自分だけのキャラクターで勝負しろ
根気本能TOP
"切なる願い、その一つだけのためにここまできた。
今、自分が立っている場所がどこなのか?自分自身に質問を投げても明らかではない。
しかしまた違う自分を発見するその瞬間、この全ての彷徨いは終わるだろう
僕は自分に肩を貸してくれるまた違う僕を探さなければならない。 "
魂に響く力は、時には痛みを通じて誕生する
①吟遊詩人になりたかった僕
小学5年の頃からだったと思う。'HIPHOP'という音楽が僕を惹きつけたのは。
一日中音楽を聞いてラップの歌詞を書き取って、それこそ'音楽'に狂って生きていた。
HIPHOPの話をするなら、アメリカのHIPHOPの派閥に対して先に簡単に説明しなければならないようだ。
僕がHIPHOPに接した当時、アメリカではイースト・コースト(east coast)派閥とウェストコースト(west coast)派閥が二大の軸をなしていた。
ウータン・クラン(Wu-Tang Clan)やノトーリアス・B.I.G(Notorious B.I.G)で代表されるイースト・コースト ヒップホップはニューヨークが本場だ。
これらはラップと歌詞中心の傾向が強い。
一方、トゥパック(2Pac)と呼ばれる非常に強力なミュージシャンが位置していたLAを中心とする西海岸のHIPHOPはメロディー中心の傾向が強かった。
僕を惹きつけたのはイースト・コースト系列のHIPHOPだった。
当時韓国ではウェストコースト系列のHIPHOPを聞く人は多かったが、イースト・コースト系列のHIPHOPを楽しむ人はそんなに多くなかったことを覚えている。
僕は彼らのHIPHOPを聞いてラップ歌詞を書き取りながら、'、この音楽は本当に男としてやってみるほどのジャンルだ'という思いがした。
僕も彼らのように'自分だけの哲学とメッセージを伝達する吟遊詩人のような存在'になりたかった。
彼らの音楽に込められた歌詞は、通常、男たちの世界を表現したもので、概略的な感じだけ紹介するならば
'我が家はとても貧しくて私は最悪の生活を送った。
しかし、私は今は成功を収め、今うちのお母さんお父さんは喉が渇くときは水の代わりシャンパンを飲む'という風だった。
時に暴力的で暗い歌詞も多かったが、男として人生で持つかもしれない野望や正直さみたいなものを感じられたし、一方では僕の中でそんな姿に対するロマンができたりもした。
中学校に入ると僕はかなり注目を浴びた。
背も同じ年頃の子より高かったし子供には探すのが難しい'ヒップホップスタイル'だったからだ。
小さい頃から服に関心が多く、当時の友達は着なかったヒップホップ ブランドを好んで着たりした。
両親が買ってくれなくてもお小遣いを使わないで貯めて本当に買いたい服を買ったりした。
勉強にはほとんど関心がなかったし、先輩たちの注目をたくさん浴びたから、よく大人たちが話す'質の悪い友達'と付き合い始めた。
もちろん今の僕には大切な友達だが、社会の冷静な視覚で見た時は'不良'に分類されるそんな友達たちだった。
そうして大人に成長した頃、僕は経験するべきでないことをたくさん目撃することになった。
その時は感性が豊かで悩みが多かった時期で、生まれて初めて人生の'痛み'というか、もしくは'恐れ'みたいなものを感じた。
肯定的な人生よりは否定的な人生をより早く見たというだろうか?
