってよいか分からない旨をtweetしていました。
Bさんはセクシュアリティ、ジェンダー、クィアを「知る」人ではありますが、クィアトイレの意図を知った上で、「困った」のです。
私の憶測ですが、二つのトイレが、どちらも等しい存在であるはずが、Bさんにとって「女子トイレでない」、「男子トイレでない」の標識は、その意図を目論見ながらも、やはり「女子/男子」の二つの存在の枠組みが前提であり、そこで選択を迫られ、「困った」のです。
クィアトイレの試みはとても興味深いものであったのですが、ここまで振り返ると、その先に待ち受ける限界、課題もあり、それを解消していく議論が必要なのだとも分かりました。
なにはともあれ、この試みは私にとってとても面白かったし、素敵でした。
ありがとうございます。
ここから映画についてです。
ほかと比べてよく感想をtweetしたものについて取り上げます。
ワキシー・ムーンのばらいろの人生
Waxie Moon in Fallen Jewel
この映画は、事前のパンフレットや広告や情報によって、「ウキウキワクワクのドラァグなオカマの人生ストーリー!!」といった認識が私に与えられていました。
tweetしている間はこの重大さに気づかなかったのですが、これはとても重要です。
というのも、この認識自体が覆されるためです。
まずは全体的な構造の変容を見ていきましょう。
事前の情報を汲んで、冒頭から見ていくと、そこには、ドラァグなムーンのウキウキワクワクの人生が始まっていました。
男をいかにモノにするかの話、3人の親友とのセレブなやりとり、出会い系を介して素敵な男性と知り合う…。
すでにこの前の場面から徐々に疑惑をもたせ始めるのですが、結婚式とその後の家庭生活を見ると、どうやら「ムーンは典型的な女性であるらしい」。
子どもが生まれ、あげくにホモフォビアを露呈するムーン。
この映画のこの舞台で、ムーンは終始一貫して「女性」であったのです。
ムーンの容姿、容貌だけが私たちの目からして異なっていると思い込まされただけで、単なるセレブだったのでした。
ここには作者の何かしらの意図が見えてきますね。
全体の構造を踏まえ、もう一度冒頭から思い返してみましょう。
3人の親友とムーンは、それこそ4人の女性セレブ、何も違和感を感じることのない単なるセレブ4人でした。
出会い系で知り合った何人かの場面で、卑猥なやりとりを拒むムーン。
それは典型的な女性であるような態度、あるいは、ドラァグ、オカマらしからぬ態度であったように思います。
男性と知り合って結婚するムーン。
ウェディングドレスを着ているムーンはどう見てもドラァグな姿ですが、同性婚ではないことが見えてきます。
子どもを生んだムーン、近所の噂話に翻弄されるムーン、未亡人となり使用人に恋をするムーン、使用人の浮気現場を目撃してそこでホモフォビアを露呈するムーン、ゲイに襲われるムーン。
ここまで見るところ、そこかしらにゲイやレズビアンやドラァグなコンテンツを撒き散らしておきながら、ムーンの存在を女性として位置させている点で、作者はなかなかのトリックを使っているようです。
前半部分で、ムーンの親友一人が女性とのセックスを試しているシーンを映して、ムーンのドラァグに見える存在を、ミスリードさせているように思います。
ところが、後半から一転して、浮気現場でのホモフォビアで、明らかにムーンの女性としての存在をリードしています。
この映画の面白いところは、私たちが事前の情報からそれをドラァグの物語だと認識させられるものの、それはそうではないものとして、物語が進行するにしたがって私たちの映画に対する「見え」が変容していくところです。
これはなかなか難しい。
つまり、「私たちは何をもってその人とその世界を判断している?」ということです。
もっと他にも様々に考えられると思いますし、Twitterではヒバリさんも考察を続けています。
素晴らしい映画でした。
僕らの未来
全体として演技力は置いておいたほうがよいでしょう。
