私は長年、自分は最底辺の人間、誰よりも劣っている、と思ってた。
客観的に見ればそんなことはなかったはずなのに
客観的事実でいくら自己肯定しようとしても出来なかった。
根底に「どうせ私は」があった。
まぁ今もそれはあるけど。
私は中学時代、成績がそこそこ良く、高校もそこそこ良いところに入った。
でも、それは親が無理矢理でも塾に通わせたから…(親の手柄)と思っていた。
小学生からなんの説明もなく突然学習塾に通わされたのは本当に嫌だっけど、結果的には私にとってメリットのある結果になったため、私の意思なんてクソ…親の言うこと聞いてるのが正解…みたいな思考が形成されてた気がする。
でも昨日ふと、
あれって私が凄かったのでは??????
という思考が降って沸いた。笑
なんでか分かんないけど突然(笑)
なのでせっかくだからブログに書いてる。
与えられたモノや環境を生かせたのは私であって、努力したのも私。
親が与えてくれたものは感謝したほうが良いとは思うけど、「親の手柄」ではないよな、と。
なんでこんな単純なことに今まで気付けなかったんだろう。
いや、気付いてたはずなのに何度も忘れてどうせ私は思考になるのを繰り返してるのかもしれない。
そもそも子が成したことは「親の手柄」ではない。
親の力添えがあったとしても、子が成したことは子自身の成果。
親から嫌なことをされても、
私のことを思ってやってくれている、生かさねば、と気負っていたけど、
嫌なもんは嫌で良いし、生かせたら生かした私が凄いし、どんどん自己肯定していこうと思った。
親が私にしたことは、いつも「結果的に」役には立ったかな、ってことが多かったけど、役に立つようにしてきたのは私なんだよな。
突然私が食べない食材を送りつけられてきても、どうにか消費したり、
頼んでもない子の肌着やオムツを送りつけられても、活用したのは私。
実は活用できなかったものも多々ある。
結果的に役に立ったものがあるから「親に感謝しなきゃいけない」って気負ってしまう気持ちがあるけど、実際ありがた迷惑も多々あったし、迷惑で嫌だと思った気持ちを押し殺して、無理矢理感謝しなくても良いんだ。
丸々1年以上親と直接会わなかったのは初めてのことで、この期間のおかげでだいぶ解毒が進んだ気がする。
溝も深まったかもだけど←
私は私で大丈夫、という安心を親からは到底得られないけど、
子育てをしていくなかで私が私を変えていくことは可能だなってよく思う。
母みたいな母になるんじゃないかと不安になる時もあるけど、私は母とは違うし、私は私が思うように生きたいななどと思いました(何)
例え1回だろうと親の言ったことは子の心に刺さって抜けなくなることがある、ってのを肝に銘じて、子を大切にしていきたいなーなんて思う。
まぁ、なんかしらやらかすだろうけど、そういう時に目を逸らさず、なかったことにせず、きちんと向き合っていきたいな。