反・時計回り

反・時計回り

徒然なるまま、マイペース。
現実の時間からちょっとずれた感じに(`・ω・´)

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 天井も、床も、家具の1パーツに至るまで全てが黒く染められた部屋。濃淡の差異は有ったけれど、どれ1つ取っても黒としか形容できない色ばかりだった。しかし、その僅かな違いで、お互いの境界がはっきりとしているため、部屋に有るものはそれぞれ独立した存在感を放っている。真っ黒のシャンデリアから注ぐ蝋燭とそこからの赤々な光、四方に配置されたドアの上で回る金、銀、銅、透明な巨大な歯車が黒以外の色だった。4つのドアには何の表示も無く、各ドアがどのような部屋に繋がっているかはあずかり知れない。ただ、金の歯車の下のドアには地球儀、銀は揺り籠、銅は棺、透明は時計がそれぞれ刻まれていた。部屋の内部を表しているのか、もしくは部屋の主に何やら関係するのか。
 いくつものシャンデリアにより部屋は明るく保たれ、中央のダイニングテーブルと8脚の椅子が照らされている。何も載っていないテーブルと各辺2つずつ並んだ椅子は、床から生えている様にそこに静かに佇んでいた。事実、部屋の中は静寂としている。室内に響き渡るのは、4つの歯車の稼働音だけだった。稼働音と言っても大型装置の荒々しい機械的なノイズではなく、不思議な塩梅の和音。奏でる音が互いが互いに共鳴し合い、四方に離れて回っているがそれぞれ歯が噛み合っている様な繋がりを発していた。極限まで調和した空間には時刻を表す物はおろか窓一つ無いため、昼夜の区別も分からない悠久の時が流れているかの様だ。天井の中央、一番高くなっている所に天窓の様な物は有ったけれど、それ自体が真っ黒だったため外の様子が分かる訳ではなかった。
「ちゃんと仕事しろやエイシャアアアア!」
 静寂の時は、突如の怒声と共に地球儀の刻まれたドアが蹴り開かれた事により終焉を告げた。無理やりな扱いを受け、蝶番とドアノブが大きく軋み悲鳴を上げる。勢いの付き過ぎたドアの運動エネルギーは、壁に衝突する事で音エネルギーに変換され空気中に拡散した。外れかけていたドアノブはそこで力尽き地に転がる。耳をつんざく様な轟音が部屋中に響き渡るが、そんな事お構いなしにずかずかと中央の部屋に出て来たのは、ベリーショートの髪をした背の高い女性。身に纏う衣服も何処かの軍服らしい風体だ。酷く激昂した様子で乱暴に椅子に腰を下ろすと力任せに机の上へと両足を打ち付ける。しっかりした作りのブーツと机が衝突し短く鈍い音がした。背後でドアが開け放たれた状態で不自然に傾いている。どうやら蝶番が歪んでしまった様だ。あれではもう部屋の仕切りという正常な機能は果たす事はかなわないだろう。
「し、仕事さぼってる訳とちゃうんよ?」
 怒声が聞こえたのか、揺り籠の刻印されたドアから長めの髪を緩く巻いたおっとりとした感じの少女がびくびくと顔を出した。民族衣装にも似たワンピースドレスの裾が体の揺れに合わせてひらめく。
「あー?」
 鋭い眼光で机の女性が半分ばかり出た顔を一瞥する。肉食獣に睨まれた子鹿の如く、ひぃ、とエイシャと呼ばれた少女は身を竦めた。
「カーちゃんそんな怖い顔せんとってや……」
「誰がカーちゃんだ! お前の母親になった覚えはねぇよ!」
 呼び方が気に入らなかったのか、再度机の上の足を振り下ろす。さっきよりも数段大きな音と共に机が軋む。それによりエイシャは更に身を固くした。びくびくと俯きながら何とか目線だけは向けている。
「いや、そういう意味やなくて、ほら、カイラちゃんやんか? だからカーちゃ……」
「分かっとるわそん位!」
「んもう、怒鳴らんとってやー」
 三度怒声が響く。取りつく島もないカイラの様子に、少々口を尖らせて不平を漏らした。部屋と部屋の境界に居る事が居心地悪かったのか、エイシャはようやくドアの陰から出て来るとカイラの座る個所から椅子1個開けて左側に座った。座り心地が悪かったのか、1度腰を浮かせて服のスカート部分をさっと撫でつけ、再度カイラの方へと向き直る。
「何でカーちゃん嫌なん? 可愛いやんかー……」
「可愛くないわ阿保」
 ため息を吐くエイシャの言葉をカイラは一蹴する。むー、と頬を膨らませ組んだ腕の上に顎をのせたエイシャは、可愛いのにとぶつくさ独り言を漏らした。
「……んじゃあ、バーンズの方を取って、バーちゃん?」
 しばらく逡巡した後に思い付いたとばかりにカイラの方に目線を送るエイシャ。一瞬呆気に取られたカイラだったが、数秒も経たない内に形相は鬼の様に豹変し、両足を机の上にのせた不安定な体勢にも関わらず、目にも止まらぬ速さでエイシャの頭にはたきをかましていた。背丈に見合った長い腕がしなり、小気味の良い高い音が空気を震わせる。
「いっ、たあああああああい!」
 頭頂部辺りを両手で押さえながら悲鳴を上げる。相当痛かったのか、目尻には涙が浮かんでいた。エイシャを見下ろす顔はどこか侮蔑を含んでいる。
「天罰だ天罰」
「もう、カイラちゃん手加減知らんのやから……」
「さっきから騒がしいよぉ?」
 エイシャからもカイラからも見えない位置から急に割り込んで来た第三の声に、カイラとエイシャは同時に身を固くしながら声の方へと視線を向ける。そこには眼鏡をかけた小さめな男の子とカイラ程ではないが短めな髪の女の子が立っていた。男の子の方はぶかぶかな紺色のローブを身に纏い、3分の1程余った袖をゆらゆらさせながらにこにこと笑い、女の子の方は対象的に体に合った緋色のローブを着てすました顔をしていた。どちらも魔導師の様相という感じだ。独特な間延びした声を発したのはどうやら男の子の方らしい。下には一応ズボンを穿いてはいたが、ローブの裾が膝下辺りまで来ているせいでスカートの下に穿くレギンスの様になっている。
