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アトリエ ジャルゴンからのおたよりです

、30年前、夫タンタンと私が息子の親になった記念に付けた屋号です。
ジャルゴンとは、赤ちゃんの話す喃語。
つまりデタラメ言葉のこと。
私の想いや言葉は、赤ちゃんのような、心から魂から生まれるピュアなオトダマ音霊ものでありたいのです。

1978年の夏、私はジュネーブでのISO国際会議に通訳として参加しました。 アジアからは日本と中国だけ。 他はソビエト連邦とヨーロッパ各国。時代はEU連合もまだ生まれる前で、ISOの中ではフランスとイギリスが主導権争いをしている状況もありました。 つまり英語とフランス語,どちらを第一言語として優先するか。 それはファクシミリの国際間の通信が本格的に始まる時で、 各国のISOの担当責任者の会議で、諸国間の数多の取り決めを迅速かつ的確に決議決定し、翌週の各国官僚レベル会議、翌々週の各国の大臣(日本では当時の通産大臣)の調印が控えていたのです。 会議は午前8時から始まり、昼食を挟んで夕方まで。時には夜まで延長になるハードなスケジュールだったことを覚えています。 国際会議場のカフェテリアで昼飯夕食も済ませ、ホテル(ビスコンティの映画の舞台のように広くてクラシカルな部屋でした)へ戻るとその日の会議の要約。 ジュネーブの街にはニ度、一度な夜の帰り道で市電の乗り継ぎを間違えて市内を一回りしたのと、現地のYMCAの総責任者が日本人で、その方にサーカスに連れて行ってもらいました。 そのほかはホテルと会場の往復。 いつも自作の手書きの単語帳を握りしめていて、ジュネーブを出る時にわざとホテルの部屋の屑籠に入れてきました。 さよならISO! その時にはボロボロの灰色になっていたのです。 工業規格の専門用語ばかり飛び交う会議なので、日本にいる間に短期間で工業用英語を受験生並みに丸暗記したのは、日常会話よりもそれが重要だったからで、私がISO関係資料の下訳などのアルバイトを何年もしていたので、推薦してもらいましたが、人の言葉をそのまま鸚鵡返しに伝える仕事にはどうも興味が持てないままでした。(まだ当然、そこまでの境地には至りませんでした) 丸々一週間を緊張の連続で過ごし,翌週は通産省の偉い方(事務次官?)が英語に堪能な省内の人と来るため,私の仕事はそこで終わり。 国際会議の仕事が決まった時点で、会議の後はジュネーブから一人でパリに行くことを決めていました。 初めての海外旅行が,私には相当ハードルの高いものだったので、一週間パリで宿泊するホテルだけは日本から予約していましたが、ほかの事は全くのノープラン。その数年前に出版されたパリの地図と日仏会話本だけを頼りに早朝のジュネーブ駅からパリ中央駅行きの列車に乗りました。古い地図はどこもかしこも地下鉄工事中のパリではかえって役に立てず、英語を話さないお巡りさんや旅行会社の人たちのおかげで。かなり珍しい旅になりました。 いろいろなところで日本人=ノーキョーと誤解されたり、初めてパリに来て一人で歩いている日本人を初めて見た!という挨拶は至る所で。 「私は日本でも一人で歩くのが好き」 ジュネーブでもパリでも思い出は沢山ありますが、 最近思い出すのが、今目の前に見える景色と同じモノを列車の窓から見た事。 パリに近づいて来た時、こんなふうに高層ビル群が林の向こうに見え始めたのです。 「あ、お墓だ!」 それは次第に数を増し,林の向こうに大きな墓場があるんだ!と思い込んでいた私は、それがお墓ではなく,ビルだと気づく頃には、乗客たちが棚から荷物を降りだしたり,車掌さんが、パリ!とか終点だとか、いいながらコンパートメントを覗いて回り始めていました。 そうです、日本のお墓とはヨーロッパのお墓は形が違う。。。なのにパリの高層ビル群を墓場勘違いした私が30年以上経って、再開発・都市計画の業界の末端にいるとは。。。 何かの間違いのような気分もあるのですが、当時から平安文学を専攻する院生だった私がなぜISOの。。。なぜジュネーブの国際会議に。。。 と、いつも好奇心に駆られて、彼方此方に夢中になるモノを見つけて短期集中するのも私の美点で欠点のようです。 でもそろそろ東京の墓場から越そうかな。。。 良い景色を人様に譲って^^