希望を抱く瞬間、奇跡は起きる
肯定本能テソン#1
"吐き出す息一つ、歩を進める一歩が夢に向かった信頼を植える
夢は描くだけ大きくなり、願うほど近くなる
それがまさに僕の信頼の全てで僕が笑う理由だ
希望は僕を歩かせる力だ
そして胸の中で僕の夢は、僕を笑わせてくれる力だ。 "
夢に向かったスタートラインに僕を立たせる
①”牧師になるといったのに、何で歌手なの?”
父はいつも2つの言葉を好んで話した。 ‘男は二枚舌を使ってはいけない’ということ、そして’やりたい事はすべてやるべきだ’と。 ※二枚舌・・・矛盾したことを言ったり嘘を言うこと
ところが息子が本当にしたいことを見つけたというのに、’それだけは許可できない’と禁止令を出された。
「まだ勉強しなければならない年齢で歌手になりたいと? 通りすがりの人を捕まえて聞いてみろ。 タンタラ(芸能人)になりたいという息子に’そうか、上手くやれ’と言う両親が何人いるのか?間抜けな奴め! 」
もちろん簡単に聞き入れてくれるという期待はなかった。
それもそのはず、お父さんが知っている子供の中に歌手になろうと学校まで辞めたが、思い通りにならなかった子供が二人もいたからだ。
その上、歌謡番組に出てくる歌手を見れば”この子の格好はなぜあんな不格好なんだ?”と腹を立てる姿を小さい頃から見てきたから、険しい道になるだろうとは予想はしていた。
だが、いつも”やりたいことはすべてやってみなさい。”と言ったお父さんの言葉だけ信じて、息子の切実な願いだから最小限小さな配慮ぐらいはして下さると信じていた。
ところが考えもせずにバサっと”NO!”という父を見ると’どうして息子を信じることができないのだろう? ‘と強い寂しさが押し寄せた。
実は、両親は僕が牧師になることを願っていた。
"大成"という名前の漢字は’大きい(大),’声’で’大きい声で言葉を伝えなさい’という意味を込めている。 (ただしご両親が望むわけではないが、僕の声で多くの人々に歌を伝えているから、結局名前がふさわしいのではないか? ハハハ)
しっかりした息子がある日突然歌手になると暴れまくると、お父さんもとても呆れただろう。
何があろうといつも僕の味方だった姉さえも”いったいなぜ突然歌手なの?”と尋ねた程、僕の歌手宣言は破格的なことだった。
我が家を騒然とさせたこの’歌手’という呆れた夢は中学2年の担任の先生がなにげなく、ほんとなにげなく言った言葉一つで始まった。
学校行事を終えて僕たちのクラス全員と担任の先生と一緒にカラオケに行ったことがあった。
信じられないが実は生まれて始めてカラオケという所に行ってみたので、エコーが効いたマイクから流れる僕の声がひたすら不思議だった。
ところが僕の歌が終わるやいなや先生は待ってましたかのように”おい、私たちのテソンは歌がこんなに上手いのか?歌手になれるよ! “とおっしゃるではないか!
本来歌を歌うのが好きだったが’歌手になりなさい’と言った人は先生が初めてだった。
友達はわざわざ先生を訪ねて進路に対する悩みを打ち明けるが、カラオケで進路相談(? )を受けるとはやはり僕は幸せ者だ。
他人でもない担任の先生に歌手の勧誘受けるとは、どれほど信頼出来る話なのか!
その瞬間僕の頭の中は’歌手をやりなさい’というその一言でぎっしり埋まってしまった。
友達の歌声は聞こえることもなかった。
そしてその少し後、学校で祭りが開かれた。
そこでのど自慢コーナーがあったが初めて出た大会で突然1位になってしまった。
「あー、やはり歌手になりなさいというのは神様のお告げだったんだ! 神様と先生みんなが僕の進路を決めてくださるんだな!」
後日知ることになった話だが、先生は僕にだけ歌手になれと薦めたのではなかった。
歌が程々に上手いと思った生徒を見れば、まるで合いの手を入れるようにそんな風に話されてたんだ。
「ふ~! だけど、どうしよう。 僕はすでに’歌手’に魅力を感じて心を奪われてしまったのに・・・」
②頑固なお父さんの意地を曲げる大作戦!
