今週の週刊新潮(週刊新潮4月18日号)に戦前の中国人の実態を知る記事が
載っていたので抜粋してご紹介させていただきます。
136頁の「変見自在」(高間正之)、国王陛下の便衣隊より
「昭和17年1月下旬、シンガポールが間もなく陥落というときに朝日新聞記者が現地マレーについて
千田商会の千田牟婁太郎ら関係者を集めた座談会を掲載した。 マレーには実は阿片戦争のころから支那人が逃げ込んできて
白人支配に取り入ってマレー人労働者を仕切ったり、彼らに阿片を売りつけたりしていた。
昭和に入るころには支那人子弟のための学校が「三百くらいあった」と千田が紹介している。
そこ頃には日支の緊張がそもまま入り込んで在マレーの日本企業や邦人を支那人が襲いだした。 その一つがマレーの虎こと
谷豊の事件だ。
彼が日本に戻っていた時期に支那人の群がトレンガヌの街を襲い、彼の妹を犯したうえに首を切り落として持ち去った。
支那人らしい残忍さだった。
日本から帰った豊は妹を殺した集団を追い、さらに阿片長者を襲うなどして支那人からはハリマオの名で恐れられた。
支那人たちは英国の勝利を信じ、日本にサボタージュやテロを仕掛けた。
座談会では支那人テロ集団には元締め組織があって、それが蒋介石と通じていた陳嘉庚の「 賑会」という。この組織は
、南洋全体の抗日の中心機関になっていた。」
「日本軍は英印軍と戦いながらこうした支那人ゲリラの気配に注意を払わなければならなかった。 それで平均して一日20キロ
も侵攻していった。日本軍は本当に強かった。 座談会では触れていないが、そのころシンガポールでは英軍が組織した
「支那人だけの戦闘集団がいた」と朝日の従軍記者酒井寅吉が報告している。 この部隊はジョン・ダレー中佐の指揮下にあり
兵員数4000人というから優に旅団規模を誇る。兵士の中にはチャンギ刑務所に収監されていた共産ゲリラも含まれていた。
彼らの特徴は正式の軍装を持たない。つまり私服の便衣隊で、黄色いバンダナを首に巻くのがただひとつ目印とされた。
指揮官の名に因んで「ダル・フォース」あるいは「Dalley,s Desperades(ダレーの無法者たち)」と呼ばれた。
日本軍との市街戦になったとき彼らは善良な市民を装って攻撃の機会を窺い、追われれば銃を捨てて市民の群れに逃げ込んだ。
この便衣による戦闘はそのまま国際法違反のゲリラと見做される。捕まれば国際法でも極刑を認めている。
シンガポール攻略戦ではこのダル・フォースの何人かが捕まり彼ら便衣隊の存在が明らかになった。
今、シンガポール華人が日本軍の華僑粛清を非難するが、原因を創ったのは紛れもなく彼ら自身だった。」
「州の王様格のM・デュワ摂政とも会見して「英国は我々を見下し圧迫してきた。今こそ我が民像の夜明けがきた」と
日本軍による解放に感謝する言葉も併せて報じている」