久しぶりに気持ちの良い晴れの日が続いている。2週続けて週末に台風がやってきて、それで空模様が優れないものだから、なんとなく気持ちとしても浮かないものがあったのは僕だけではないと思う。そういっても、出不精な僕は雨が降ろうと晴れようと、家の中で大人しくしているだけなのだけれど。
ケーブルで映画や舞台など気になるものを目辺り次第に録画していると、気がつくとHDDの容量が残り少なくなっていた。それで、これはいけない、と毎週録画にしている番組をながら見する。大半はドキュメントや紀行ものだ。その中に、胎児性水俣病患者の方のドキュメントがあった。教科書で習った覚えのある「水俣病」。工場から廃棄された水銀が海や川の中で生物濃縮され、それを経口摂取したことによって発症した、日本において初めての公害であった。主人公の女性はその中でも「胎児性水俣病」と呼ばれる、胎盤を経由し母体内にいるときに水銀の被害を被った方であった。彼女は、生まれたときから「水俣病患者」であった。
ドキュメンタリーの内容に依るのならば、彼女は一時期、自身が「水俣病患者」としてしか見られないことに憤っていた。第三者による勝手なカテゴリー化は世間に溢れており、「障碍者」というのもそのひとつである。そしてそんなときに出会ったのが、米軍が散布した枯葉剤によって結合双生児としてこの世に生まれたベトちゃんとドクちゃんであった。彼女は、同じ化学製品の副作用として身体障碍を抱えた二人と会見し、改めて、その身体に刻まれた現実を世界に訴えることの意味を確認したという。そして、今年の9月、彼女がこの世に生を受けて61年の歳月経てようやく、世界的な規模である水俣条約の第1回締約国会議が開かれた。彼女もはるばるジュネーヴまで飛び、そこで自分自身の声と言葉で世界に対し、悲劇を繰り返さないように、とスピーチをした。けれど、彼女はそのスピーチの後に悔し涙を流したという。もうこれで最後にして欲しい、と。何度も何度も同じ話をしている、と。
「水俣病患者」として61年が経った。それでも日本は、世界は、彼女に同じ話を繰りかえさせてしまっている。その言葉は、彼女に密着したドキュメンタリーのカメラにも向けられている。僕らはいまだ、ドキュメンタリーという形式で告発されないと、彼女らの声に耳を向けることができないのだ。その言葉が、その肉体の一生を背負って発せられるというのに。
ひとりの人生とはなんだろうか。
障碍をもって生まれて来て、奇異の目に晒され、制約されたことも、想像をはるかに超えて多かっただろう。その肉体を携えて、呼ばれては赴き、何度も口にしたことを改めて何度も口にする。その場限りの話を受け止めた表情。世界はなんら好転などせず、今でも化学製品による人体被害は続いている。それでも年を取る。老いが人よりも一層重くのしかかる。それでも口を開いて、同じ話をする。何度もする。そんな人が、テレビの向こうにはいた。