もちろん大人たちがするなという事だけ選んでする、友達の意味ない振る舞いも問題だ。
だが、そんな子供たちを見て導くより無条件に処罰で一貫する大人たちも嫌いだった。
子供たちの行動に言い聞かせるより強い処罰で懲らしめて、もっと抜け出せない状況に追い込む大人たち、そしてその傷と衝撃でますます反する子供たち。
先生をはじめとする大人たちはまだ中学生にしかならない子供たちを'悪い奴'と追い立てるばかりだったし、両親たちは'不良になった子供を持った罪人'になって頭を下げて涙を流さなければならなかった。
初めからあまりひどく外れなかった子供たちも、懲戒を受けて転校措置になったり他の街に追い出されて、新しく移ったその学校では問題児にされてもっと深刻に悪くなる方向に転落した。
そんな風に友達が変わっていく過程を見て、何か闇のどん底のような所にずっとはまっているような感じがした。
②夢のかすかな影を発見する
これ以上'苦しい世界'にいるのはやめようと決心することになった決定的なきっかけは中学3年の時やってきた。
親しい友達がバイク事故で亡くなった。
間もなくしてまた他の友達が無免許運転で事故を起こして死んでしまった。
しかし、彼らの死を見つめる社会の視線は冷たいだけだった。
誰も関心を持ってくれない死・・・
他の友達たちも周辺から後ろ指をさされ転校していき、もう町内の友達の中で同じ学校に通う友達は1人も残っていなかった。
そうして1人ずつ離れていく友達たちを見て、こんな風に人生を浪費するのが無駄だと感じた。
そして徐々に気持ちを取り戻し始めた。
だが、現実はまだ甘くなかった。
転校すればその学校では間違いなく噂を聞いて因縁をつけて困らせるヤツが現れた。
先生方もやはり僕を警戒するばかりで、積極的に立ち上がって状況を正してくれたりアドバイスをしてくれる先生がいなかった。
ただ透明人間のように我慢するしかなかった。
ますます学校に行くことが嫌になり始めた。
もし、今、僕と似た学生時代を過ごす友達がいるなら、"今のあなたがやっている行動はつまらなくて恥ずかしいこと。"と言いたい。
今は自分の姿がカッコよく感じられるだろうが、他の誰かにカッコ良く見えるために自らを壊すのは本当に愚かなことだと。
中学3学の頃から、本格的に歌詞を書き始めた。
口数が減って考える時間が多くなったのもその頃だった気がする。
次々と考えながら歌詞を書いていたら、考えはますます深くて暗くなるだけだった。
あまりにも深い考えに浸ったせいで,僕自身でも手に負えない悩みを抱えてしまった。
だが、幸い僕がなりたいもの、やりたいことに対してだけは雑念が入ったり葛藤したことがなかった。
無条件にHIPHOPと関連したことをやりたかった僕が将来の希望に選んだことは2つだった。
1つはラッパーになること、そしてもう1つは全く無茶だけど'ヒップホップマルチショップ'を作ることだった。
当時としてはヒップホップの関連商品に触れることが困難で、輸入品だったために、触れられない商品を一堂に陳列したスタイリッシュなヒップホップ マルチショップをしてみればどうだろうかと考えた。
今、振り返ってみたら突拍子もない夢だったが、何も考えず実行に移した。
③大人には大人の役割、子供には子供の役割がある
梨泰院(イテウォン)に直接訪れてヒップホップ ショップでアルバイトを始めた。
ヒップホップ音楽を思い切り聞くことができて好きな服を見ることだけでも嬉しかった。
その上'直接商売を経験しながら横目で経営に対して学んだら、後ほど僕の夢のヒップホップ マルチショップをするにも役に立たないだろうか? 'そんな漠然とした思いにもなった。
ところが数ヶ月たたない内に'僕が思ったより簡単なことではない'という結論が出た。
そんな仕事を大人たちがするのはみな理由があるんだと精神的にも衝撃を受けることが多かったが、何より肉体的につらかった。
販売するためには外に出て行ってお客さんを引っ張ってこなければならなかった。
社長が望むように手段と方法を選ばず'たくさん'売らなければならなかったからだ。
夕方7.8時に仕事が終われば、明け方市場に行って直接商品を卸してこなければならなかった。
そして明け方3.4時にまた店に戻って卸してきた商品を全部整理する。
仕事をまともにできなければ文句を言われるだけでなく、冗談半分本音半分で暴力も受けることもあった。