「タ、タスケンドちゃんとユラ、何時からそ、そこに?!」
「ほ、ほんまよ。ターちゃんユーちゃん何時から?!」
 慌てふためく2人を可笑しげに笑いながらタスケンドはエイシャの向かい側の椅子に腰を下ろした。ユラは無言のままタスケンドの斜め左後ろに立つ。
「エーシャちゃんがカイラちゃんの事バーちゃんって呼んだ辺り位かなぁ?」
 席に着きしばし悪戯っぽく笑った後に、んーと首を傾げながらタスケンドは言葉を続けた。光の加減で眼鏡がきらりと怪しげに反射する。歴戦の戦士も少し身を引く様な威圧感を放つ。
「そ、それやったら声もっと早うかけてよ!」
 タスケンドに引けを取らない幼顔を少し引きつらせながらエイシャは語気を強めた。怒りを感じている訳ではなく、焦りと驚きからただ単純に声のトーンが制御出来ていなかっただけの様だ。それに追従する様にカイラも頭を縦に数度動かす。その2人の様子に当の本人はただ微笑むだけでどうにも腹の内を明かさない、といった様子だ。
「いつも思うけどタスケンドちゃん、音も無く背後に立つの止めて欲しいです……」
「えぇー? いっつも普通にしてると思うんだけどなぁ? ねぇ、ユラちゃん?」
 その問いにユラは、1回頷いて返した。ただ、タイミング的にどちらに同意したのかはあまり定かではない。
「音どころか気配も皆無やで……」
 エイシャに対する粗暴な態度も今は鳴りを潜め、10㎝たっぷり背の高いはずの体が不思議と小さく見える。身長の小さなエイシャはよりこじんまりとしている。ほぼ同い年であろう4人には微妙な力関係が大きく関与している様な具合だった。絶対君主と平民、と言う表現が的確かもしれない。
「んで、あれどうにかならねーの?」
 しばしの間の後、改めて椅子に座り直し居住まいを正したカイラが銀の歯車を指差した。静かに回る様子は特に異常は無い様ではあった。少なくとも常人にはそう見えるだろう。
「やっぱりこの事で騒いでたんだねぇ」
「“システムの歪み”がどうにもこっからだけじゃ制御出来んくて……、ハーちゃんに一応出向いてもらってるんやけど……」
 さっきまでのおちゃらけた雰囲気から一転、心妙な顔つきになる。終始緩い表情をしていたタスケンドでさえ目付きは真剣だった。4人が見つめる先、銀の歯車は回っている。一定の速度で狂う事のない動きは精密な時計の部品の様でもあった。それでも、よくよく注視すると他の3つの歯車の周期から若干の遅れを取っていた。奏でる音も、僅かながら歪さを含んでいる。どちらも神経を最大限に集中させて初めて気付くか気付かないかの異変であるが。
「そろそろ、なのかもしれないねぇ」
 ローブの袖に埋もれた左手で頬杖をついた格好でぽそりとつぶやく。目線がどこか遠くを見ていたため、独り言の様にも、3人に言い聞かせる様にも、はたまたここにはいない誰かにしゃべりかけている様にも聞こえた。
「せやね」
「そうかもなー」
 どこか暗い様子でカイラとエイシャは静かに相槌を打つ。ユラは何も語らず立っていたが、同様に思うところが有る様な表情をしていた。何が、とは1回も言葉にはしていないがお互い何を言わんとしているのかは察していた。それが決して望まれた出来事ではない事も十二分に分かり切っている。
「ハーちゃんが帰って来るまで何とも言えんけど、多分もう修正出来んと思う。ごめん」
「ばーか、そうなってもその後全員で動けばいいだろ。一人で抱えんな」
 申し訳なさそうに俯くエイシャの色白な額に、カイラは長い指をしならせデコピンを一発かます。少しくぐもった鈍い音が短く1回鳴る。口調こそ崩れていたが、その声音は優しかった。エイシャは、打たれ赤くなった額の中央辺りを両手で抑えつつやっぱり手加減知らんのやから、と聞こえるか聞こえないかの境で悪態をついた。だが、裏腹に顔は至極穏やかだった。
 ふいに金の歯車がある壁側から静かにドアの閉まる音が聞こえた。銀の歯車を感傷気味に見つめていた4人は揃って首をそちらへと動かす。カイラの手、と言うよりは脚により破壊されたはずの地球儀の刻まれたドアが、従来の姿で部屋と部屋を区切る職務を全うしていた。ドアの横、蝶番側にしゃがんでいたのはどこかぼうっとした感じの男性だった。技術者然とした感じで、カーキ色のツナギを着ている。4人に見られているのに気付くと、ぽりぽりと頭を掻きながらゆっくりと近づく。今のところ一番背の高いカイラよりも頭1個分高い体はスラリとしていた。
「すいませんです。ドアが壊れていたので直しましたのです。お話の邪魔をするつもりはなかったのです」
 カイラの横で立ち止まると、低音で心地良く響き渡る声が独特の口調で言葉を紡ぐ。
「いやいやニッくん、どうもありがとう! さっすがあたしの補佐官!」
 部屋を漂う辛気臭い空気を払拭するかの如く、大きな体躯を器用に折り曲げて深々と頭を下げるツナギの男の肩をカイラが労いながら軽い調子で数度叩く。その力はお世辞にも加減されているとは言い難かったが、叩かれた方は微動だにしなかった。補佐官、と呼ばれていたためこういう事は日常茶飯事で慣れているのかもしれない。
「ニーちゃん気にしてないよー」
「問題は無い、ニック」
「カイラちゃんよく物壊すけどニックくんのおかげで安泰だねぇ」
 三々五々口を開き、最後のフォローなのか良く分からないタスケンドの言葉が言い終わる辺りでニックは体を起こした。依然として感情の読み辛い顔付きではあったが、いくらか安堵した気配が垣間見える。
 比較的天井も高く、広い部屋ではあったが、男女5人が集うだけでそれなりに込み合っている様に見えた。それでも、全員座ったとしても未だに空席が3つ残っている。それは、少なくともあと3人はここの住人が居るという事だろう。
