今月18日に死去した韓国の金大中元大統領が昭和48年8月、東京千代田区のホテルから拉致された「金大中事件」。拉致を実行した韓国中央情報部(KCIA、現国家情報院)は、金大中氏の日本での居場所を突き止めることに難航し、元陸上自衛隊員を中心とする調査会社を利用していた。金大中氏の思想は朝鮮半島を赤化統一する流れにつながると主張し、「説得する」と所在確認の趣旨を説明したKCIA側に対し、調査会社は「日本の安全保障のために」と協力した。ところが結果は説得ではなく…。事件から36年。調査会社の関係者が初めて重い口を開いた。
この調査会社は「ミリオン資料サービス」。事件への関与も取りざたされたが、事情聴取を含めた捜査の結果、警察当局は当時、「拉致計画を認識した上で加担したとは認められない」と結論づけた。
取材に応じたのは、金大中氏の所在捜索チームのキャップ格だった同社の坪山晃三代表(75)ら当時の関係者。
坪山氏は大学を卒業した昭和32年、幹部候補生として陸自に入隊。48年に3佐で退官するまで陸自の秘匿部隊「陸上幕僚監部第2部別班」などで外国情報機関による自衛隊へのスパイ活動を排除する任務に就いていたという。
坪山氏によると、45年、防諜(ぼうちよう)部署の陸幕2部の幹部から、北朝鮮の国内情勢や軍事情報の収集を指示された。新たな担当業務に対応するため、坪山氏は旧知の新聞記者に北朝鮮情報に精通した専門家を紹介してくれるよう依頼。KCIA東京支局員で在日本韓国大使館の金東雲一等書記官(当時)を紹介されたという。
「金書記官は『サトウ』と名乗っていたが、日本語はうまくなかった。地味な印象で、酒はほとんど飲まなかった。肉体的にも精神的にも軍人としてよく訓練された雰囲気があり、北朝鮮情報に極めて精通していた」。坪山氏は振り返る。
金書記官も日本国内での親北勢力の活動に関する情報を求め、坪山氏を頼ったという。金書記官 は48年春、坪山氏にこう持ちかけた。「金大中氏の思想は単なる親北ではない。(金大中氏の)高麗連邦構想は南北統一を志向するものだ。現在の体制のままの統一は北による南の赤化(共産国家化)を意味し、韓国にとって絶対に許されることではない。それを防ぐために、いずれ協力してもらいたい」
このときのことを坪山氏は「熱っぽい語り口だったがあまりにもスケールが大きい話で、確かに迷いはあった。しかし赤化統一とは北による韓国の侵略支配であり、日本の安全保障上の脅威でもあると考えた」と振り返る。
ただ安全保障のためとはいえ、金大中氏を支援する日本国内の勢力の情報収集に努め、その情報を金書記官に提供することを受け入れることは是か、非か。
坪山氏は「陸上自衛隊に所属し、自衛官の身分のままでは協力しにくい」と考えたという。
KCIAは当時、金大中氏の「民主化」活動が日米など国際的な広がりを持ち始めたことに大きな脅威を感じていた。金大中氏は、日本では保守系を含む国会議員との親交を深め、米国では民主党の支持を取りつけるほどになっていた。
昭和48年夏、金書記官は坪山氏に具体的な協力を要請した。依頼内容は(1)金大中氏の所在確認と報告(2)活動資金源調査(3)日本国内での支援組織の動向把握-の3点。「金大中氏の高麗連邦構想に基づく活動をやめさせたい。金大中氏に対して影響力がある韓国の国会議員、金敬仁、梁一東の両氏と引き合わせて説得させるため、所在を何としても把握したい」。金書記官は坪山氏にそう持ちかけたという。
坪山氏は、自衛隊の身分を離れ、民間の立場で依頼を引き受ける形を取った。
当時、金大中氏については、韓国での政治的迫害からテロの被害に遭う懸念があった一方、北朝鮮への政治姿勢が融和的すぎるとして、日本の治安機関も国内支援組織の動向に関心を寄せていた。坪山氏は調査依頼項目のうち、資金源と支援組織の動向については公安当局のカウンターパートを通じて探ることができたが、「所在の確認作業は難航を極めた」(関係者)。
坪山氏はその理由をこう説明する。
「金大中氏の国内支援組織が在日韓国人青年らを中心とする警護部隊を編成。金大中氏の動静についてKCIA東京支局の情報網にニセ情報を流していた。われわれが依頼された仕事は金書記官から提供される所在情報に基づいて金大中氏の居場所を確認し、金1等書記官に確実に知らせることだったが、KCIAは完全に攪乱(かくらん)情報に踊らされていた」
坪山氏によれば、KCIA側は金大中氏への接触が遅れ、説得工作の時間がなくなることを恐れ、かなり焦っていた様子だった。
そして拉致事件の10日前の48年7月29日、金書記官は坪山氏に、金大中氏の所在を確実に把握する手段として新聞記者によるインタビューを提案した。坪山氏の知人の記者に金大中氏とのインタビューを設定させ、その場所に張り込み、その直後に国会議員に接触させるという計画だった。
「KCIAによる所在把握の最後の手段」。坪山氏はそう感じた。
記者の動員は成功し、インタビューは8月2日、銀座第一ホテルで行われた。KCIAが金大中氏の動向の捕捉に初めて成功した瞬間だった。坪山氏は、クライアントの依頼をこなし安堵(あんど)した。
坪山氏は翌8月3日、調査料金精算のために金書記官に会った。金書記官はその際、こういったという。
「金大中氏が8月9日に自民党のA・A研(アジアアフリカ研究会)で演説することになった。これが実現すれば、金大中氏の活動、存在が日本で公認されてしまう。何としても阻止しなければならない」
坪山氏は、そのときの思い詰めた表情が忘れられない。それが、金書記官に会った最後だった。
そして事件は8月8日、金大中氏が東京千代田区のホテルで金敬仁氏らと面会した後に起きる。拉致された金大中氏は洋上で、海に投げ込まれる寸前、殺害が断念されたともされるが、当時から拉致を計画していた“犯人”を察知した可能性のある人物が日本にいたからとの見方もできる。
事件数日後の8月中旬。事件で大騒ぎとなっているさなか坪山氏が留守にしていた自宅に香港から一本の国際電話が入った。「サトウ」と名乗った相手は、坪山氏の妻が不在を告げるとそのまま切った。「口止めのための電話だったのでは」。坪山氏は電話の意味をそう考えている。