当時の子供にとっては結構大きい4万ウォン程度の日給だったが、社長はそれさえも'幼い野郎が何でお金に執着するんだ。 'と上手くこっそり踏み倒されたりした。
もちろん、生活のために始めたわけじゃない。
子供心に欲しい物を買いたくてその世界を見物したくて何も分からず始めたことだったけど、思ったより簡単なことではなかった。
苦味だけ知って店を辞めた。
その頃からラップを本格的に始めた。
'ヒップホップ マルチショップが出来ないなら、ラッパーの道に行こう'と思った。
当時は若すぎて怖さがなかったようだ。
僕がやりたいことを始めれば何でも上手く出来ると思った。
初めは公演をしたくて一人であちこち捜し回った。
知っている人があまりいなかったから限界が多かった。
当時のヒップホップクラブでDJが人気が多かったが、当時話題になっているヒップホップの音楽を最も知っている人だった。
僕より5才年上だったDJティ メーカー(D-maker)兄を通じて周辺でラップをする人々と出会ってゲストメンバーで活動したり互いにジョイント公演をしたりした。
僕に新しい世界が開かれ始めた。
④'アンダーグラウンドで指折りのラッパーになろう'
その時は歌手という夢を育てるよりは "アンダーグラウンド(underground)で有名なラッパーになろう"という頑固な精神があったようだ。
実際'オーバーグラウンドで実力を認められたラッパーたち "は、ほんの一握りだったので、"真のラップをしたいなら、ここアンダーグラウンドで本物のヒップホップをしなければならない。 'という考えに捕らわれていた。
そうするうちに高校2年頃に、公演したクラブでガールフレンドに出会って交際するようになった。
YGエンターテインメントに入ってくる前まで、約1年くらい付き合ったと思う。
僕よりも年上で彼女の周りには華やかな大学生が多かったので、カッコよく見せたかった。
彼女の前で未来のビジョンを話す僕の声にはますます強い確信が入り込んだ。
誰かに夢を声に出して説明すると、その夢の実体がだんだん明確になるというが、そんな感じだった。
"認められるラッパーになりたい"という漠然とした思いに含まれている僕の願望の実体が、自分が知っていたよりもはるかに大きいという事実を発見した。
その時初めて'TVに出てくるラッパーになろう'と思った。
デモCDを作ってジヨンに渡す事にした直接的なきっかけはその彼女だったわけだ。
結局YGに入って、付き合って1年ほどでその彼女とは別れることになったけど。
運良くYGに練習生として入ることができた。
初めて練習生になって思った事は'ラップを思い切りやることができる'という期待感だった。
作曲家たちと直接作業しながらラッパーになれるという期待に浮かれていた。
そして練習生生活しながら、ラッパーとしての夢と共にプロデューサーとしての夢も徐々に膨らみ始めた。
ヤン・ヒョンソク代表のように、ヒップホップや黒人音楽の分野の志望生らに基盤を作って、思う存分翼を広げられるようにしてあげたいという抱負を持ったのだ。
プロデューサーとしての力量を積むのなら僕が直接その状況を経験してその過程を体験しなければなければいけないと思ったので、ラッパーあるいは歌手としての段階をじわじわ踏んでいこうという計画も立てた。
ところが実際に練習生時期の終止符を打って最後のオーディションを控えることになった時、期待していたことと全く違う現実が目の前に繰り広げられた。
'グループ'で作る予定だということ、そしてそのグループ活動にはダンスが必ず必要な要素だということ、そしてグループ メンバー選定過程をドキュメンタリーで撮るということ。
その3つ全てが僕にとってショックだった。
⑤踊るラッパー?
YG練習生に入る前まで、僕にとって'ダンス'というのは遠い存在であった。
若い頃からから弘大(ホンデ)をはじめとする色々なクラブで公演をしたが、ダンスという存在が僕を圧迫したことは一度もなかった。
ヒップホップが好きでラッパーになりたい僕に、ダンスという関門が待っているとは思わなかった。
前にも吟遊詩人になりたいと話したが、僕が思うラッパーは'メッセージを表現する'Move the Crowdを縮約した言葉だ。
'Move the Crowd・・・'聴衆を動かす'!