この映画の特徴的な部分は、主人公たるユウの「内言(そのとき思ったこと、感じたこと、考えたこと)」が表現されていない点です。
これによって、その行為の意味はなんだったのか様々に解釈する余地が生まれると同時に、なぜその行為をおこなったのか分かりにくくなります。
「そのときユウはどんな気持ちだったのだろう」。
分かりにくくてけっこうなんですね。
観る側の人の想像力によってくるということは、考察し続ける思いがあるかぎり、その想像力も鍛えられるのです。
一方で、共感の具合もかなり人によって変わってくる作品だと思います。
私はどうもユウには共感しかねなくて、ハルカに共感していました。
ハルカの「何も悪いことしてるわけじゃない」はうるっときました。
tweetにあるものから考えますと、ユウが好きだという女性の存在です。
この物語では途中退場となりましたが、別の物語ではその女性の存在によって、作品自体が明るい印象を与えたかもしれません。
ここで言っている「この物語」と「別の物語」は、可能性の話です。
この物語では苦しみぬいたストーリーという印象が与えられますし、一部ではそれによって共感を呼ぶでしょう。
みなさんが気になるのは最後のシーンの、ユウが女子制服を着て学校へ行くシーンではないでしょうか。
私は「あれ?」と思ったのですが、それはユウの「男性へ」という思いをずっと見てきたからです。
でも確かにハルカは男子制服を川に捨てたし、ジャージはダメとか言われていたままでした。
ユウの、様々な出来事を経て女子制服を着ていく意味は何だったのでしょう。
考えられる限り、ひとつが、「制服なんかどうだってよいし自分にとって関係ない」という意識への変容、ふたつが、「このままやれるところまで耐え抜いてみよう」という意識への変容、みっつが、「この制服を捨てたくなるまで待とう」という意識への変容、これらくらいしか、今の私には思いつきません。
みなさんはこの映画を見てどのように考えたでしょうか。
ぜひ聞いてみたいです。
以上、長々と、関西クィア映画祭の感想でした。
とても有意義な時間を過ごせました。
友人のキチスケとともに風邪をひきながら…。
関西クィア映画祭の感想について、私がTwitterでTweetした内容をここでまとめ、振り返りながら、それを踏まえて、再考したほうがよいような気がします。
インデントを下げているのがtweetです。
クィアトイレについて
ひびのさんとのお話から、クィアトイレは「クィアトイレ」と言ってしまうことにも問題があるとのこと。スタンダードトイレじゃないの?という。なるほど。ただ、いつも使っている人に対して考えると「打ち消し」を使わないと分からないそうです。
クィアトイレは見つけてからテンションが上がりました。
どうやってジェンダーをバスターする??
関西クィア映画祭では、元の属性とも言える「女子トイレ」と「男子トイレ」を「打ち消す」ことによってそれを試みていました。
これは女子トイレではありません、といったように。
tweetにあるように、そこにも限界がありました。
クィアトイレと言ってしまうことで、カテゴライズされた「女子トイレ」と「男子トイレ」と等しい問題を受け継いでしまっているのですね。
すなわち、実際にはスタンダードトイレではないのか、という。
ただ、そのトイレを今まで利用してきた人々――元の属性を知っている人々に対しては「打ち消す」までしなければそれは「女子トイレ」と「男子トイレ」のままの認識なのでしょう。
ここには、「元の属性を知っていた人々」と「書き換えた属性を知りゆく人々」の問題が現れました。
実際に私がそれをそのトイレの存在を認識したとき、「せっかくだから(元の属性である)女子トイレに入ってみよう」と思い、利用しました。
ここには、その元の属性である「女子トイレ」であることに気づき、それを踏まえて書き換えられた属性のトイレとして利用しようという認識がありました。
