あるとき川崎の等々力アリーナで武術空手の大会が行われることを知りました。ここでいう武術空手とは顔面パンチなしの投げ・絞め・関節技ありのフルコンタクト空手の試合のことで、総合格闘技道場アンダーグラウンドでフルコンタクト空手とブラジリアン柔術を稽古していた僕には最適なルールで思いっきり力が発揮できるのではと考え、重量級での出場を決意しました。

特に素面というのが僕の好みに合ってました(防具付だったら出ませんでした)。

決勝まで進み、相手は試合ルール説明で模範演技をやっていた選手になりました。ド派手に勝ち進んできた主催者の息子さんです。

聞けばなんとまだ19歳だというではないですか!

決勝戦を待って待機していたら、コート係の方が、

「あの選手、極真の大会でも優勝しちゃうくらい強いんですよ(だからあなたは勝てないよ)。」などと言うではありませんか。()内はあくまで僕の想像(笑)

これに僕の闘争心に火がつきました。

「なにぃ~、31歳の俺がこないだまで高校生だった子供に負ける訳にいかんだろ。そりゃ純粋なフルコンタクト空手の技術じゃ劣っているかもしれない。でも組技・寝技OKなら俺にも勝機はある!」

試合開始早々、僕は相手の道着を掴み振り回して場外に振り投げました。メインイベントの重量級、観客から多くの声援やセコンドの応援を受けました。

しかし相手もやはり強豪、セコンドの修斗のマモル選手のアドバイスを受けながら寝技もきりぬけ、延長戦で僕に上段廻し蹴りを極め、僕が片膝をついてしまったので技ありとなり、僕は負けました。

19歳に負けたこと、特に効いていなかったのにスタミナロスで片膝をついた自分の情けなさで本当に悔しかったです。

試合後称えるため挨拶に行ったら、話してみるとあどけなさの残る少年で「中学時代柔道部だったから免疫はあったけど、寝技は怖かったです。」と言ってくれました。

僕は来年リベンジを誓いましたが、結局この後、稽古中に首の骨を折りこれが最後の試合、引退試合になってしまいました。ただ僕が遊び呆けていた19歳の頃、この子と同じくもっと真っ当に空手と向き合っていたら、また違う空手人生があったんじゃなかっただろうかと思いを馳せます。

さて、ここらへんで空手道ともちゃん道も終わりにしたいと思います。まだ「ブラジリアン柔術編」や「憧れの極真出稽古編」などお話はあるにはあるのですが、たいした実績も残せませんでしたので終わりにさせてください。

皆様には最後まで読んで頂き本当に感謝です。ただ最後に一言申したいのは、僕は実績のないただの一地方のアマチュア空手修行者であり、それ以上でもそれ以下でもないということです。決して武勇伝や自慢話をしてきた訳ではないということは、初めから読んで下さった方にはわかって頂けると信じています。

それでは、僕の昔話に付き合って頂きありがとうございました!

マニアックな空手ファンならご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、アテネオリンピック前に國際松濤館と大道塾と合同で「パンクレーション連盟」を立ち上げ、総合格闘技をオリンピック種目にしようとする動きがありました。

僕は國際松濤館側の人間として(下っ端のペーペーですが)稽古会や会議に参加しました。

稽古会ではアレクセイ・コノネンコ選手や武山卓己選手、後に大道塾のエースとなる藤松泰通選手(現在は大道塾を離脱)がまだ緑帯で参加しており、雑誌で見る一流選手達を前に完全にファン目線でいました(笑)

スパーではライトスパーなのにコノネンコ選手が外国人特有の空気を読まない強打できたので、思いっきりローキックで応戦したら「!」って感じでちょっと驚いてました。まぁ、その後首投げで投げられましたが、まさか伝統空手と思ってたのにローキック喰らわされるとは思ってなかったんでしょう。

藤松選手は後年の達人のようなファイトスタイルではなく、ガンガン前に出てくる姿が印象的でした。そのカウンターで飛び膝蹴りを合わせたりしました。

武山選手とは寝技のスパーをしました。伝統空手の選手だと思って軽くみていたと思うんですが、僕もその頃は寝技の心得があったんで極めさせませんでした。終わった後「いやぁ~、強いなぁ。もっと稽古すればもっと強くなるよ。空道やったら?」と言って頂きました。