初めてその言葉を聞いた時から本当にカッコいい表現だと思った。
ラッパーだけの持っているカラーは'歌手'とは少し違う。
派手な動きやパフォーマンスみたいなものを通じてカッコ良く見せることもあるだろうが、ラッパーには自身の哲学を入れた歌詞とその熱情的な伝達力、パワーのようなものが全てだと思った。
だから無理に踊りながら'見る楽しみ'をプレゼントするより、'聞く楽しみ'を与えることだけでも充分だと思った。
ダンスや他の興味深い要素を取り入れなくてもステージに立つ瞬間'観客と一つになる'ということがヒップホップの魅力だと思ったからだ。
もちろん今の考えは少し違う。
ステージに上がって歌を歌ってラップをしてダンスをして、より多くの僕たちの姿を表現することで'観客と共に楽しむことができること'が嬉しい。
幸いなことに、ヤン·ヒョンソク代表様も僕に限っては'ダンスへの期待"があまり大きくない。
ダンスが上手いTOPというのは何かちょっと似合わないと思われたようだ。
だが、オーディションの時は違った。
これから向かう道がどんな形になるのか何も分からないからその漠然としたことに対して心配ばかりが胸中に広がっていった。
オーディションを準備しながら、20年の間一度も悩んだことがなかったダンスを習うことになった。
心が受け入れてくれないから、体も従ってくれなかった。
もちろんオーディション当時は単純にダンスに対する負担感だけでなく、色々な思いのせいで頭の中が複雑だった。
特にドキュメンタリーを撮ることになって脱落と合格という過程を通じてグループが作られることを知った後からは、なんとなく'僕がアイドル グループ、構成された形で動くダンス グループにならなければいけないのだろうか? 'と心配になった。
アンダーグラウンドで活動しながら音楽に対する情熱を話した先輩後輩や同僚らの目に'ありふれている歌手志望生'のように映るのではないか、そんな葛藤の中で一日一日が過ぎた。
振付け師の兄はそんな僕のせいで一日に何度も堪忍袋の緒が切れた。
"むしろ踊れない事は関係ない
だけど、最小限やろうとする意志は必要なんじゃないの?
お前がこれ以上意志を見せないなら、私もこれ以上、お前に教えることがないよ。 "
硬直して感じないし、やる気ないし....
僕は一言で言うと思わしくない生徒だっただろう。
今のBIGBANGの姿に大きなイメージがあったなら、我を張ったり葛藤をする必要がなかったはずなのに、当時としては踊るラッパーの姿が想像出来なくてそんな風な行動をした。
しばらくの間、悩んだあげく自ら結論を下した。
'踊るラッパー'というのは僕が考えられなかった姿だが、'ダンス'という関門を通過してこそ、このオーディションに合格できるなら喜んで越えてやろうと。
ラップを上手くて見せる楽しみまでプレゼントするオールドスクールのヒップホップ系列の歌手もいた。
MCハマー(MC Hammer)やB2Kのリル・フィズ(Lil Fizz)みたいな場合のように。
結局'二兎を追う者は一兎をも得ず(同時に違った二つの事をしようとすれば、結局どちらも成功しないというたとえ)は難しいが、努力すれば良いのではないのか'と悩みをポンと払いのけた。
正直に告白するなら僕がダンスを踊れないでここでチャンスを得ることが出来なければ、それは本当にもっと笑い事になるような気がした。
初めて練習生生活をした頃は、ほぼ一日中'に閉じ込められられるというのが我慢できなかった。
"五時間ほど一生懸命に練習し、残りは外に出て生活してもいいんじゃないか? "という思いもあった。
僕の場合は、ダンスよりも他の要素がより重要だから、ダンスの練習時だけは他のメンバーとは別々に配慮してほしいという思いもあった。
ところが今思えば練習生みんなにそのようにドンドンと強圧的(? )で同じプロセスを踏むようにしなかったらBIGBANGのようなチームは完成されなかっただろう。
恐らくそれはチームを作っているヤン代表の一種の持論みたいなものだろう。
'歌手になる前に人になれ'というモットーもそんな脈絡だろう。
幼い時期、何かに多くの情熱を注いだ事がない僕には、耐え難い監禁(? )の経験と激しい練習過程を通じて'負けず嫌い'の僕も知らなかった力が発動された。
万が一、僕がオーディションを諦めてしまったら、多分今と同じ生活は夢見ることが出来なかっただろう。
ヒップホップが好きだといってさまざまな文化と音楽に耳を閉じるのは危険な考えだ。
実力があるラッパーならヒップホップだけでなく歌謡、バラード、ボサノバ、ダンスまで全てのジャンルでラップを駆使できなければなければならないと思う。
BIGBANGのメンバーたちと作業するのはいつも幸せだけど、特にジヨンとの曲作業は一つの'遊び'みたいで楽しい。
ジヨンのハイトーンと僕のロートンで対比されるバランスも本当によく合うと思う。
本当にやりたい何かがあるなら、今まで傾けた自身の努力と自身の持った才能を信じなければならない。
状況の中で楽しむのも良いが、僕が持った努力で状況自体を突破するのも方法だ。
状況をリードできる主導権を握ったら、その次からは状況のせいで挫折することが少なくなる。
チャンスをパスすれば失敗になるけど、チャンスを握りしめれば幸運になる。