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(2007年11月10日 NO.145号)
 



◎廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

其の三 「働くは“傍を楽にする”のお話」



 先日、「江戸文化歴史検定試験」を受けて来ました。去年から始まって今年で二回目のまだ歴史の浅い検定試験ですが、3級、2級、1級と有り、今回私は入門編の3級を受験致しました。結果は惨敗。前年度に出題されていた設問が余りにも安易で、正解率70%が合格ラインなら楽勝と高を括っていたのですが、当日配られた問題を見て愕然・・・。こんなん知らん・・・。今まで培ってきた知識と推理力を持ってしても、箸にも棒にも掛からない問題のオンパレードで、尻尾を巻いて出直してきます・・・といった感じでございました。我ながら情けない。



 さて、以前から私は明治時代の「文明開化」は「文明退化」だったと思っており、敗戦をした日本が教育までも自国の思想を捨て去ったところから、本当の意味で日本文化の衰退が始まったと思っておりますが、其の中でも特に問題だと感じるのは、昔の日本国民が当然の事の様に持っていた、今思えば何と奥床しく美しいと思える心の在り方がすっかり忘れられていることです。

例えば「働く(はたらく)」の本来の意味は「傍を楽にする」という事だったそうです。「日本には古来から「言霊(ことだま)」という思想が有って、この言葉にもそんな日本人の大らかな心が宿っているのを感じます。人が動くと書いて「働く」ならば、「労働」は「労」という重たい文字を背負って「人が動いている」事が分かります。「慰労」も「労い」も、大変な思いをした事に対する見返りで有って、決して「感謝」ではないのです。

 日本には元々この「労働」という発想は無く、「傍を楽」にして感謝される事で人々は貧乏な時代に有っても、健全な心と身体で夢や希望に向かって生き生きと生活をしていたのではないかと思うのです。今「三丁目の夕日」が見る人の心を暖かくし、何とも言えない切ない懐かしさを感じさせるのも、この日本人本来の心が呼び起こされているからでは無いかと思います。「労働基準法」「労働組合」等、高度成長期の労働者にとって自分を守ってくれるはずの砦のような思想も西洋の思想に他ならず、今はその守りの砦の中で「安定」と引き換えにがんじがらめに労働を強いられている人々の現状を感じます。



「労働」は人の感性を蝕みます。「働く」は人の感性を豊かにします。

「労働」はモノクロの世界です。「働く」は豊かな色彩の世界です。

「労働」は人の心を頑なにします。「働く」は人の心を柔軟にします。

「労働」に伴うのは見返りです。「働く」が生み出すものは感謝です。

「労働」は自分の時間を犠牲にします。「働く」は自分の時間を活かします。

「労働」は休みが必要です。「働く」は休みを必要としません。



 

 茶道の世界で使われている言葉に「働き」という言葉が有りますが、茶道の場合お点前の決まったやり方以外に、その場その場の状況に応じ臨機応変に対応することを言いますが、これも招かれたお客により喜んで貰おうとするもてなしの心、「働く」の心に他ならないのです。

 日本舞踊の世界でもそうですが、本番の舞台の時、稽古場で稽古の時に踊っていた全くそのまま踊れることはありません。衣裳や鬘の具合だったり、足袋と舞台面の相性だったり、地方さんとの呼吸だったり、各担当の多くの人と係わり合いながら、そのようないくつかの要素に対応していくことが出来なければ舞台は成り立ちません。お互いがお互いにより気持ちよく、舞台をより良いものにしていく為に「働く」事で何かを生み出す事が出来、見る人に何かを感じてもらう事が出来るのです。

 「働く」という言葉の中心には人に喜んで貰いたいと思う「思いやり」や「感謝」が有り、その基本的な考え方によってすべてが臨機応変に動くのであれば、これほど間違いの無いことは無いのではないでしょうか。すべての芸事の中心にはこうした人に対する思いがあり、この思いが総ての日本文化の共通した法則を生み出しているのです。まさに今の日本人に欠けている「心」の原点は日本文化から学ぶ事しか出来ないと言っても過言ではないでしょう。

 前回のエッセイでも書きましたが、「型(所作)」の裏にある「心」を理解し、それが一体となり自然な形で表現できるのにはかなりの時間を要する為、見てわかり易い形だけをかじったところで、日本文化は面倒くさいとか堅苦しいといった間違ったイメージを持たれたまま敬遠されがちですが、普段の生活からそういったことを学ぶ機会の少なくなった今の時代、伝える立場の方も「型」と共に「心」を伝える事の大切さをもう一度考えなくてはならないと思います。心が伝わらなくては何かを生み出すことは出来ません。



 それにしても精神性に置いてもこれだけ高い水準の文化を持ちながら、今の日本の現状はどうしたことでしょう。「型」有るから形を崩せるのですが、自国の文化を蔑ろにしている今の日本は如何せん「型」の無い「形無し」の国になっているのでは無いかと思いますが、如何でしょうか?