あの伝説の東孝先生にも声をかけて頂き、「ぜひ試合出てよ。」と言われましたが、こっちは「あぁ、極真の重戦車だ。」と完全に恐縮し「いえ、押忍、自分なんか役不足です...押忍...。」としどろもどろに答えるのがやっとでした。

しかしながらこの後、両者は決裂しパンクレーション連盟構想は水の泡と消えました。でも、現在大道塾さんは全日本空道連盟そして国際空道連盟を立ちあげられ世界に裾野を広げ、オリンピック種目となるように活動・活躍されており、かつて交流させて貰った者として本当に応援しています。これからも益々の繁栄を祈念しております!

父の道場に戻ってきた僕は、中学時代からの先輩のY君とフルコンタクト空手の稽古を始めました。Y君は木更津中央高校空手部出身(現総合高校)ながら、フルコンの大会でも優勝するという僕と同じ指向を持った先輩でした。皆が伝統空手を稽古している中、片隅でふたりがフルコンの稽古をするという奇妙な光景がしばらく続きました。

そのうち寝技もやりたいねという話になり、Y君が同級生の日体大柔道部出身のYちゃんを連れてきました。

いまでこそYちゃんと気軽に呼んでいますが、中学時代は目を合わせられないほどの怖い隣の中学の憧れの先輩で、正直ちょっとビビりました。ただ当時から他の先輩はこちらが挨拶してもシカトだったのに、Yちゃんは必ず礼を返す尊敬できるひとでした。

まず最初に闘ってみようということになり(笑)、僕は構えました。「柔道だから相手は必ず道着を掴みに接近してくるはずだ。そこに顔面を打ちぬこう。」と考えました。

しかし実際は違いました。

始めと同時にYちゃんは素早く僕に胴タックルに入り、倒して腕ひしぎを極め、僕はタップしました。秒殺です。

あまりのあっけなさに僕は悔しさより笑いのほうがでて、ただただあっけにとられてしまいました。

「やっぱYちゃん強いわ!さすが憧れの先輩だよ。」

「いやいや、もたもたしてたら智也の打撃でやられてしまうので、勝負は一瞬で極めないとね。」

Yちゃんもかつてヤクザを投げ飛ばした武勇伝の男でした。

それから「空手家は寝たらなんにもできない。」といわれるのが嫌だったので、柔道を教わりました。1対1での実戦の場合、組技・寝技習得は必修だとは身に染みてわかっていました。

その後、Yちゃんは千葉経済大学付属高校柔道部顧問の仕事が忙しくなり一緒に稽古できなくなってしまいました。

しかし縁あって総合格闘技道場アンダーグラウンドに入門し、そこでブラジリアン柔術と出会い、「日本ブラジリアン柔術界の父」中井祐樹先生の主催するパラエストラの大会で優勝できるくらいにはなりました。

 

独り暮らしの貧乏学生だった僕はバイトしなければならず、またバンド活動もあった為、たくさん空手の稽古ができる状態ではありませんでした。そのかわり?といってはなんですが喧嘩はしました。例えば...

①バイトへ行く途中渋谷駅の階段を登っていると、僕の傘が持ち方が悪かったので後ろの男性に当たってしまいました。「危ねぇなぁ!」と荒い言い方をされたので逆上し殴りかかっていきました。すぐに逃げられました...これは100%僕が悪い(反省)。

②井の頭線で座席に座った時、誤って隣の男性の裾をお尻で踏んでしまいました。「すみません。」と謝ると相手は舌打ちをしたので「謝っているのにその態度はなんだ、この野郎!」と襟首を持ち上げて立たせ、思いっきりローキックを叩きこんでやりました。すぐさま他の乗客数名に仲裁に入られました。

③友達と酔って歌舞伎町をふらふら歩いていると、前から10人くらいのチーマーが絡んできたので応戦しました。ひとりに右ストレートを浴びせ前歯を折り「歯折ったぞ~!」と怒鳴ったら退散していきました。

しかしながら、今こうして振り返るとなんだか恥ずかしく情けない思いが込み上げてきます。真面目に空手に励んでおられる方々に恥ずかしく思いますね。また20歳前後の一番良い時をこんな過ごし方をしてしまってもったいなかったな、だから空手家としては三流で終わったんだなと後悔します。まぁ当時はとても楽しい学生生活でしたけど。