つまり、「女子トイレではないトイレ」という標識によってその利用を可能にしてはいるものの、そのトイレへの認識は結局私にとって「元が女子トイレであった」、スタンダードトイレに向けてすら限界があったのです。
元から女子トイレ、男子トイレで二つに分けられている物理的な問題はいつまでもつきまとっていたのですね。
これは私の体験でしかないので、それでは私以外の人の体験を見てみましょう。
私がトイレを利用するとき、ある人がそのトイレを利用しようとしていました。
仮にAさんとしましょう。
私の認識からは、おそらくAさんは京都大学の学生で、いつもそのトイレを元の属性を認識して使っている方です。
Aさんは向かって右側のトイレを利用しようとしたとき、トイレの扉にある「これは男子トイレではありません」を見て、「えっ!?」と驚いて、そのまま立ち去っていきました。
男子トイレだと思い、利用しようとしたAさんにとって、そのトイレ――クィアトイレはAさんがAさん自身として利用してよいか分からず、戸惑ったのだと思います。
書き換えの意図を知らない、しかし、元の属性を知っている人にとっては困惑したのでしょう。
また、Bさんがいます。
BさんはTwitterでどちらのトイレに入ってよいか分からない旨をtweetしていました。
Bさんはセクシュアリティ、ジェンダー、クィアを「知る」人ではありますが、クィアトイレの意図を知った上で、「困った」のです。
私の憶測ですが、二つのトイレが、どちらも等しい存在であるはずが、Bさんにとって「女子トイレでない」、「男子トイレでない」の標識は、その意図を目論見ながらも、やはり「女子/男子」の二つの存在の枠組みが前提であり、そこで選択を迫られ、「困った」のです。
クィアトイレの試みはとても興味深いものであったのですが、ここまで振り返ると、その先に待ち受ける限界、課題もあり、それを解消していく議論が必要なのだとも分かりました。
なにはともあれ、この試みは私にとってとても面白かったし、素敵でした。
ありがとうございます。
ここから映画についてです。
ほかと比べてよく感想をtweetしたものについて取り上げます。
ワキシー・ムーンのばらいろの人生
Waxie Moon in Fallen Jewel
ワキシー・ムーンはけっこう作者の意図を考えようとすると面白いですね。関西クィア映画祭
クィア映画祭のワキシー・ムーンが記憶に残ってる。「出会い」、「結婚」のあたりから途端に舞台に対する「見え」が変容していった。性的欲望が露な男性に対する「私たちの見る側からしてドラァグな」ムーンの反応。その結婚がなんなのかという問いを産み出した、ウェディングドレスを着たムーン。
「見え」の変容を感じたときに、ただちに冒頭から振り返れば、この物語はクィアなスター、ムーンの人生を綴った単純なものでない、作者の策略が見えてきました。ムーンはあの世界では、女優としてのスターだった。
ワキシー・ムーンをもうちょっと考えたい~。
ムーンは、観衆の私たちから見てクィアなんですが、舞台の人々から見てクィアでないんですよね。何かを「クィアすること」のヒントがありそうに感じるんだけど、クィアするってどんなニュアンスだったのかがまず忘却の彼方…。
ワキシー・ムーン、あの舞台の策略がイチバン効いてるのはムーンのホモフォビアが露呈した彼の浮気シーンだよね。あれは観衆の「見え」が変容してからずいぶん経った場面だからまんまと策略にはまってそのおかしさに気づけないのだけど、あれが冒頭なら笑うしかないでしょ。すっごく滑稽に見えるはず。
「見え」の変容が認識されていくにつれてムーンが自分より遠い、離れた人物に映り出していき、よそよそしさを感じ、共感しえない存在へとなっていくのもまた面白かった。最初は「超クィア!かっこいい!」だったのが、そうではなくなっていった。じゃあどこで私たちは同質さや異質さを感じるのかと。