思春期の息子の単純な迷いだろうと思ってた逸脱は何と2年以上続いた。
今まで両親の言葉に一度も断ったことがなかった息子が絶対企画会社まで入ると意地を張るもんだからとても腹が立っただろう。
だが、やるなと言われればもっとしたくなるアマノジャクの欲張りなのか?
絶対折れないような反対にぶつかって、音楽に対する情熱はますます燃え上がった。
テコンドー、合気道、サッカーまで・・・.僕がやりたいことはさせてくれたじゃないか! なのに何で歌手だけダメなの?
父と僕の終わりない綱引きは継続され、姉は何とか私たち二人を仲直りさせようと努めたが、姉は実際にはそれほど有能な交渉家ではなかった。
「お父さん今とても怒っているから。 お父さんが怒ったら誰も止められないことお前も知ってるでしょ。 少し待ってみよう。」
だが、その待つということに希望がない事を僕たちはよく知っていた。
もう音楽をするしないは重要ではなかった。
僕も知らない内に”ちゃんと見せてやる.必ずこれ見よがしに歌手になってお父さんの鼻柱をひし折ってやる!”という固い決心ができてしまったのだ。
そうして決して曲げることはできない’男VS男’のプライド対決が始まった。
氷の塊のような家の雰囲気に息もまともに出来なかったお母さんと姉には申し訳なかったが、プライドの戦いが始まった状況に男たるもの(?)先に折れることもできなかった。
そんなある日、学校に行こうと登校準備をしていると、大きなカバンを手に持ったお父さんが僕の部屋に入ってきた。
そのカバンを見た瞬間、本能的に’危機状況’だという予感がした。
「荷物をまとめろ。 そう勝手にしたければ出て行け。ここから出て行け。」
やっぱり僕の予感は間違っていなかった。
父は固い決心をされたように何の感情の動揺せずに意外に低めに言われたが、僕の頭の中は白紙のように白くなった。
一度腹を立てれば誰も止めれない父の火のような性格をよく知っていたからだ。
普段はとても愉快で友達のような父だが、僕たち兄弟がおかずの不満でも言おうもんなら何も言わず三日間何も食べさせてくれない人だった。
生米でも噛んで食べれそうな空腹を感じたが、恐れ多くてその前で”ご飯を下さい。”と言うことができないほど恐ろしい父だ。
だが、子供がお腹をすかせているのに父も気分が良かったはずがない。
ある程度の反省の兆しが見えれば間違いなく僕たちが好きな美味しい食べ物で空腹を満たしてくれるセンスある父でもある。
小学3年の頃だっただろうか?