「ハイドちゃんは今外に行ってるけどさ、コークさんとクッドの時計部屋コンビはどうした?」
 ニックの登場からそれなりに時間が経った頃、思い出した様にカイラが口を開いた。住人たちが続々と中央の部屋に集まる中、その2人だけが顔を出さないのが気になったのだろう。エイシャ、タスケンドはふるふると首を振って分からない、と答えた。
「クッドはハイドと、外に出てる。クッド居ると移動便利、だから。コーク、さんは、多分寝てる。あの人ここで一番、マイペース」
 カイラの疑問に答えたのは意外にもユラだった。口数が少ないが、全く喋らない訳でもないらしい。喋り慣れていないのか、変なところで文節を切ってしまう癖はある様だが。その返答に、疑問を投げかけた本人はあーとうーの曖昧なラインの音を口から洩らした。
「そうだった、あの人の掴めなさはタスケンドちゃん以上なの忘れてた」
 それはここにいる全員の共通認識なのだろう、他の3人はおろか比較対象にされたタスケンドさえ反論は述べなかった。
「まぁ、仕事の情報量の多さはここにいる誰よりも多いからなぁ。頻繁に寝ないとやってけないんだろうねぇ」
 頬杖をついていた左手を頭の後ろで右手と組み、そのまま椅子の背もたれに体を預ける。わずかにぎぃ、と軋む音がした。余った袖が2本、ポニーテールの様に後ろで揺れる。その言葉もまた、全員が認めるところだったらしく各々同意を示していた。
「……この事についてコーさんの意見も聞いてみたいんやけど、クッちゃんやないと時計の部屋に入れんからどうしよ?」
「そりゃ、戻ってくんの待つしかねーな」
「せやけど、ただ待ってるだけやと落ち着かんくて」
 エイシャは、テーブルに複雑な表情で前のめりに倒れこんだ。両腕を前に伸ばしてバタバタと動かして、どうしようもないフラストレーションを少しでも発散している。横に居たカイラにうるさいと諌められても、うーうーとうめき声をあげて落ち着きなく体を動かしていた。
「エイシャさん、もうすぐ2人が帰って来るのです。落ち着いて下さいなのです」
 まるで赤子をあやす様に穏やかな声でニックが話しかける。こういう状況下ではおうおうにして嫌味と取られがちなしゃべり方も、不思議とそうは聞こえなかった。それがニックと呼ばれる男の人柄が成せる技なのだろう。エイシャは、まだ若干渋い顔をしてはいたが大人しくする事にしたらしい。取り敢えず、唸ることを止めて静かに座っている。物音を立てる者が居なくなると、歯車の回る音だけが黒い部屋の5人に覆い被さった。
「“歪み”、修正出来てるといいけどな」
 そう切り出したのは、またカイラだった。シンとした空気が耐え難い性格なのだろう。
「もし修正出来なくてまた“アレ”が起こるとしてぇ、今回で何回目ぇ?」
「銅、金ときて今回が銀なので、3回目なのです」
「3回目かぁ、大分スパンが短くなってるねぇ」
 ううむ、とタスケンドが難しい顔をする。指折り数えて何やら計算しているが、結局指が足らずこんがらがった様だ。全てローブの袖の中なので確かではないが。
「帰って、来た」
 カイラから始まった会話は、そう長く続かない内にユラの言葉で中断した。ユラは天井の天窓を真っすぐ指差し、見つめている。時と場合、場所を違えば星空を見て流れ星を発見した少女にも見えなくはなかったが、残念ながら指し示す先は夜空には近い色はしていたが星1つ輝いてはいなかった。間髪入れず、部屋の中に轟音と共に暴風が吹き荒れる。室内の物が総じてガタガタと音を立てた。シャンデリアの蝋燭は風の勢いに負けて全て掻き消え、部屋の中は瞬く間に一寸の先も見えない闇となる。光を失ってからは空気がけたたましく擦れ合う音がしばらく鳴り響き続けた。室内でなければ台風でも上陸したのかと思うレベルの風だ。十数秒たっぷり轟いた後、中央の机の上に重い物が落下した様な激しい音とその横に降り立った様な靴の音が続いた。その音が 聞こえる頃には、風は既に何事も無かった様に止んでいた。風のせいで激しくきりもみ状態になっていたであろうシャンデリア達の装飾が名残でちゃらちゃらと金属音を立てている。
「ユラちゃん、よろしくねぇ」
「了解、した」
 真っ暗闇の中で、相変わらずの間伸び声がする。ユラの返事からワンテンポ置いて、急激な燃焼が起こった時の空気が爆ぜる音がすると、蝋燭全てに真紅の火が再び灯り、部屋を照らし出す。急激な明暗変化にみんな目が眩んだようだったが、ぼやけた視界の中でテーブルの上に立つ2人の男の事は知覚出来た様だった。一斉に注目を2人が集める。
「帰ってきーたぜーい!」
 短髪でタンクトップとダメージジーンズというラフなスタイルにシルバー製のチェーンやリングなどが目立つ、いささかファンキーな風貌の男が高らかに声をあげる。快活ながら、やたら大きな声がびりびりと反響した。身長はそこまで高くないが、がっしりとした体付きと立ち位置のためかかなり大柄な体型に見えた。
「……相変わらず派手やね、クッちゃん」
「おう!」
 乱れてぼさぼさな髪を撫で付けながら言い放った、半ば呆れた風のエイシャのぼやきに近い嫌味はあまり通じている気配はなかった。良くも悪くも少しの事には動じる事の無い性格らしい。飄々とするクッドとこれ以上やりとりしても得る物が無いと悟ったエイシャは、早々に会話を終え、机の上に立つもう1人に話しかける。
「お疲れ様、ハーちゃん」
「お気遣い有り難いのですが、そう呼ばないで下さいと言ったはずです」
 フォーマルな私服をそつなく着こなし、クッドとは真逆な落ち着いた雰囲気のもう片方の男、ハイドは冷静に砕けた呼び方をする少女を諭した。はたから見るとどこぞの令嬢と執事にも見えなくはないが、そう呼ぶにはエイシャはお気楽過ぎ、ハイドは冷め過ぎているのだが。ハイドは一旦言葉を切り、優雅な所作で机から床に降り立った。踏みしめていた所を軽くはらい、暴風の影響で歪んでいたチェック地の細身のネクタイを真っ直ぐ整える。背後で、机上を忙しなく動き回っていたクッドがカイラとタスケンドに蹴り落とされていた。咳払いを1度する。