私たちの生きる世界でのクィアに共感していたのが、ムーンの生きる世界でのクィアが異なっており、ムーン側の世界でのクィアを見ようとしたこと。そこなのかなぁ。自分たちの世界での解釈や認識よりもその人の主観的な世界でのものへ焦点を合わせたところ、共感のあり方が異なっていた。
構造としては単純なんだけど、かなりトリッキーで、分かりやすいのか分かりにくいのか分からないのが面白いw
というのも、残る課題に、あの舞台での美意識がどうなってるのかというものがあるため。ムーンは私の目にはドラァグに見え、着飾った面白いものに見えたが、あの舞台の世界ではムーンは「美しい」らしい。他の登場人物でも私の世界で美しいと思うものが舞台の世界でも美しいとされていた。ex)娘
美意識すらもクィアするのだろうか。
この映画は、事前のパンフレットや広告や情報によって、「ウキウキワクワクのドラァグなオカマの人生ストーリー!!」といった認識が私に与えられていました。
tweetしている間はこの重大さに気づかなかったのですが、これはとても重要です。
というのも、この認識自体が覆されるためです。
まずは全体的な構造の変容を見ていきましょう。
事前の情報を汲んで、冒頭から見ていくと、そこには、ドラァグなムーンのウキウキワクワクの人生が始まっていました。
男をいかにモノにするかの話、3人の親友とのセレブなやりとり、出会い系を介して素敵な男性と知り合う…。
すでにこの前の場面から徐々に疑惑をもたせ始めるのですが、結婚式とその後の家庭生活を見ると、どうやら「ムーンは典型的な女性であるらしい」。
子どもが生まれ、あげくにホモフォビアを露呈するムーン。
この映画のこの舞台で、ムーンは終始一貫して「女性」であったのです。
ムーンの容姿、容貌だけが私たちの目からして異なっていると思い込まされただけで、単なるセレブだったのでした。
ここには作者の何かしらの意図が見えてきますね。
全体の構造を踏まえ、もう一度冒頭から思い返してみましょう。
3人の親友とムーンは、それこそ4人の女性セレブ、何も違和感を感じることのない単なるセレブ4人でした。
出会い系で知り合った何人かの場面で、卑猥なやりとりを拒むムーン。
それは典型的な女性であるような態度、あるいは、ドラァグ、オカマらしからぬ態度であったように思います。
男性と知り合って結婚するムーン。
ウェディングドレスを着ているムーンはどう見てもドラァグな姿ですが、同性婚ではないことが見えてきます。
子どもを生んだムーン、近所の噂話に翻弄されるムーン、未亡人となり使用人に恋をするムーン、使用人の浮気現場を目撃してそこでホモフォビアを露呈するムーン、ゲイに襲われるムーン。
ここまで見るところ、そこかしらにゲイやレズビアンやドラァグなコンテンツを撒き散らしておきながら、ムーンの存在を女性として位置させている点で、作者はなかなかのトリックを使っているようです。
前半部分で、ムーンの親友一人が女性とのセックスを試しているシーンを映して、ムーンのドラァグに見える存在を、ミスリードさせているように思います。
ところが、後半から一転して、浮気現場でのホモフォビアで、明らかにムーンの女性としての存在をリードしています。
この映画の面白いところは、私たちが事前の情報からそれをドラァグの物語だと認識させられるものの、それはそうではないものとして、物語が進行するにしたがって私たちの映画に対する「見え」が変容していくところです。
これはなかなか難しい。
つまり、「私たちは何をもってその人とその世界を判断している?」ということです。
もっと他にも様々に考えられると思いますし、Twitterではヒバリさんも考察を続けています。
素晴らしい映画でした。
僕らの未来
「僕らの未来」、はるかの言葉でうるっときたわ。関西クィア映画祭。
映画についてでも…。「僕らの未来」はちょっと重たい内容でした。調整してるなぁと思った部分が、FTM、MTF、ゲイを登場させていたところかな。いじめ、自死、カミングアウトについても扱っていました。重たいです。