正確な状況は思い出せないが、僕が気が気でなかったことだけは明らかだ。
そうでなければ父親と一緒に座った夕食のテーブルでスプーンを投げる無謀なことなどしなかっただろう。
スプーンが床に落ちる前に、僕はその場で玉ネギの皮をはがすように裸にされた。
そして、あまりにも自然に門の外に追い出された。
いくら幼くても男だ。 その上、10才を越えてる。
知るべきことは全部知っている年齢だ。
大事な部分でも隠して下されば・・・
恥ずかしさと悲しさで遠くへ行くこともできなくて門の前でうずくまって座って泣いているので、その姿に見かねたお隣りのおばさんが助けに来てくれた。
いつも家族のように過ごす間柄だったので、おばさんは僕の顔を見ても父が大目に見るだろうと思ったようだ。
かわいそうにとおばさんは僕の手を握って、大丈夫だと言って我が家の門を開いた。
しかし、僕は父の性格をとてもよく知っていたので、引きずられ入ってもおばさんの誠意があまりありがたくなかった。
門が開くとすぐに父は光よりも速い速度で走ってきた。
そして”我が家で自分の子を私が追い出したというのにあなたに何の関係があるんだ。 “とおばさんが火のように怒鳴られた。
その日以来、お母さんと姉は隣のおばさんを見れば申し訳なさげに頭を上げられなかったし、隣近所の人という言葉が面目を失うように気まずい間柄になってしまった。
このように今までの経験からして、明らかにその日の朝、お父さんの手に持たれたカバンは単純な脅迫用ではなかった。
本能的に’これは実際の状況! ‘という判断がついた。
どうにか家から追い出されることだけは避けなければならなかった。
即座に「食べて寝る所があるから出て行っちゃダメじゃないか? 」 僕はすぐに尻尾を下ろしてお父さんが望む’優しい息子’モードで突入した。
「お父さん. あの今学校も行かなければならなくて、来週に試験もあります。 ああ! あの遅刻です。 学校行ってきます!」
背中からは冷や汗が流れたが、何でもないフリして軽い足取りで家を出た。
歌手になる門に入ろうとするなら開こうが引こうがどちらかを悩まなければならなかった。
その瞬間、僕は父の心を押し開ける方法を選択した。
バカみたいに僕の意地ばかり前に出す時ではなかったからだ。
③これからが本当のスタートだ、歌手始動!
二歩前進のための一歩後退を選択した後、僕はまるで独立運動でもする闘士のようにできるだけお父さんの目に映らず隠れて過ごしながら、静かに歌手準備をしていた。
言葉だけで’音楽をする’と言うよりは、何か証明になるものを見せて説得するのが良いと考えた。
大人たちは’公証された何か’がお好きだから何かもっともらしい文書を持っていけば一層役立つ気がして某放送会社のアカデミーオーディションを準備した。
今更ながら遅いけど互いに張り合った対立状態にあった父との妥協点を探し始めたのだ。
そしてさほど経過しない内に放送会社アカデミーから合格の知らせが届いた。
他でもない放送局で運営しているので父の気持ちが少し変わるかもしれないという期待もできた。
父は一刀両断に僕の期待を切り捨てられた。
「これがどうした? こんな所はお金でも出せば誰でも皆合格出来るんじゃないのか?」
わずか5分前まで天を突き刺すような自信は’誰でも合格できる所’という父の一言で一粒の塵になって空で消えた。
いったいどうすれば父を説得させて僕の夢を認めてくれるだろうか?
再び苦悩が始まった。
両親の意に背くのは胸が痛かったがそれでも夢を諦めることが出来ないじゃないか?
父とのうっとうしい綱引きを終わらせるために僕はついに切り札を持ち出した。
'家出'を決心したのだ。 都合良く休み期間なので学校生活に支障をなかった。
父に真正面から挑戦状を差し出したのだ。
両親の許しを得るまでは決して家に帰ってこないと固い決心して家を出た。
ところが午後になるとなぜか分からない不安感が押し寄せた。
朝の強くて勇ましい気持ちは全てどこかへ行ってしまい、最小限のシールドでも作るべきだという気がした。
急いで家に電話をかけた。
「お父さん、あ・・・.音楽をしている兄たちと一緒にいるので、何日か家に帰れないです」
「・・・・」
少しの間の沈黙、そして長いため息が続いた。
「お前の好きなようにしろ。」
通話はそんな風に終わった。 虚しく電話を切るとすぐに頭の中がもっと複雑になった。 そばで会話を聞いていた兄たちは「それは外出だろ、家出か?」と、からかい始めた。 僕は’家出’で,両親は’外出’と思う小さなクーデターは認められる人なく一週間で幕を下ろした。
どれだけの時間が過ぎたのだろうか・・・
'子供に勝つ両親いない'という言葉は事実なのか? 突然お父さんの許しが出た。
「放送局でもどこでも一度通ってみろ。お前が直接行ってまともに苦味を感じてこそ気がつくだろう。」
喜びもつかの間、本当のスタートはこれからであった。
④学校にも通わなきゃいけなくて、練習もしなくちゃいけなくて、ハア~
父の許しを得てまもなく、夢に描いたYGエンターテインメントでオーディションの提案が入ってきた。
無知ならば勇敢だと言うのか?