「そんな事より、例の件ですが、あらゆる策を講じて妨害、修正を試みましたがいかんせん進行が異常な速さで……。残念ながらどうする事も」
 淡々とした状況説明を装ってはいたが、声ににじみ出る僅かな動揺が隠しきれていない。それを読み取ってか、エイシャはとても穏やかな声でもう1度お疲れ様、と言った。一瞬複雑な表情を見せたが、また畏まった顔へと戻る。それを見逃さなかったエイシャは、どこか楽しそうにふふんと鼻歌を歌う。
「さて! みんなには申し訳ないけど、大仕事手伝おうてな!」
 両手を一杯に広げ、にこやかな笑顔を見せた。

 一同は席に着いて、テーブルを囲う。クッドの横の1席だけ空席になっていた。熟睡していたコークを起こせなかったとクッドは言っていた。あれやこれや少し話し合った結果、一先ずは1人欠けた7人で会は始める事にした様だ。
「“アレ”が始もうてしまったら私達4人の制御は厳しくなるんよね?」
 切り出したのはエイシャだった。今回の一件の中心という事もあり、話の進行を受け持ったのだ。
「ああ、暴走し始めてあっという間にカオスだな」
「特に今回は、エイシャちゃんの制御が機能停止しちゃうねぇ」
「そうなったらきちんと終わらせ、なきゃね」
 吹っ切れた様子のエイシャだったのだが、最後の言葉は少し言い淀んだ。分かってはいるが、なるべくなら実行したくはない感情の現れだろうか。
「大丈夫だよぉ。ちゃんと僕がその役目はするからねぇ」
 エイシャの向かい、机を挟んだ所で幼顔がどこか困った様な笑顔をエイシャに向けた。何か言おうとしたエイシャを横に居たカイラが制止する。
「これが決まってた事位お前もわかってるだろ?」
「せやけど……」
 最初は大きかった声が段々小さくなり、最後はほとんど口の中でもごもごと言うだけで言葉にはなっていなかった。その様子を見て、タスケンドは更に困った笑顔をしながらありがとぉ、と曖昧に呟いた。
「けど、棺の部屋を任された以上はきっちり役目をこなさないとねぇ。それに必ずしも僕の出番が来る訳でもないから心配無いよぉ」
「そうですね、“あのシステム”が起動出来れば前回、前々回と同じ様に解決出来ます」
 いつもの呑気な顔に戻ったタスケンドは能天気にそう続けた。ハイドがそれに付随する。
「せや、ね。猶予はどれ位やっけ?」
「きっかり半年が限界にゃふ」
「コークさん!」
 時計の刻まれた扉の前、縦線1本の目と3を横倒しにした様な口が描かれたフードの付いたパーカーを着て、欠伸を噛み殺しながら小さな子供が立っていた。背丈はタスケンドやエイシャよりも小さく、目深にかぶったフードのせいで口元しか見えなかったが、誰となしにその名前を叫んだ。最後の空席の主のコークだった。サイズの合わない大きな靴を脱げない様器用に歩く姿はブリキの玩具を彷彿とさせる。フードで目は隠れている様に見えるが、足取りからどうやら視界はちゃんとしているらしい。
「遅いぜコークさーん!」
「すまんにゃふ」
 コークが席に着くと、横のクッドが口を開く。まだ眠気が取れ切っていない様子でコークはしきりに目を擦っていた。フードの内側に差し込まれた両手が何回も動く。気を抜くと再び眠ってしまいそうだ。そんな事を危惧してか、エイシャは再びコークに質問を投げかけた。
「半年が限界なん?」
「そうにゃふ。半年以上はもう世界が耐えられずに、主が最も忌避したい終末に辿り着くにゃふ」
 最も忌避したい終末。その言葉が出て来ると全員の表情が一様に曇る。
「それを避けるためにも、主の残した最終手段を開放するにゃふ」
「すぐに全て見つかるといいのです」
「前回も思ったんだけどよー、1回発動したんだからシステムの在り処とか分からないもんなのかよー」
「それは無理だよぉ。アレは移動しちゃうねぇ」
 否定され、クッドはめんどくせー、と悪態をついた。
「そもそもよー、たった8人で仕事を回す事自体無理難題だよなー」
「8人じゃ、ない」
「こまけぇ事は良いんだよ!」
 悪態ついでに愚痴を1つ零すが、すぐさまユラが間違いを指摘した。ばつが悪かったのだろう、椅子から立ち上がると吠える様にユラに噛み付いたが、ユラは既に興味を無くした顔で受け流すだけでそれ以上は口を挟む事はしなかった。言葉が宙に浮いた状態になり、勢いを無くしてしまったクッドはそのまま椅子に体重を預ける。
「……んじゃあ、またしらみ潰しかよー」
 口振りからクッドを含めここに居る全員が2度経験している事態の様だったが、その当時の記憶が甦ったのか先程よりは少々落ち着いた調子で沈み気味にぼやく。
「最初の1個さえ確認出来れば、探す範囲はぐっと狭まります。そう面倒臭がらずに」
「へいへい」
 やる気を失いかけた子供を諭す様な口調で、ハイドが諌める。不機嫌ではあったが、自分の役目は承知しているのだろう、クッドは特に反発しなかった。
 それから、しばらくの間来る緊急事態に向けた話し合いと確認が続いていった。誰の目も届かない閉鎖された空間でそれを静かに見守るのは、じりじりとその身を減じていく蝋燭位だ。淡々と進行する議論は、白熱する事も無く酷く事務的で冗漫にも感じられたが、その奥にどこか言い知れぬ緊張感を内包しているのだった。
 延々とした状況は、張り詰めた物が弾ける無機質な音で唐突に中断を余儀無くされた。数秒遅れて固い物質がいくつか黒々とした床に落下する音が続く。
「……始、まった」
