東洋の宗教と韓国のキリスト教(3)
3.マテオ・リッチの東洋宣教このような状況であった中国や朝鮮ですが、マテオ・リッチが東洋宣教を目指します。マテオ・リッチ(1552~1610)は、中国名を利瑪竇(りまとう)といって、イエズス会所属のイタリア人司祭でした。それまでできていなかった中国宣教に成功し、1601~1610年の間明朝宮廷において活躍しました。東洋人に西欧式を押し付けるのではなく、現地の文化を尊重する姿勢を示し、中国には科学知識と西欧の最新技術を伝え、西欧には中国文化を紹介しました。儒教国家では科挙という筆記試験がありましたが、西欧では筆記試験ではなく弁論の試験でした。マテオ・リッチが、中国では科挙という筆記試験をしていると紹介してから西欧でも筆記試験を用いるようになったといわれています。マテオ・リッチは、中国の儒者の服を着て中国文化の研究に励み、儒教や仏教、道教について研究しました。また、マテオ・リッチで有名なのは、「坤輿万国全図」こんよばんこくぜんずという世界地図です。これは、中国(東洋三国)を中心に据えた構図で描かれた最初の世界地図で、画期的な地図でした。 マテオ・リッチは宣教師なのに、地図も描くのかと疑問を持つ人もいるでしょう。当時カトリックの宣教師になるには、神学を勉強して司祭となるだけでなく、弁論のための文法、修辞学、弁証法の「三科」と算術、幾何学、天文学、音楽の「四科」からなる「自由七科」の履修が必須でした。イエズス会の方針は学術宣教だったのです。中国宣教マテオ・リッチは中国宣教の際、儒教の「天」や「上帝」は、キリスト教の神の観念と一致すると考え、ラテン語のデウス(神)の漢語訳を「天主」とし、漢文の教理問答書である「天主実義」を 著述します。儒教の世界観を理解して儒学者の限界を見つけ、天主教をその代案として提示することに成功しました。また、儒教の先祖祭礼は偶像崇拝には当たらないと報告し、イエズス会もこれを受け入れました。しかし、この祭礼の受け入れを巡って、清の時代に問題が起きます。中国宣教に赴いたドミニコ会とフランシスコ会によって 先祖祭礼を認めたイエズス会が非難されます。それにより教皇庁は先祖祭礼禁止令を出し、それと同時に清も天主教の宣教を禁止します。この先祖祭礼禁止は、後に朝鮮の天主教にも影響を及ぼします。天主実義の輸入マテオ・リッチの著書『天主実義』が1603年に刊行されます。これは中国人を布教するために漢文で書かれており、8弾に渡って儒教的教養に基づいて天主教の教理を問答方式で説いています。この中で重要なのは、神、天主の存在に対する人間の認識であり、これは人格神であるといっています。それと、天主教受容の基盤となる儒教的性格に対する説明や、儒教と天主教の共通点についても触れています。この『天主実義』が、朝鮮に正式に入ってきたのは1631年(仁祖9年)で、朝鮮燕行使によって清経由で輸入されました。それ以前にも1614年(光海君6年)頃から『天主実義』を私的に入手する人もいたようです。これを勉強する中で、天主実義を批判する儒学者も多くいました。その中でも愼後聃(신후담:1702~ 1761)は、著書『西学弁』の中で、・死後の世界は立証できない。天国、地獄、霊魂の不滅など、明確でないことに言及している。善を行わせるための象徴的な言説であるが、仏教の輪廻転生とさして変わらない。・上帝とは宇宙を創造した超越的な人格的存在ではなく、朱子学が教えるように、非人格的な「理」の機能を指す。・敵を愛せというが、敵とは悪人なので、悪人を愛すれば道徳規範が堕落する。などと批判しています。天主実義輸入前後の朝鮮天主実義が輸入される前後の朝鮮は、李退渓派と李栗谷派に分かれて200年に渡る四端七情論争を続けていました。「心」は①性(本性)と②情(感情)に分かれていて、「情」は「四端」(惻隠、羞悪、辞譲、是非)と「七情」(喜、怒、哀、懼(く=恐れ)、愛、悪(お=憎しみ)、欲)に分かれているとみますが、 李退渓の「主理論」では、すべて理(貴いもの)と気(賤しいもの)に分かれていて、四端は道徳的で貴い感情であり、七情は非道徳的で一般的な感情(もしくは賤しいもの)だと分けています。いっぽうで李栗谷の「主気論」では、理も気も重要だといっています。例えば、「怒り」を挙げてみると、退渓からしたら怒り自体が非道徳的または一般的感情(賤しいもの)であるとし、栗谷は、①不正に対して怒る場合は道徳的感情であり、②自分の思い通りにならなくて怒る場合は非道徳的又は一般的感情であるといっています。こういった論争を弟子たちが200年も続けていました。天主実義と朝鮮の天主教そういう中で、天主実義は輸入されてから約150年後、南人派の儒学者たち(李蘗イビョク、李承薫イスンフン、丁若鏞チョンヤギョン )の研究材料となり、「西学」という学問が出発しました。茶山・丁若鏞(1762~1836)は、天主ニムとは、宇宙万物を主管する人格的な存在であると考えました。実学者でもある丁若鏞は、両班ソンビが200年も四端七情論争をしている間に、庶民の生活は大変になっているので現実的な社会問題の解決のための学問が必要であり、民生救済、支配階級の倫理性回復が緊急課題だと主張しました。丁若鏞は、正祖に文臣として仕え、華城の設計にも参加し、作業者の重労働を軽減するために挙重機(クレーン)を発明したのが有名です。