入るのが難しいと言われるYGオーディションを受ける前、僕が知ってるポップソングとはせいぜいR.Kellyの(I believe I can fly)という曲ただ一曲だった。
もっと率直に言うと、この曲もオーディションのために急いで準備した歌だ。
もともと、歌謡ばかり聞いて好んで歌っていたので洋楽の知識はほとんどなかった。
運が良かったのか、運命のいたずらなのかYGの練習生になった。
父が’SE7EN’という歌手を知っておられてそれなりに簡単にうまくいった。
しかし、決して学業を断念することだけは許されなかった。
正直いつ歌手になれるかも分からなくて、また、歌手になるといっても成功が保障されなかった状況で学業を断念ことは想像もできないことだった。
'学校に欠席しない、どんなことがあっても11時までには帰宅する'という二つの約束をして練習生生活を始めた。
世の中にタダはない! 夢に向かった挑戦のチャンスを得たので両親が願う学生の基本的な事はしなければならなかった。
YGで唯一’毎日’登校する練習生はこのように誕生した。
YGに入ってみると予想通りだった。
6年準備したジヨン兄とヨンベ兄はすでに限界を越えた実力者だったし、彼らの前で僕は今まさによちよち歩き始めた子供のように小さくてみすぼらしく見えるだけだった。
学ぶことがあまりにも多かった。
誰よりもっと多くの時間と努力が必要だったが、なにより僕には使える時間も限定されていた。
許された時間内に最大限多くのことを学ぶために僕は足の裏から火が出るくらい走らなければならなかった。
学習の渇きがひどすぎて新しいものを見つけ次第スポンジのように吸収する忙しい日々が続いた。
ダンスというものも生まれて初めて習い始めた。
そんな僕にとって地下練習室は新しいものを作り続けてくれる魔法のランプだった。
生前見たことも聞いたこともないダンスと歌はもちろん、前はいなかった兄たちと弟ができた。
何より大きい声で歌を歌っても文句を言う人がいないそれこそ天国だった。
'どれくらい望んだ場所だったか、どれくらい習いたかった歌だったか・・・'
僕がこの場所にいることが信じられなくて毎日自然に笑みが出てきた
だが(リアルドキュメンタリー ビッグバン)の撮影が始まってからは話が変わった。
一週間に一回ずつビデオで撮ってテストを受けて、一日12時間こなさなければならない各種トレーニング スケジュールが手に追えなかった。
明日に対する保障がないから心理的にもとても不安な時期だった。
だが、この世の中に大変ではないことがどこにあるだろうか?
一日中何もしないのも大変だが難しいことでもある。
僕たち練習生は本当に家族のような雰囲気で楽しい毎日を過ごしていた。
ところがサバイバルが始まって脱落者が出て雰囲気が180度急変した。
誰かが脱落すること自体が大きい衝撃だった。
僕たちの中の誰かが落ちるなんて予想しなかったからだ。
初めの2人の脱落者が発表された時も’ヤン代表がドラマチックな状況を演出しようとわざわざそうしてるのだろう’と思った。
だが、それは僕の錯覚なだけ、現実は冷酷だった。
短い時間だったが喜怒哀楽を共にして互いに信じて頼った仲間だったから、離れていく人も残らなければならない人も心がつらいのは同じだった。
あまりにも申し訳なくて胸が痛くて、それでもどんな言葉も掛けてあげれなかったことが今でも時々心が痛む。
18歳、大人たちが言っていた冷静な社会を初めて経験した。
プロの世界がどれほど恐ろしいのか改めて感じた。
そのように2006年6月、僕はもう一度成長痛を体験してまた少しずつ成長した。