 静かにユラが言葉を吐き出した。狂いながらも辛うじて回り続けていた銀の歯車が完全に稼働を止め、時計の文字盤の丁度2時から7時の方向に大きな亀裂が走っている事がその言葉を裏付けている。落下音はその破片によるものだった。床に転がったそれは酷く鈍い色を放ち、悲痛な無念を主張する。
「さて、もう悠長にはいられないにゃふ。発見と収集を急ぐにゃふ」
 コークの一言に、7人は慌ただしく行動を開始した。銀の歯車が止まった事で、部屋自体の機能も失い始めたのか調和された様に奏でていた歯車の音が今は無残な不協和音を奏でる。金は次第に回転を緩め始め、銅は反対に速度を徐々に上げていった。透明は速度が一定にならず揺らぐ様に回っている。その様子をカイラやエイシャが苦々しく見つめていたが、無理やり顔を背けて活動に専念していた。騒がしい気配も、どういう具合か蝋燭の灯がすべて消えてしまった事で闇へと紛れていった。
「……もうすぐ。もうすぐだから」
 1つまた1つと気配が部屋から消えていく中、不協和音と失った視界に最後に残った気配が小さく呟いた。

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 まずは、お読み頂きありがとうございました!あとがきでは登場人物についてのあれやこれやなどを書いていこうと思います。
この作品自体が久々に本腰を入れて書く話だったので、色々と読みづらかった箇所があったと思います。自分もかなり四苦八苦しました(´・ω・`) 中々思い通りに話が進まなくてぐぬぬ……、となることもしばしば。それでも、楽しんでいただけたら幸いです。

 実はこの作品、大元は高校2年生の時に考えていたものです。6年位前ですね!その時は今の様な虹色がテーマではなくて、ただ単純に色を題材にした一連の作品になる予定でした。設定も今よりずっと簡単にしか決まってなくて、主人公が男、拾う犬の片目が青色になっている、カラースプレーの缶にトラウマを持っている、の三つくらいしか決まっていませんでした。飽き性の僕は途中でほっぽってしまったからなんですが^^;
 それを携帯の中から見つけたのが、今回の企画の発端ですね。
 最初が現実的な描写が多かったので、後半からの展開が少し、いや、結構かなりトンデモになってしまったのですが、起点のお話だから、という事で許してくださいorz
ちょいちょい伏線を張ろうとして大事故になってますが、もうちょっとうまく書ければ良かったなぁ、と思います……。
 今のところ、本編は虹色7話+最終話って感じに考えています。ただ、7色の話は互いにほぼ独立しているので、サイドストーリー的な話を挟みながら補完していく予定です^^それが何話になるのかかなり未知数なんですけれども……!

さてさて、この「インモラル・インディゴ」に登場する名前は3人と一匹ですね!名無しのキャラを合わせても二桁行かないくらいですかね?いやあ、少ないw
 まずは主人公の「日生 公」くん。モデルはかなり長い付き合いの生主さんの「ハム」くんでした!かなり早い段階でキャラが決まっていた一人です。名前もほぼ即決、ハムくんのコテハンの由来であるハムスターをハム星 → 星 ハム → 日生 ハム → 日生 公 ってな具合です。わかりやすいね!一字の名前が僕的に好きなので、あえて字を付け足すことをしなかったのですが、ちょっと簡単すぎたかもしれないですね(`・ω・´)
 次は、主人公の後輩、「古隈 優志」くん。モデルは「コクーン」くんでした!コクーン=繭ってのを利用したのですが、ここでは名前を付ける際に良く使う、苗字と名前で特定の文字列を分割する手法をしています。こくまのま、とゆうじのゆですね^^ 苗字に関しては、コクーン君のことを僕がこ君と呼んでいたことに起因して、こく、を付け足して古隈になりました。同じ理由でお姉さんキャラ、「古隈 柚希」さんも名付けています。このキャラのモデルは「まゆき」さんでした!本来は獣医キャラ一人だった予定を、あまりにも登場人物が少ない、という事で姉弟に分割したのがこの二人の生まれたきっかけです。最初にコクーンくんを起用して、名付ける段階で名前に「まゆ」が含まれていたので 、まゆきさんを次いで起用させていただきました(`・ω・´) 話を書いている途中で生まれたキャラでしたが、なかなかにお気に入りのキャラとなりました!
 最後に藍之右!このワンちゃんのモデルは特にいませんが、僕の趣味で柴犬似の雑種をイメージして登場させました。柴犬、好きです(*´∀`*) 名前も趣味全開ですが、みなさんついて来れましたかね? 右をすけと読む様な人名独特の読みが好きだったりします。
 名前の付いたキャラは以上でしたが、実は記者会見に出ていた学者っぽい男性にもモデルはいます。ただ、あまりにも登場時間が少なかったため、名前は作中に登場させませんでした(・へ・) なのでここでもまだ触れないでおきます。いずれお話しできる時が来る、やも知れない!

さて、地名も2つほど出てきましたね。これにもどうでもいい由来があったりします。まずは主人公の住んでいる「一鈴町」。このお話では最終的に住民がいなくなりペットが置き去りにされる結果となりました。そのため一人残った公がまるで動物の町の王の様になったのを受けて連想したのが、聖書にも出て来る兄弟の「カインとアベル」です。動物を飼育していたアベルから、a bell →一つの鈴 → 一鈴 といった具合のダジャレみたいなもんですね!こういう名づけ方も結構します。もう一つは大学最寄り駅の「花引」。察しの良い方ならもうお分かりですかね!そう、アベルを出したのならカインも出そうという事で、カイン → 花引 です。

 そんな感じですかね!これからもっと面白くしていければと思います(`・ω・´) 恐らくとても更新は遅いと思いますが、生暖かい目で見ていただければと思います!
それでは、次のお話にて!

