左翼の手口は日本の伝統を何でも明治時代の創作と決めつけて
その価値を貶めることです。
神武天皇陵は、記紀の記述に、大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の挙兵を
神武陵に報告した記述、
「延喜式」巻21に「畝傍山東北陵」[畝傍橿原宮に御宇(あめのしたしろしめ)しし神武天皇。
大和国高市郡に在り。兆域、東西一町。南北二町。守戸五烟]
の記述があり、奈良時代、平安時代にも存在しており、毎年12月に「荷前」(のさき)
の祭祀が行われ常幣が奉られていた。
以上のように神武天皇陵とその祭祀が中古において存在し行われていた確実に確認できる
確実な資料が存在している。
その後、仏教の影響を受け、陵寺としてこの神武陵の祭祀を受け継いでいたのが
大窪寺でありその後継寺である国源寺である。
国源寺の由緒を語る「多武峰略記」によれば、天延二年三月十一日早朝に
白髪で蓑笠を着た老人が現れ、「人皇第一の国主」、神武天皇であると名乗った
という。
そして、現在の神武天皇陵であるが、これを制定して整備したのは徳川幕府である。
建策したのは宇都宮藩や徳島藩であった。
いずれにしろ明治時代ではない。
またその祭祀も孝明天皇の勅使派遣、宮中御拝という形で行われており、
明治時代ではない。
なお、橿原神宮そのものは江戸時代には神廟建設の意見もあったようであるが
実際には明治時代に有志の請願を受けて創建されてものであることは間違いない。
しかし、神武天皇陵とその祭祀を継承したものである以上、左翼人があたかも
神武天皇陵とその祭祀を近代になって明治国家が捏造してでっちあげたかのような
語感で言っている「創作」という言葉は不適切であろう。
(*橿原神宮の本殿は江戸時代、安政年間の京都御所において御神鏡を
奉斎していた内侍所(賢所)の当時の建物を移築した貴重な歴史的建造物です。
明治の創作ばかりではありません。)
また、橿原神宮の創建に伴って被差別部落(「洞村」、じつはかつての陵戸子孫の可能性)
移転させられた問題が取り上げられるが、この問題については
「洞村の移転は畝傍山神苑計画の一環にすぎず、この計画はそもそもが景観論
(景観整備計画)から発せられたものであり、畝傍・久米・大久保の一般村の民家194戸
および拡張区域外の46戸あわせて240戸、および田畑・山林・墓地なども移転させられており、
被差別部落論における「聖・賎」のなかで鮮やかに描かれる論理とは実際は異なるものであった」
という指摘もあり、一概に部落差別問題とは言い切れない。
しかし、この洞村がかつての陵戸子孫の可能性があるならば、実際の神武天皇陵は
現在の位置より少しずれた、この洞村の人々が守っていた丸山であった可能性は
捨てきれないかもしれないが、どちらにもしても現在の神苑の域内に含まれているので
現在の橿原神宮、神武天皇陵の神聖性の否定とはならないだろう。