空手がまたコンスタントに稽古できるようになるのは、卒業して南青山のアパレルに就職して1年半で退職し(この期間はほぼ毎日終電帰りで全く稽古できませんでした。)、地元に帰ってからになるのです。

空手の道に戻るのに僕は正道会館しか頭にありませんでした。当時K-1スタートで正道会館は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたし、また顔面有りがやりたくなったらK-1クラスもありましたし(まだ柔法クラスは当時なかった)。

なんといっても中学生の時に遭遇したあのフルコンタクト空手をやりたいと思ったからです。なんとなくこれも運命だなぁ~と感じていました。

入門してまず驚いたのは丁寧語で指導されたことです。な~んだ、そんなことと思われるでしょうが、いままで格闘技を丁寧語でなんか教えてもらったことのない僕にとってはものすごいカルチャーショックでした。「あぁ、これがお金をもらって生徒に指導する、いわゆるプロなんだな。」と感心しました。

また90年代の格闘技界のトップ選手だったアンディ・フグ先生や子安慎吾先生、平直行先生(当時在籍)に直接指導頂き、一流選手の凄さをまざまざとみせつけられたのは僕の格闘技人生の宝となりました。僕は先生達のメニューには全然ついていけませんでしたが、本物の技を間近に見れたことは言葉にできない思いでした。だってローキック一発で相手が空中を一回転しちゃうなんて信じられませんでしたよ。

僕の左右のステップワークを使った組手は完全に子安先生の影響です(パクリというにはとても恐れ多い)。

こうして大学時代3年間在籍しました。

寒風が身を切り裂く真冬の公園にふたりは対峙していました。観衆は友達10人、レフェリーにはプロレス好きの幼馴染の慶応大生G君にお願いしました。ふたりとも素手・素面。ルールは...かっこよくいえばお互いのプライドがルールでした。

「ファイト!」

Iは低い前屈立ちで伝統空手の2,3倍の遠い間合いから素早い摺り足で単打を狙ってくる独特なスタイルでした。

あまりにも間合いが遠いのでこっちの攻撃も届かず、なかなか打撃の攻防になりません。イライラした僕は相手が接近してきた瞬間、かつてムエタイにやられたように首相撲から膝蹴りを連打しそのまま倒してマウントをとり顔面にマウントパンチを炸裂させました。これは当時スタートしたアルティメット(現UFC)の影響でした(笑)

顔面が変形し流血しながらもあくまでIはギブアップしないので、殴りながらもレフェリーのG君に「このままでは死んでしまう!早く試合を止めてくれ!」と頼みました。

「ス、ストップ!止め~っ!」

レフェリーストップで試合は終わりましたが、純粋な空手の攻防にならなかったこと、汚い試合を仲間にみせてしまったことで、僕はどんよりとした気分になりました。

僕が暗く沈んでいるとIが「今日はありがとうございました。僕にとって空手=高浦さんだったんで闘えてよかったです。」と口から血を出しながら笑ってくれました。

「そうか!僕の知らないとこでIにそんな影響を与えてたんだな。そういうふうに思ってもらえるなんて光栄じゃないか。やっぱ僕は空手をやるべきなんだ。」とその時強く思ったんです。

この一戦で僕は再び空手の道に戻ろうと決心したのでした。

その年の冬休みにまた地元へ帰った僕は1コ下の後輩のIと再会しました。Iは高校時代に同じバンドでボーカルをやっていたヤツでした。

「高浦さん、俺大学で空手部に入りました。俺と闘ってください。」

聞けば彼は「空手界の哲学者」南郷継正先生の玄和会空手の空手部に入部したのだという。先生の名著「武道の復権」他には僕も大変感銘を受けていました。

「えぇ?もう空手はやってないし、キックも辞めちゃったからなぁ。」と言うと、

「俺の空手だったら極真のゴリラ空手にもキックボクシングにも勝てますよ。」と言うではありませんか。

「よし、じゃ一丁やってやるか!」と僕は挑戦を受けることにしました。

こうして年明けの1月3日に海沿いの潮浜公園で闘うことが決まったのです。

命からがらどうやって家に帰ったかも覚えていません。でも両耳の穴から流血していたので次の日耳鼻科へ行ったら、「こりゃひどいな。両鼓膜破裂と両外耳が切れています。鼓膜は再生するけど、このまま頭を殴り合うようなことやってると聴覚障害・難聴になりますよ。キックボクシングは辞めなさい。」と医師に言われてしまいました。