かん介

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 その後一週間は何の変哲もないまま過ぎていった。雨が降ったり降らなかったりはあったが、丸々ずっと青空は拝めない状態が続いていた。梅雨時期だからしょうがないとは言え、気分が自然と滅入ってしまう程だ。じめじめと重苦しい空気もそれに拍車をかける。こんな有様なので、滅多に外に出られない藍之右はさぞかし不満だろうと思っていたのだが、買い与えてやった犬のヌイグルミで器用にひとり遊びを飽きずに繰り返している様子を見ると、こいつはこいつなりにエンジョイしているらしい。あまりに遊び続けたせいで、片目がかたつむりの角と化していた。辛うじて数本の木綿糸が本体と目を繋いでいる具合だ。まあ、藍之右が楽しそうで何よりなのだが。
 ふと思い立ち、鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。締め切りは6月末と少し先だけれど、1つ作品を仕上げる課題が出ていたのだ。題材も画材も大きさも自由。ただし講義室に入れられる物に限る、との事。本来自由創作は苦手な分類だった。制約がないと、納得出来るポイントを見つけ出すのに苦労するからだ。特に納得のいく題材を決めるのに最も時間を取られてしまうのだが、今回は描きたい物が例に無くすんなり決まった。相当この小さい家族に入れあげてるな、と思う。でも仕方がない、好きなものは好きだ。一心不乱にヌイグルミと格闘する姿を真っ白な紙上に写し取ろうとするが、絶え間なく動かれるため、一瞬一瞬を記憶にとどめ線を走らせる。どの構図が良いか何個もざっと荒く概形を描いていく。やはり、目の見える構図が藍之右らしい絵になる気がする。藍色の右目はもうこいつのアイデンティティーなのだから。
 描き続け、ようやく構図が固まった頃には、日が地平に落ちかけた夕刻の薄闇が広がり始めていた。ひたすら鉛筆を走らせていたせいでジンジンと指が痛む。右手の側面も黒炭で真っ黒だ。清書は明日にでもしよう。んー、と伸びをひとつ。それにつられてか、藍之右が大きな欠伸をひとつ。窓からうっすら差し込む朱色の光がその顔を照らした。ベランダの向こう側には雲が切れ、太陽ののぞいた空が広がっていた。もしかすると明日は久々に晴れてくれるかもしれない。少しの期待を胸に、携帯で天気を調べると先一週間の明日だけぽつんと晴れマークが輝いていた。そうとなれば、溜まった洗濯物も一気に干してしまおう、気持ちの良い日差しの中を藍之右と散歩に行こう、学校に置いてある画材も取りに行ってしまおうか。やりたい事が沢山だ。計画が出来た事だけで、気分が高揚する。実に単純明快な性格はこういう時に便利だという事にしておこう。さあて、明日が楽しみだ!

 晴れ渡った空。水平線と空が混じるまで雲一つ無く、限りなく遠くまで澄んでいた。真っ黒な地面と真っ青な空が二分する視界は幻想的な光景だ。しばらく呆けた様に自然の境界に目を奪われていたが、はたと我に返る。俺は何をしていたのだろうか。うーん、と頭をひねるがどうにも思い出せなかった。ぱっと見る限り外行きの格好はしているので、ちゃんと自分の意思を持って出て来たと思うのだけれど。しばらく脳内を探ったが、どうにも答えは出そうにない。そう言えば、藍之右はどこだろう。自分が外にいるのであれば一緒に出て来たはずだ。遮蔽物はおろか小石すらも落ちていない黒い地面に居れば見当たらない事はあり得ない。遠くに置いてけぼりにしてしまったのかもしれない。探しに行こうと、一歩踏み出した途端ばしゃり、と水音が跳ねた。踏み出した右足がすっぽりとくるぶし辺りまで地面に飲み込まれている。いや、地面と全く同じ真っ黒な水の中に足を踏み入れてしまった様だった。
「うわ」
 思わず飛び退いた。右足が水面から出ると同時に重油にも似た水が飛び散り波紋を広げる。暗く重い感触に、にわかに焦燥感を感じた。足元からうごめく様な、言い知れぬ不安感。藍之右が静かに沈んでいく映像がちらつく。イヤダ。そう思った時には、盛大に水しぶきを上げていた。両足が下ろされる度に高く跳ね上がり、ジーンズの膝上辺りまで染み込んでいく。まるで地の底から這い出る亡者の手の様に、絡みついた。走る度に重くなる足取り、募る焦燥感、変わらない景色。一向に見つからない家族の無事を祈りながらがむしゃらに進んだ。こちらの方角にいるのかもわからない。ただ、立ち止まるのが怖かった。ひたすらに広がる黒い地面と水も何も知らない様に透き通っている空も、なんだかとても怖かった。
 しばらく走り続けた頃、肺の限界を感じゆっくりと速度を落とし停止した。抑えられない荒い息を何とか鎮めようと両手を膝に乗せ大きく息をつく。肩が大きく上下するのに合わせて足元に波紋が生じた。自分を中心に急速に拡大していく円。何となくそれを目で追うと、同じ様な円と交差した。そのままの格好で首だけ持ち上げる。そこにいたのは、藍之右だった。こちらに背を向け、空を見上げ立ち竦んでいた。無事だった、と駆け寄ろうとした時、右足が何かを蹴り飛ばして甲高い音が響き渡る。空中でくるくるとやけに綺麗な軌跡を描いて飛んでいくそれは、何かのスプレー缶の様に見えた。ほんの数秒の後、蹴り上げた時よりも大分控えめな音で藍之右のすぐ脇に着水し、波を立てる。何故か藍之右は側に落ちた物に無反応だった。それだけではなく、落ちた衝撃で壊れたかの様に、缶から噴き出した真っ黒でどろりとしたもやが藍之右の周りを覆い始めても、じっと動かずただただ見上げているだけなのだ。まずい、と駆け出そうにも体が言う事を聞かなかった。叫ぼうにも声が出ず、その間にもどんどん藍之右の姿は隠されていく。成す術もなくその光景を見つめるしかない事に気が狂いそうになりながら、最後に見えたのは……。
 けたたましいアラームが視界を引き裂いた。暗転した後に目に飛び込んだのは、滲んだ部屋の天井だった。状況がうまく飲み込めない数秒。その間も聞きなれた電気仕掛けの雄鶏が鳴り続けている。無造作に起き上がり、耳元で音楽を命令通りに流していた携帯を片手で開き、電源ボタンを押した。部屋に静寂が戻ると共に、把握する。嫌な夢を見たものだ。
