明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
新年を迎えると、世界中のほとんどの人が神仏に感謝を捧げる方、神社や仏閣にお参りに出かける方、教会やモスクに礼拝に出かける方等、色々だと思います。
それなりに幸せと思ってる方はより幸福になれるように祈ったり、心または身体が病んでいる方は早く良くなるようにと願いを込めて祈ったりすると思います。日本の場合は初日の出のご来光を拝むため登山した方、海に出かけた方も多かったのではないでしょうか。
戦争が無い平和な世界に成りますように!と祈った方も多かったに違いありません。
私が幼い頃から小学校時代にかけて、親や祖父母等から「嘘を言ったら鬼に舌を抜かれる」とか、「川とかでもシッコしてはいけない」「朝からし(死)という言葉を使ってはいけない」等など、してはいけない事がいっぱいありました。当時、怖いと思いました。
「悪い事をすると、バチが当たる」とよく聞きました。
魚釣りが好きだった私に、「盆や正月などには釣りに行ってはいけない。殺生してはいけないから」と強く教えられました。(今から考えると、自分の命も大事だけど、他の生き物の命も大事だ、ということだったのでしょうね)
高校は木津高校(将棋の加藤一二三氏の卒業した高校)だったので、父の転勤の折、姉と共に井手町玉水の国鉄官舎に引っ越したのでした。学校の勉強は大嫌いだったが、美術と書道と体育だけは好きだった。大学の受験勉強(親父が大学に行くよう強制した)ので、仕方なくしていた。私は現実逃避したかった。
ある日、キリスト福音教会のチラシが郵便受けにあった。「全て重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい・・・・・」とあった。姉にそれを見せて「ここへ行ってみてもいいかな?」と聞くと。「行ってみたら」と返事。
(姉は奈良のカトリック系の育英高校に通っていて、讃美歌など持ってはいた)
水を得た魚のように私は教会をめざした。赤い十字架の電飾看板ですぐわかった。「こんばんわ」と言うと、中から「いらっしゃい、よくこられましたね。どうぞ入ってください」と美しくて優しそうな金髪の女性が出てこられた。
その女性はフィンランドの宣教師で教会には男女合わせて10人ほどの方がおられて、皆笑顔で優しくしてくださっていっぺんに肩の荷が下りた思いだった。皆で聖歌を歌った時の感動は今も覚えている。渡された聖書を家に持ち帰って創世記の神が天と地と人間を創造した箇所を読んだ時も感動したのでした。
何回か通っているうちに、仲間になりたくなり、仲間になるには洗礼を受ける必要があるようだった。そして深く考えることなく洗礼を受け、行動を共にする機会が増えていった。
数年、聖書を中心に歩むうちに一つの疑問が生じた。「イエスキリストは人々の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださった」という話にである。
アダムとイブ(エバ)が神によって禁じられている善悪知るの木の実を取って食べたから、その後の全ての人類が罪人になってしまった。(原罪という)
イエスを神の子と信じるなら、原罪は無くなるということになっている。
(原罪という考えは新約のクリスチャンはもっているが、ユダヤ人には原罪という考えはないらしい)
統一教会の原罪観は金聖道老人(1922年頃、北朝鮮でおばあちゃんだった)が天の声を聞いた内容がモデルにされたようです。エデンの園でアダムとイブは性問題で堕落したという。(おそらく、夫の性欲から逃れたかった妻の妄想だったのではないでしょうか?現在でいえばセクハラ?)そこからの資料とイスラエル修道院の資料を参考にして原理講論の堕落論が創られたと想像します。
そもそも、大概の人はセックスが気持ちよくてここまで人口が増え続けてきたと言っても過言ではありません。気持ちいい最高の身体を人間に貸して下さっているのは他ならぬ神様なんですから。
神の戒めを守らなかった罰として、女性が生みの苦しみにあい、男性が苦労して労働しなければならないのだとしたら・・・・・おかしいですよね。昔も今もクリスチャンも痛みは何も変わってないのと違います?精神的には少し違いはあるかもですが。
もちろん、現在は無痛分娩という手段がありますけどね。
昔、フィンランドの宣教師から、こんな話を聞いたことがあります。フィンランドでのことらしい。
ある産婦人科病院に入院していた妊婦が部屋に飾ってあった十字架のイエス様の絵を見て、看護師に「この絵、見たくないし、子供にも見せたくないので退けてくれます?」と
言って退けさせた。結果、生まれて来た子が盲目だったんです」と。
これって、「キリスト教を熱心に信仰しないとバチが当たるよ」という強迫じゃないかな?
どこの宗教でもあり得る話だとは思います。
イエスの言った事を多くの人が実践すれば少しでもいい社会・世界ができる可能性が増えるとは思いますが、どこまでイエスの本当の言葉か分からないし、パウロや他の作家・記者の創作の可能性もあり、イスラム教もユダヤ教もイエスをメシアとは信じていないわけですから。
例えば、イエスに弟子が障害者のことを聞く場面では、「障害者が罪を犯したわけでも、その親が罪を犯したわけでもなく、神の栄光が現れるためである」と言ってます。
私が思うに、「原罪」や「免罪符」は教会の信者にさせることだったり、資金集めが目的だったのでしょうね。
人間というのは、勝手な生き物で、自分に反対する勢力は悪魔であり、極端な(過激な)考えの人の場合は殺したいと考えやすいのでしょうね。だから、お互いに相手側にバチが当たって欲しいとも願うのだろうと思います。
でも、昨日の敵は今日の友になったりするのですから、出来る限り、敵をつくらないように、言葉や行動に常日頃、配慮すべきだとは強く思います。
個人の幸・不幸も「塞翁が馬」のごとく、うつ状態と躁状態が繰り返すごとく、苦あれば楽ありのごとくです。
AI による概要
「バチが当たった」と言う時は、
悪い行いをした報いとして、神仏からの罰(天罰)が下った、または何らかの悪い結果が自分に返ってきた、という状況や気持ちを表す際に使います。何か悪いことが起こった時に「あぁ、これは自分が以前した悪いことのせいだ」と、自戒や後悔、諦めを込めて使う言葉で、因果応報の考え方に基づいています。「バチが当たる」の具体的な意味と使い方
- 意味: 人間の悪事に対して、神仏が与えるこらしめ、天罰が下ること。
- 由来: 「バチ」は「罰(ばつ)」が変化したもので、神仏が下す罰を指します。
- 使われる状況:
- 自戒・反省: 「嘘をついたらバチが当たって、大事なものをなくした…」のように、悪い結果と過去の行いを結びつける。
- 諦め: 悪い結果を受け入れ、仕方ないと思う時。
- 比喩表現: 物理的な罰だけでなく、人間関係の悪化や不幸な出来事など、悪い結果全般に用いられる。
類語・関連表現
- 天罰が下る
- 罰が当たる
- 報いを受ける(悪い意味で)
- (九州北部の方言で)バチをかぶる(蒙るの訛り)
注意点(アンガーマネジメント的視点)
- 悪い結果の全てを「バチが当たった」と結びつけると、必要以上に怒りや自己肯定感の低下を招く可能性があるため、事実として受け止め、建設的に考えることも大切だとされています。
このように、「バチが当たった」は、自分の行いが原因で起きたと納得(あるいは諦め)する際に使われる、因果応報の考え方に基づく表現です。
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