タカジンは,ツイッターで,紳助の決断の理由として,「最近の紳助の番組の視聴率低下にあると思います。行列、鑑定団は合格点ですがゴールデンでの6分の2は本人にとってはキツイと云わざる終えないでしょう」と述べている。


ただ,鑑定団は,紳助の功績も大きいとはいえ,石坂がメイン司会の時でも人気番組であった。紳助の司会で人気番組になったのは,行列のみである。


視聴率の低下は,紳助の「奢り(傲慢な態度)」も直接の原因であるが,基本的には彼の取り上げる話題の内容にある。誰かが,テレビで,紳介は芸能界を引退するのではなく,卒業するのだ,と述べていた。逆である。世間が「紳介」を卒業したのである。


行列は,もともと法律番組として出発しながら,ウケがいいのに酔って,単なるトーク番組にしてしまった(もちろん,これは紳助だけに責任があるわけではなく,プロデューサーをはじめスタッフにも責任がある)。しかも,最も安易な下ネタと浮気話に逃げてしまった。明らかに堕落である。


これは,ビートたけしの番組,「家庭の医学」「TVタックル」「世界まるみえ」はタイトルと内容の一致がそれなりに図られ,その枠の中でたけしの持ち味が生かされている。タモリは,お笑いの若手を育てたり,音楽番組等出演者の能力を発揮させることに徹している。サンマは,その場限りのトークの面白さに徹している。


こうした動きに対して,紳介のトークは相手の発言に対する切り返しのうまさ,そのひらめきは確かに天才的であるが,「行列」での彼の発言は,方向性を失っており,どこか投げ場を求めているようにしか思えない。


「平成教育委員会」以来,たけしはいわゆる教養番組,学問的研究成果を生活の知恵に変換する番組を作ってきた。この方向に沿って,お笑いの若手が,NHKも含めて教養番組に進出してきた。


ユーモアとは,着飾って澄まし顔の貴婦人の後ろからそのスカートをめくって,「お前にも尻があるじゃないか」と言ってやることだと言ったのは誰だったか。ユーモアとヒューマニティは同根である。人間は馬鹿なことをするものである。その馬鹿な事をする人間を可愛いと思い,愛すべき存在として認めるところにユーモアが生まれる。


笑いは,この世の精神安定剤である。無駄に人の世を騒がすお笑いはいらない。

島田紳助が暴力団との関係を理由に芸能界を引退することになった。最近の暴力団に関する警察の動きやそれに促された世間の動向からすれば,当然のことであろう。

私も,暴力団との関係に関して擁護するつもりはない。ただ,この件に関して異を唱えたいことが多少ある。


私は先に,いわゆる「やらせメール事件」に関して,経済産業省のケーブルテレビにおける説明会自体が一方的なやらせ番組であると述べ,「やらせメール」はその露骨な表現にすぎないことを指摘した。

子供のいじめが大人社会の縮図であるように,八九三組織あるいは暴力団は,この社会の本質の直接的表現であるにすぎない。


民主主義もまた支配の一形態である。小泉政権の民営化・自由化路線によって生み出された格差社会はこのことをよりあからさまにした。

福島第一原発の事故で明らかになったように,電力会社を頂点に,マスコミ,学者,政治家,地域の企業を含んだいわゆる「原子力村」による国民支配は,そこから自由になることの困難さが,暴力団の比ではない。


ヤクザ組織あるいは暴力団は,この社会からはみ出た別の小社会であり,この社会と相互補完関係にある。それは,盗みや強奪が,この社会の本質(搾取と収奪)の露骨な表現であるのと同じである。


もとより私も,盗みや強奪あるいはヤクザ組織による支配より,本質的に変わりがないにしても,現在の「民主的社会」に住むことを選択する。しかし,この点に関して,自己瞞着を犯してはならない。支配者がヤクザ組織や暴力団の撲滅を図ろうとするのは,己の本質があからさまになるのを避けるためにすぎない。それは,鏡の前で脂汗を流すガマの姿に似てる。流した脂汗が,世の役に立つことを願うほかはない。


暴力団とのかかわりで,紳助は引退した。だが,おそらく暴力団とのかかわりは,直接的なきっかけにすぎない。存在意義のなくなったものの最後は,一般にこのようなものである。この点については,別に述べることにしよう。

読売新聞 8月10日(水)3時1分配信」によると

 東日本大震災の津波に遭った岩手県陸前高田市の松で作った薪(まき)を「京都五山送り火」の大文字で燃やす計画が中止された問題で、送り火の各保存会でつくる京都五山送り火連合会は9日、陸前高田市から別の薪500本を持ち込み、16日の送り火で燃やすことを決めた。

なんとも馬鹿げた話である。
陸前高田で亡くなった人の送り火を,なぜ京都で炊かなければならないのか?京都五山の思い上りではないか?
この話の始まりは,次のことのようである。

 高田松原の松が薪になって売られていることを知った大分市の美術家、藤原了児さん(61)が発案。京都の「大文字保存会」に呼びかけて、震災で亡くなった家族や復興への思いを書いた薪を、五山の送り火で燃やそうと準備を進めていた(『朝日新聞』8月7日)。

発案者や,五山連合会の人々に直接的な悪意はなかったかもしれない。しかし,震災に浮かれた所業と言わざるを得ない。

陸前高田で亡くなった人や遺族と五山の送り火とは何の関係もない。なぜ,1000km も離れたところで,送り火を焚かねばならないのか。たしかに,十万億土に帰る精霊にとっては,陸前高田と京都では誤差といえるほどの差もないかもしれない。それでも,精霊の故郷は生前ともに生きた人々がいる陸前高田である。なぜ,京都経由で帰らなければならないのか? また,送り火等の行事は,亡くなった人の鎮魂と言いつつも,その実は生き残った人々の安寧のためのものである。故郷で迎え,故郷で送るのが習わしというものである。

もはや,観光資源として有名なだけの京都五山の送り火に,取り分けて語るほどのありがたみがあるわけではない。あるのは,京都五山送り火連合会の思い上りだけである。