 ベランダのカーテンを開けると、まぶしい陽光が顔を照らした。思わず目を細める。予報以上の快晴だ。輝く青空は、夢とそっくりだったが、その下に広がるのはもちろん真っ黒ではなく普通の街並みだった。普通に行き交う人を見ていて、なんだか急に阿呆らしくなってしまった。洗濯してしまおう。暑さと悪夢でじっとりと濡れたTシャツもついでに洗おうと襟に手をかける。頭がシャツを通り抜ける際に汗の臭いが鼻に届き、顔を少し歪めた。これはシャワーを浴びた方が良いな……。脱いだTシャツを両手でくしゃくしゃ丸めていると、物音に目を覚ましたのか藍之右がこちらに来ていた。
「ほら、藍之右おいでっ!めっちゃ晴れてるぞ!」
 しゃがんで両手を開き、迎え入れる体制をとってやれば、まだ幼い足取りながらも一生懸命走ってくる。もう少しで腕の中、と言う所でぴたりと立ち止まった。いつもなら何の躊躇も無く飛び込んで来るのだが。おかしいな、と思いつつしばらく同じ体制で待ってみても一向にこちらまで来ようとはしなかった。正確にはこちらに行きたくても見えない壁が邪魔をしているかの様にあるラインを境にうろうろとしている。後ろに何か有るのかと思って振り返っても、そこにはベランダのガラス戸しかなかった。もしかして、そんなに汗臭かったかな。丸めたTシャツに鼻をくっ付けてみる。あんまりいい気分ではなかったがそこまで拒絶される程では無い、と信じたかった。
 結局、藍之右はこっちに歩み寄る事無くケージへ戻って行ってしまった。まるで娘に嫌われる父親の様なショックだけが残った。雄だけど。いや、そういう問題でもないが。
 シャワーを浴びている間に洗濯機を回す。さっぱりしてあがる頃には、洗濯も終わるだろう。量が量だったので、一回で収まるか怪しかったが、どうにか全て押し込み開始を押した。少し鈍い音を立てて動作が開始されたので入れ過ぎた感は否めないが、後は待つだけだ。空になっているエサ入れにフードを一回分出してやる。水入れには充分水が残っていたのでそのままにしておいた。
蛇口をひねり、温度を調節する。少し熱めのお湯を頭から被れば、心身ともにすっきりした。汗と一緒に嫌な夢の黒い水が流れ落ちる感覚がする。気付けば重点的に足にシャワーをかけていた。気のせいだとは分かっているけれど、思い込みって言うのは恐ろしいものだ。さてさて、後の予定も詰まっている事だしさっさと浴びてしまおう。テキパキと頭と体を洗い、さっと洗い流す。浴槽には普段からつからないため時間はいつもかからない。寝起きのシャワータイムはものの20分程度で終了した。シャワーからあがり、服を着替え、洗濯物を干して、軽く食事を済ませた頃にはそろそろお昼になろうか、と言う時間だった。
「そろそろ、行こうか藍之右」
 声に反応したのか、鞄を担ぐ動作に反応したのか、藍之右は熱心に格闘していたヌイグルミを離した。右目がどこかに行ってしまっている哀れなヌイグルミは、力無くくたりと横たわる。まさに満身創痍の様相だ。そろそろ引退かもな、とちらりと考える。足の周りを藍之右が、なになに~? とばかりにくるくると回っていた。小さいながらも、外行きの格好で立ち上がると俺が出かける事を分かっている様で、こんな感じに連れてってとおねだりをする。
「今日はお前も一緒だぞ」
 首輪の後ろの金具にリードを引っかける。そのまま抱きかかえて出発準備完了だ。まだひとりで階段を降りれなかったので、抱っこして家を出るのが常になっていた。最後に一通り施錠を確認して、玄関のドアを押し開いた。心地よい風と真っ青な空が俺たちを迎え入れる。まだ風は涼しい温度で流れていたが、日差しは夏の片鱗を現していた。きっと梅雨が明ければもうすぐ夏になるだろう。今年も暑くなるだろうか? あんまり気温が上がるのは嫌だな、と考えるのも束の間、耳に届いた不穏な鳴き声で中断した。藍之右が、うなりとも呻きとも取れる濁った声を漏らしていたのだ。
「ちょ、わっ」
 腕の中で足をばたつかせ、体をひねり暴れる。右手はドアに手をかけていて、左手一本で支えていたので抑えきれず、離してしまった。器用に通路着地すると一目散に家の中に駆け込んでいった。リードが蛇の様に後につられ引きずられる。どうしたのだろう、出かける時にこんな事になった事はない。頭を傾げつつ後を追い家の中に入る。もしかしたら暑いのが嫌だったのか? リードは廊下の真ん中ほどで停止していた。先端はケージの中に続いている。ひょいと身をかがめて中を覗くと、奥の方で小さな体が縮こまって揺れていた。震えている様だった。
「藍之右……?」
 何に怯えているのかは全く分からなかった。が、俺の声が届かない程に取り乱しているのは痛い位に伝わる。今はそっとしておこう。
 静かに家を出ると、そっと施錠した。散歩は諦めて、学校に行く事にする。絵具やら筆やらを自分のロッカーに全部突っ込んであったので、作品を仕上げるために取りに行かなくてはならない。一鈴駅に向かって歩き出す。さんさんと照りつける日光が肌を焦がし始めた。
 休日という事もあり、駅の人出はいつも以上に多かった。何かのイベントがあるのか、さっきから浴衣を着た女の子がやたら目についた。真っ昼間から見る浴衣も悪くない。下駄とコンクリートが触れる音に耳を傾けながら電車を待った。程なくして滑り込んだ電車の中にも同様な女性が多かったが、全員降りて来た。恐らくここで乗り換えて市の中心部にでも向かうのだろう。少し残念に思ったが、大学はかなり市街地から離れた辺鄙な場所に建っているので、仕方なかった。
