昭和五年、ロンドン海軍軍縮条約について | 魁!神社旅日記

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<強硬外交に転じて失敗した田中内閣から交代した浜口内閣は、外相に幣原喜重郎を

 

起用し、協調外交を復活させた。1930年(昭和5)年、イギリスの提唱で補助艦の

 

制限をおこなうため、ロンドン海軍軍縮会議が開かれた。この会議の結果、

 

補助艦の総比率について、ほぼ対英米七割にすることで条約に調印した。

 

(ロンドン海軍軍縮条約)。しかし大型巡洋艦の対米七割が認められずに調印したことから、

 

海軍軍令部や枢密院の一部、野党の立憲政友会などは、政府が軍部の反対を

 

押し切って兵力量を決定したのは、天皇大権の一つである統帥権をおかすものであると、

 

激しく政府を攻撃した(統帥権干犯問題)>(「山川「日本史B 高校日本史」)

 

現在の高校の日本史では上記のように教えられているようです。

 

しかし、これを「聖断」をもとに補足していくと、

 

ロンドン会議にてアメリカから提示された最終妥協案は「総括六割九分七厘五毛、重巡六割、

 

潜水艦五万二千トン」で足りないのはわずか二厘五毛、ほぼ対米七割は達成できている

 

一般的には大成果の外交結果なのである。

 

だが、あくまで対米七割にこだわり続け反対し続けたのは海軍軍令部であった。

 

天皇と政府、海軍省もが条約の協定でまとまる中、あくまで反対の強硬論を吐き続け、

 

さまざまな裏工作をはじめた。

 

浜口首相は3月27日に昭和天皇に拝謁し、天皇も会議の分裂を望んでいないことを

 

確認し、4月1日に首相上奏としてロンドン会議妥結の回訓の裁可を願い出て許可を

 

得ることになっていた。

 

しかし、加藤寛治軍令部長は首相上奏前に天皇陛下に拝謁して断固反対を申し上げようという

 

画策を行った。政府や海軍省の決定を反故にするのが目的である。

 

しかし、この画策は海軍OBでもある鈴木侍従長に阻まれた。「政府の決定に反することを

 

軍令部が天皇に申し上げることは陛下を困らせることになる」からである。

 

しかし、政府の決定を無視してどんな手段を使ってでも主張を通そうとした。

 

その裏工作が、一つは東郷元帥と伏見宮の担ぎ出しである。

 

また一つは、新聞に働きかけ、各地に遊説のための将校を派遣するという世論工作。

 

またその一つが政友会による「統帥権干犯問題」による与党の追及であり、

 

さらには軍令部参謀草刈英治少佐による財部海軍大臣暗殺未遂事件が起き、

 

計画が失敗した少佐は自決した。

 

海軍内部では霞ケ浦航空隊の飛行科士官たちの条約反対パンフレット配布、

 

水雷学校学生の建白書提出などの事件がつづいた。

 

6月10日には加藤軍令部長自らが天皇に政府を弾劾する上奏文を提出するとともに、

 

天皇に直接辞表を提出するという挙に出た。

 

9月10日には右翼・日本国民党が政府要人を暗殺するための決死隊を組織したと宣言。

 

条約は10月2日に批准されたが、海軍内では強硬派のかついだ伏見宮と東郷元帥の

 

名のもとに条約派がつぎつぎに予備役に編入されるという粛清が起きてしまった。

 

11月14日には浜口雄幸首相は東京駅で右翼青年に狙撃され、その傷がいえぬまま

 

野党・政友会に国会に立たされるという無理がたたり亡くなってしまいました。

 

しかし、このロンドン海軍軍縮条約時のぎりぎりの外交的攻防によって民政党は

 

英米から高い評価を受けるようになったとも言われています。

 

実際、浜口雄幸の民政党は選挙の時から「緊縮財政をやるから国民も耐えてください」と

 

言って選挙に勝ったそうです。

 

結果的にはこの時期での緊縮財政は失敗であったものの、当時の国民も目先の甘い

 

話しだけに踊らされて投票していたわけではなかったことがわかります。

 

やはりこの時期の最大の問題は国家の一機関である軍令部がその管轄を超えて

 

ものを申したばかりか、手段を択ばない裏工作を行ったことが原因で、

 

やがて国家を亡ぼすことになった「統帥権」を引っ張り出してしまったのである。

 

第一次世界大戦後の戦後恐慌、金融恐慌、昭和恐慌で財政の逼迫していた日本

 
と世界にとって軍縮は必要なことであったが、自分の担当範囲しか見ていない
 
軍令部にはそこまでわからないまま、国家全体を破滅の方向に動かしてしまったのである。