 何故かお互いちょっぴり緊張気味で写真をパチリ。高市早苗代議士は今までもっと男勝りな印象が有りましたが、実際にお会いしてお話を伺ってみますと、とても女らしいでも芯はびしっと通っているとても魅力的な方でした。



 親の愛情や日本の心等、そういった大切なものは日々の生活の中から自然に影響を受けるべきで、そんな他愛ないことの積み重ねが、今の日本を良くして行く遠回りのようで一番の近道、 というお話に皆さん大きく頷いていました。



 いじめっ子に対して親が直接抗議に行き、責任者である担任の先生の前ではっきり片を付けた話や、朝汲み立てのお水と炊き立てのご飯を仏前に供え、夜はその仏前のぱりぱりに乾燥して埃を被ったご飯をお茶漬けにして食べたというエピソード等私にも覚えがありました。そしてそんなさりげない日常の習慣の中で、私達は命の尊さや人を尊敬する心や、物を大切にする思いやりや様々な事を、漆を丁寧に何重にも塗って行くように、少しずつ少しずつ学びながら育ったのです。親が親として毅然と在り、日本人が日本人の心を持っていた時代に育った事を感謝しながらお話を伺いました。





 何か意見や質問をという事で突然指名され、久々に先生に当てられた学生さながら、しどろもどろになってしまいました。しかも政治にど素人の私には大した事も言えませんでしたが、始めて実際に政治を行っている政治家の話を伺い、直向に様々なご苦労をされて決め事をされていくご苦労を伺い、その一番大切な部分が殆ど表に出ることが無く、ひたすらお互いの足を引っ張り合い、料亭で食事をするのが政治家の仕事としてしか写らない、今の現状を疑問に感じる事をお話しました。

 

  私達も日本舞踊を媒体として日本文化の啓蒙普及活動を行っているとはいえ、こんな僅かな事で何が出来るんだろうと、時々暗澹たる思いに襲われることも有りますが、他の参加者の方々も皆さんそれぞれの思いに動かされ、兎に角地道な活動を長年掛けてやり続けていらっしゃる事を知りました。真剣、本音が創り出す熱気は凄いものです。私達は、まだまだ甘い甘い。これからも私達は私達の世界で精一杯やって行こうと、新たなエネルギーを頂いた有意義なひと時でした。
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(2007年11月3日 NO.144号) ☆☆甦れ美しい日本☆☆




◎廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

  其の二 「所作と心は表裏一体のお話」





 25ans<ヴァンサンカン>12月号(407ページ左上)に、小っちゃ~くですが私のコメントが掲載されています。編集者の方が小さな記事ですが・・・とおってしゃっていましたが、本当にここまで小さいとは正直思いませんでした。でもちゃんと写真も載っていますので、書店で立ち見・・・いや、良かったら購入してくださいませ。(編集者の方ゴメンなさい)

 なんで、25ans<ヴァンサンカン>のような西洋趣向の権化(重ね重ね編集者の方ゴメンなさい)のような雑誌に、日本文化を連呼している私が小さいながらも載ったのか不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、実はある方を通じて一ヶ月程前でしたか取材を受け、最近25ans<ヴァンサンカン>の読者達が、自分たちの有り方に疑問を感じ始めているのだという興味深~いお話を伺いました。動きや所作が美しくない自分たちに気づき始め、その原因が何なのか知りたがっているという事でした。取材に来られた女性の編集者本人も行き詰っている様で、そのような傾向をどの様に扱ったら良いのか、途方に暮れていると言った風でした。一時間程話をした中で「所作と心は表裏一体」という言葉が特に印象に残っていた様で、今回の記事は取り敢えず西洋趣向の池に和の小石を投じてみようという形になりました。



 さて、本題に入りますが、着物の場合は、美しい立ち振る舞いのポイントの総てが日本舞踊に集約されていますが、洋服やドレスの場合も同じようにダンスやバレエなどの西洋舞踊の動きの基本が出来ていると奇麗に見えるのです。立ち方、歩き方、手の使い方、袖や裾の扱い及び捌き方は、着物、洋服に係わらず、大きなポイントになる部分だと思います。

 いずれにしても全くトレーニングが出来ていない身体をいくら飾り付けても、「板につかない」のは当然でしょう。町ですれ違う人達を見ていても、年齢性別に関係なく奇麗に歩くことの出来る人は、残念ながら殆どお目に掛かる事が有りません。トレーニングをする事によって正確な姿勢で立つ、座る、歩く為の筋肉が鍛えられ、同時に美しい所作の為のテクニックを学ぶことによって、相乗効果となる訳ですが、もっと基本的かつ大切なのは「意識をする」事。総ての事柄に通ずるものだと思いますが、これが中々難しかったりするのです。



 伝統芸能の稽古場には、基本的には鏡が有りません。鏡の無いお稽古場で先生の動きを真似る所から始まります。自分がどんな格好をしているのか、さっぱり見えない状態で、只ひたすら先生の動きを真似るのです。踊りだけで無く礼儀や作法の部分でも先生をお手本に、稽古場や舞台上で起きる総ての事を学んでいくわけですが、始めからそれがどういう意味を持つのか、なぜそうしなければならないのか、すべて理解をできるわけでは有りません。

 何度も何度も真似ていく内に意味を理解し、理解した所で自分の物になるはずなのですが、心で理解しても未熟なうちはまだそれを形に表すことが出来ません。形と心の逡巡を幾度も繰り返し、時が流れて行くのと共に少しずつ身についてくる。そして、ようやく初めて自然な形、所作として表に表れて来るわけです。所作と心がどちらもおなじレベルで完成するのは、そう簡単なことではないのです。でもそこまで来てから始めて自分の感性が加味され、自分のオリジナリティーと言うものが生まれてくるわけですから、ほんまに芸の道は厳しおす。

 稽古の時、師匠によくご注意頂くのは「作為的な動きは不自然で綺麗じゃない」という言葉。水が流れるように、雲が沸き立つように、炎が燃え盛るように、風がそよぐように、人の心を捉えて離さない自然の美しさを自分の心と身体の中に取り込めたらと思います。



 「美は一日にして成らず」と言いますが、正に其のとおりだと思います。

まずは美しいものを美しいと、美味しいものを美味しいと感じることの出来る健康な心と身体が基本です。ともあれあんな小さな記事では到底伝えることの出来ない深いテーマだってことに、編集者の彼女はどこまで気付いているのかしら?