私、こういう登場人物が何人かいる物語について、誰に共感するかの話が好きです。私はハルカに共感してたわ。ユウは葛藤と怒りを見たけど、ハルカは受け止めていくしかない、やりこなすしかない姿を見たように思う。
演技のよそよそしさはもうしょうがないんだと思う。唯一明るいキャラクターが、ユウを好きになった女の子(名前思い出せない)だったんだけど、ほどなくして他の男子生徒と仲良くなって(ユウがそうした)退場という感じ…。あの子がどう動くか、どう映すかで作品の全体像も変わっていったでしょう。
ちょっと気になったのが、「僕らの未来」で、字幕のGIDのスペルがGDIになってたり、てにをはが一箇所抜けてたりしたのが気になりました。日本語話者が多いと字幕チェックは見落としがちなのかもね…。徳島で映画祭を考えているのでこれは貴重な参考ですし、これもいい経験。
「僕らの未来」、泣きそうになったシーンが二箇所、歩きながら道端で嘲笑を感じて、ハルカがユウに「私たちは何も悪いことをしたわけじゃないよ」と声をかけたところと、ベンチに4人座っているところね。勇気づけているのね。過去の私に誰かその言葉をかけてあげて~と、思いが巡りました。
ヒバリさんやくろちゃんとも話したけど、最後の「あの」制服で学校へ行く意味が気になりますね。単純には「なぜ?」となるかもしれないけど「そういえば私もそうだったね」と気づかされる。これは単純で典型的で意図的に終話を迎えるトランスジェンダーの話でも性同一性障害の物語でもないわけです。
私だって男子学生服が嫌だったけど「途中」で着こなすようになった。この途中がこれまた人によって激しく異なるし、意味がまったく違うものだとは思うのですが…。私の場合、その過去の、「MTFからゲイへのアイデンティティ変遷」の意味だとは思っていますが、ユウの場合は違うでしょう。
(私の今までの変遷としてはMTF→ゲイ→Xですが)
全体として演技力は置いておいたほうがよいでしょう。
この映画の特徴的な部分は、主人公たるユウの「内言(そのとき思ったこと、感じたこと、考えたこと)」が表現されていない点です。
これによって、その行為の意味はなんだったのか様々に解釈する余地が生まれると同時に、なぜその行為をおこなったのか分かりにくくなります。
「そのときユウはどんな気持ちだったのだろう」。
分かりにくくてけっこうなんですね。
観る側の人の想像力によってくるということは、考察し続ける思いがあるかぎり、その想像力も鍛えられるのです。
一方で、共感の具合もかなり人によって変わってくる作品だと思います。
私はどうもユウには共感しかねなくて、ハルカに共感していました。
ハルカの「何も悪いことしてるわけじゃない」はうるっときました。
tweetにあるものから考えますと、ユウが好きだという女性の存在です。
この物語では途中退場となりましたが、別の物語ではその女性の存在によって、作品自体が明るい印象を与えたかもしれません。
ここで言っている「この物語」と「別の物語」は、可能性の話です。
この物語では苦しみぬいたストーリーという印象が与えられますし、一部ではそれによって共感を呼ぶでしょう。
みなさんが気になるのは最後のシーンの、ユウが女子制服を着て学校へ行くシーンではないでしょうか。
私は「あれ?」と思ったのですが、それはユウの「男性へ」という思いをずっと見てきたからです。
でも確かにハルカは男子制服を川に捨てたし、ジャージはダメとか言われていたままでした。
ユウの、様々な出来事を経て女子制服を着ていく意味は何だったのでしょう。
考えられる限り、ひとつが、「制服なんかどうだってよいし自分にとって関係ない」という意識への変容、ふたつが、「このままやれるところまで耐え抜いてみよう」という意識への変容、みっつが、「この制服を捨てたくなるまで待とう」という意識への変容、これらくらいしか、今の私には思いつきません。
みなさんはこの映画を見てどのように考えたでしょうか。
ぜひ聞いてみたいです。
以上、長々と、関西クィア映画祭の感想でした。
とても有意義な時間を過ごせました。