戦国最大のミステリー「本能寺の変」 明智光秀をそそのかした”黒幕”は誰だ? | kappa1945のブログ

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 ブログ主の個人的な意見では”光秀一人の考え”じゃないのかな

 

 戦国の世に人からしかも何の権力もない足利義昭や天皇からそそのかされてもねえ、光秀が美濃の明智出身で土岐氏系とすれば当然斉藤道三のことは身近で見ていたわけで”ここがチャンスだ”と思ったんじゃないの

 

 当時の武士はドライで勝った方につくなんてのは当たり前”敵の敵は味方”家来だって主君に忠誠なんて意識無かったと思うよダメな主君は家来に捨てられる、江戸時代のぬるま湯とは違うんだから

 

 

戦国最大のミステリー「本能寺の変」 明智光秀をそそのかした”黒幕”は誰だ?〈dot.〉
12/24(金) 7:00配信   AERA dot.

かつて本能寺があった場所を示す石碑。今の本能寺とは違い、南蛮寺跡の西にあった=京都市中京区元本能寺南町

 本能寺の変の背後に、光秀を教唆した黒幕は存在したのか──?「戦国最大のミステリー」として、古今の歴史家や市井の歴史ファンを悩ませてきたテーマといえよう。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』では、状況証拠、動機、事件の結果得た利益等から「容疑者」を多角的に考察した。数回に分けて「黒幕」を検証する。本当に、信長を殺ったのは誰だ!?

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【黒幕説/検証 1】足利義昭

■室町幕府最後の将軍が見せた打倒信長の策謀は事実なのか?

 本能所の変の裏には、明智光秀を背後から動かしていた黒幕がいたのではないか――。そう考える「黒幕説」のうち、おそらくもっとも信憑性が高いとされているのが、足利義昭黒幕説であろう。

 義昭は元亀四年(1573)、織田信長によって京を追われ、室町幕府はこれをもって滅亡したと考えられてきた。しかし、実際には将軍職を辞したわけでもないし、誰か別の人物が将軍に就任したわけでもないので、義昭は形式的には本能寺の変が起きた天正十年(1582)の段階でも征夷大将軍であった。

 京を追われた義昭は、毛利氏の庇護下に入り、備後国鞆の浦(広島県福山市)に亡命政権を樹立していた。これを「鞆幕府」と呼ぶ。義昭は幕府関係者を引き連れていて、奉公衆や奉行衆を任命していた。そして、自らの京復帰を手助けするよう、諸大名に書面を送るなどの「外交」活動もしていた。「鞆幕府」の評価については、形式的なモノに過ぎず実効権力とは言えないという見解もあるが、一部の大名に対して影響力を持っていたことは事実であろう。

 もともと光秀は、信長に仕える前、越前朝倉氏のもとに身を寄せていた当時から足利義昭との関係をもち、一時は信長と義昭に「両属」する関係だったと指摘されている。永禄十三年(1570)正月二十三日、信長は義昭に対し五カ条の条書を突き付けている。これは将軍である義昭の行動を規制し、政治の実権が信長にあることを公言する文書だった。

 この文書の宛所は、日蓮宗の僧である朝山日乗と明智十兵衛、すなわち光秀となっていた。これは、この条書が信長から光秀らを経由して義昭に突き付けられたこと、そして義昭がその内容を承諾する印を押したうえで再び光秀らに託したことを示している。

 義昭は自分を京から追放した信長に深い恨みを抱いていた。光秀はその義昭の意を受けて本能寺の変に至ったのではないか。光秀を謀叛に走らせたのは義昭の指令だったのではないか――というのが、足利義昭黒幕説のあらましだ。

 事実、元亀年間(1570~73)、義昭は京にあって「信長包囲網」を組織して以来、多くの武将に働きかけ、信長からの離反をそそのかしたり、信長への抵抗を促した疑いがもたれている。また、本能寺の変後に、光秀が発した文書や、義昭に関係する史料に、義昭が事件の背後にあったこと、光秀が義昭を将軍として推戴することを謀叛の大義名分としたとも解釈できる記述もみられる。

 すべて義昭の指示で本能寺の変が起きたとする「黒幕説」は、事件以前に義昭が光秀に謀叛を命じていた直接の証拠がないために証明が難しいが、何らかの形で事件に義昭の存在が関わっていたとする余地はまだ残されているのではないか。

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【黒幕説/検証 2】正親町天皇

■天皇は増長した信長の横暴を制止しようとしたのか?