この時僕は思いました。「あぁ、経験者なんて言ったから潰されちゃったな。素人ですって言えばよかった...ただ純粋に技術を学びたかっただけなのに。」

音楽好きの僕にとって聴覚障害や難聴になることは避けたかった。なのでこのドクターストップを受け入れることにしました。自分なりの礼儀とけじめとして秩父での夏合宿をやり遂げてキックボクシング部を退部しました。

心にすっかり穴の空いた僕は「もうしばらく格闘技はいいや。これからはバンド中心に活動していこう。」と思いました。

しかしながら、また僕を格闘技に引きもどす事件がこの冬に起こるのです。

(誤解なきよう追記しておきますが、花澤ジムに対して感謝こそすれ恨みなど全くありません。その証拠に現会長のK君は僕の父がコーチしていた木更津総合高校空手部のOBであり、笑って話せる間柄です。)

H会長が「サンドバック蹴ってみろ。」というので蹴っていたら「あぁ、思ったよりできるな(たぶん伝統空手でなくキックボクシングの様になっているという意味だったと思います)。」と言い、タイ人トレーナーのバンモットさんを呼んで「こいつをみてやってくれ。」と頼みました。

バンモットさんは僕に、かかんで右ボディストレートから右ハイキックをひたすら全力でサンドバックに叩き込めと僕に命じました。なんとこれが休みなく30分以上続いたのです。

ハードな練習は部活で慣れていましたが、これだけで疲弊してしまいました。でもその後も休憩はもらえるのですが、水分を摂ることを禁じられたのでだんだん意識が遠のいていくのがわかりました。それでもなんとか首相撲、ミット練習、スパーリングとこなし当時チャンピオンだったハンマー松井さんから「首相撲強いね。」と言われたことがせめてもの救いでした。

3時間経ち「いやぁ、やっとこれで終わりだなぁ。」と思っていたら、H会長が「リングへ上がれ。ガチスパーだ。」というではないですか。

「他のひとは終わってるのに。」と思いながら、もうスタミナがなかったので先手必勝ゴングが鳴ったと同時に鬼ラッシュしたらめちゃくちゃ怒られました(笑)でもひとって簡単に倒れないんですよね。なんとか2Rやりました。

もうこれで終わりだと思ったら、バンモットさんが「今度は俺の息子と闘え。」というではありませんか。

僕19歳。彼15歳。

今考えると4歳しか違わないですが、まさか大学生の僕が中学生に負けるわけにはいかなかった...でも彼は既にプロデビューしてるムエタイ選手であり、しかも稽古してなかったのでピンピン。僕はフラフラでもう立っているのでさえやっとでした。

それはもう面白いように蹴られ殴られ首相撲から顔面ヒザ入れられ投げられました。

でもダウンするとH会長が拡声器で「何寝てんだぁ~!起きろ~!」と怒鳴りつけ続行です。

もう何Rやったかも覚えていません。ボロ雑巾にされました。

一浪して専修大学に進学した僕は、キックボクシング部(正式名称は東洋伝拳法部)に入部しました。

時に空手界はトーワ杯開催で盛り上がっており「空手家はグローブして顔面有りせよ。」という気運が高まっていました。またK-1元年でもありました。

稽古はきつかったですが、思っていたより上下関係が厳しくなくてイジメなどありませんでした。ただ技術的な指導がほとんどなかったのでもっと強くなりたいと思い、夏休みを利用して地元の花澤ジムへ出稽古にいきました。柔道やラグビー出身の体力のある同期に差をつけたい気持ちもありました。

「高校まで松濤館空手をやってました。今はキック部にいます。よろしくお願いします。」とH会長に挨拶すると、冷たく

「寸止め空手なんかキックに通用しないよ。」

と言い放たれてしまいました...汗

この言葉が地獄の出稽古の始まりになるとは、この時まだ思ってもいませんでした。