 正親町天皇は、後奈良天皇の皇子として永正十四年(1517)に誕生した。信長より17歳上になる。戦前の研究では、信長を勤王家ととらえるのが主流であった。戦後になると、正親町天皇との関係を、信長と足利義昭との関係に重ねて、当初の蜜月時代から、やがて対立へと向かっていったという解釈がなされてきた。特に室町時代研究の牽引車であった今谷明は、晩年の信長にとって最大の敵は正親町天皇であった。信長は翻弄され、ついには敗れ去った」とまで明言した。

 この見解を受けて、以降、信長の行動や天皇観に危機意識を強めた正親町天皇、そして吉田兼見、近衛前久らの公卿が明智光秀を唆し、あるいは密勅を下すことで本能寺の変を引き起こしたと考える「正親町天皇(朝廷)黒幕説」が広がっていった。

 この説は、信長と天皇(朝廷)が緊張関係にあったということを前提としている。その理由として、信長が天皇や朝廷に対しいくつもの圧力をかけていたことが挙げられている。その代表的な例は、(1)三職推任問題、(2)暦の改暦問題、(3)天正九年の馬揃え問題、(4)正親町天皇の譲位問題、以上の4点にまとめられる。

 はたしてこうした問題は、信長による正親町天皇・朝廷への圧力だったと言えるのだろうか。三職推任問題とは、信長が本能寺の変直前に「関白・太政大臣・将軍」のいずれかに推挙するよう朝廷に強要したとする騒動のこと。しかし、そもそも推任を言い出したのが朝廷側からなのか、それとも信長からなのかは、この問題を記す『天正十年夏記』の解釈によって真っ二つに分かれていて、いまだ結論は出ていない。

 天皇大権(天皇固有の権能)とされる暦の選定について、信長と朝廷の間にトラブルがあったとするのが、改暦問題である。天正十年には「閏12月」があるのではないかと信長がクレームをつけたのは事実だが、むしろ天皇を尊重していたから暦の正確さにこだわったとの解釈もあり、信長が天皇大権の侵害を意識していたとする証拠もない。

 馬揃えについては、この軍事パレードが天皇や朝廷を威圧するためだったとの解釈もあるが、一方で正親町天皇は自ら望んで馬揃えを観覧したとの説もあり、近衛前久が馬術の腕前を披露したことなどを踏まえ、朝廷へのプレッシャーだったとの見方は現在では後退している。

 信長は正親町天皇に誠仁親王への譲位を強要し、正親町がこれを拒否したために確執が生じたとする説もある。しかし、中世以来、天皇は生前に譲位して天皇家の家長である治天(の君)となるのが常態だった。たまたま正親町の前3代の天皇( 後土御門・後柏原・後奈良)は即位式を挙行したり、新たに上皇の住まいとする仙洞御所を造営する費用がなかったので譲位できなかったのだ。つまり、正親町は譲位を望んでいたのであって、信長が強要したという事実は存在しない。

 また、晩年の信長は自らを神格化しようとしていたとルイス・フロイスの記録に見られることから、天皇の存在が脅かされたと解釈。正親町天皇との確執の根拠と考える説もあるが、国内の記録にはまったく見られない記事であり、信憑性は低いと考えられている。

 このように、正親町天皇や朝廷が本能寺の変を引き起こしたとする説は、現在のところ否定的にとらえられている。

◎監修/矢部健太郎(やべ・けんたろう)
1972年東京生まれ。國學院大學教授。日本中世史を専攻し、とくに室町・戦国・織豊期の政治史・制度史・公武関係史研究に取り組む。主な著書に『豊臣政権の支配秩序と朝廷』『関ヶ原合戦と石田三成』(以上、吉川弘文館)、『関白秀次の切腹』(KADOKAWA)など。