 がたがたと喧騒な音を立てながら電車は走り始めた。レールとレールの継ぎ目で一際大きな音を立てる。電車の揺れに身を任せながら、ぼんやりとさっきの出来事を考えていた。ひどく怯えた様子の藍之右。何が原因だったのか。いつもと違ったのは晴れてた事位で、曇りの日に外に出た時は全く問題もなかったのに。考えれば考える程、煮詰まっていった。夕方にでも優志の所へ行ってみようか。1時間15分の乗車の間で、思考は何の結論も見い出せないまま終わりを告げる。大学最寄りの花引(はなびき)駅に降り立ったのは自分を含め、10人もいない程度だった。休日の学校に好き好んで顔を出す様な輩は多くないと言う事だろう。自分も思い立って来たが、普通に休日は学校には顔を出さない。駅舎から出た俺を迎えた日の光は最早凶悪だった。
 A棟4階西側に俺のロッカーは有る。学生番号で位置が、学年で階数が決まるのだ。そのせいで年1回学年が上がる直前に全校生徒ロッカー大移動がある。その日までに全ての物を引き揚げないと問答無用で処分されてしまう。比較的物を溜め込む傾向の俺はその度に焦るのだが、4年になった今でもそれは改善されていない。開いたロッカーには教科書が数冊、筆が10本程度、刷毛が3本、スケッチブックやクロッキー帳が5冊、絵具類が数セット、カラースプレーが大小合わせて6本と、訳が分からないぐしゃぐしゃのプリント類を除いてもこれだけの物が少なくとも詰まっていた。物陰にまだ何かしらが隠れていると思う。とりあえず、ドア部分にかけてあった手提げを手に取ると筆類、絵具類、カラースプレーを全部移す。何とか収まったが、カラースプレーのヘッド部分がどうにも飛び出して仕方がなかったので、そこは諦めてしまう事にした。意外に腕にかかる重量感が帰る足取りを重くする。校内滞在時間はものの10分だった。移動時間の方が何倍も長い事実にため息がこぼれた。
 家に着く頃には、右肩を中心に疲労が蓄積して痺れていた。左手でどうにか鍵を差し込み、もたつきながら回す。よたよたとドアを開ける。藍之右が出迎えてくれた。リードが付きっぱなしでずりずりと引きずっている。落ち着きを取り戻している様で安堵した。本当に何だったのだろうか。体を開かれたドアの隙間に滑り込ませるが、距離感覚を見誤り、ドアに手提げを盛大にぶつけた。中身がバランスを崩し、カラースプレーが3本こぼれ落ちる。甲高い落下音をさせて各々転がって行く。赤色のスプレー缶は落ちてすぐ壁にぶつかり止まり、黄色の缶はしばらく転がったのち、ケージ横の掃除機に進行を阻まれていた。最後の藍色のスプレー缶が、綺麗に真っ直ぐ転がって一直線に藍之右に向かって行く。缶に印字されている文字が見えたり見えなくなったりしながらゆっくりと転がり、そして、藍之右に当たった。その瞬間、これ以上無い位の大きな声でけたたましい叫び声が響いた。金切声と言うのだろうか、喉を押し潰して絞り出す様な声。あまりの出来事に一瞬事態が飲み込めなかったが、激しく暴れ、リードが首に絡まり始めてようやく大変な状況になっていることを認識した。画材の入った手提げを放り出し、落下と同時に中身がばらばらとこぼれるのも厭わず、藍之右に駆け寄る。手足をバタバタと無闇やたらに動かしまわるのをどうにか押さえつけ、腕の中に固定し、首輪の上辺りに食い込みかけていたリードの隙間に指をねじ込んだ。相当錯乱しているか、抑える間にも数度手首に歯が食い込み、血がにじみ出る。だが、そんな事に気を回す余裕などなかった。間一髪窒息は防げ、どうにかこうにか最悪の事態は回避出来た。しばらくもがいていた藍之右だったが、時間が経つにつれ大人しくなり、最終的には小刻みに震え始めた。リードを首輪から外し、震える体をそっとケージに下ろす。しばらく様子を見ていても、ちょっとした音にもびくつく具合で、痛々しい姿だ。今はそっとしておいた方が良さそうだと判断し、そっとその場から離れる。事態の引き金となった藍色の缶は、暴れた拍子にかなり部屋の奥まで転がっていて、ベランダ脇のベッドの横で止まっていた。無言でその缶を見下ろす。藍色のカラースプレーは、カーテンの隙間から漏れた光で奇妙にギラリとした光を放っていた。
 あいつの右目は、冷血な元飼い主に藍色のカラースプレーで塗り潰された。きっと、藍之右には青色の訳が分からないものに突如襲われ、視力を奪われた様に思えたはずだ。だから、青い色自体に恐怖心を抱いても何らおかしくはない。今朝の俺に近付かなかったのも、昼に玄関から出る事が出来なかったのも、きっと汗せいでも、気温のせいでもなかったのだ。あいつは、晴れ渡った青空すらも見る事が出来ない程に心を傷つけられている。そう、悟った。不思議と怒りは湧かなかった。ただ、酷く胸が締め付けられる感覚にたまらず、嗚咽を漏らす。どうしようもなかった。心の傷なんてどう癒して良いかなんて分からなかった。言葉の伝わる人間ですら、心的外傷を癒してやるのは至難の業だ。まして、言葉で意思を伝えられない動物の心をどうやって癒してやれば良いんだ。遣る瀬無い気持ちがあふれ、涙をこぼす事しか出来なかった。
 日も暮れ、夜の帳が下りた頃、雨音がベッドに座りベランダのガラス戸に頭を預けていた俺の耳に届く。徐々に雨脚は早まっていき、数分後と待たず豪雨となっていた。ガラス戸にも幾筋もの雨の筋が出来ていく。数を増やしていく雨筋を眺めながら、洗濯物はもう駄目だなと頭の片隅で思った。首を少しだけ動かして、廊下の先のケージを見やる。未だに藍之右はケージから出て来ない。それだけを確認すると、ガラス戸にまた身を任せた。今日知ったあまりの事実の反動でとても何かする気にはなれず、そのまま落ちる様に意識を手放していった。
 気づくと朝になっていた。首と頭がひどく痛んだ。昨日の格好のまま寝てしまったらしい。相変わらず雨の音が鼓膜を揺らし続けている。寝起き独特のぼんやりとしたままの頭でしばらくぼーっと前を見ていた。すると、足元で何やら動くのを感じ、視線を緩慢な速度でそちらに向けると、藍之右が一生懸命俺の足を前足でこすっていたのだった。心配そうに俺の事を見ている。
「お前の方が辛いのに、情けないよな」
 頭を撫でてやりながら、ぼそりと呟く。そうだ、俺がしょげてても仕方がない。何でもいい、出来る事を。そう意気込み、手始めに少し旧世代機のカテゴリーに足を突っ込みかけたノートパソコンで検索をかけてみた。色々な似た症状に関する情報は出て来るが、元々それに関する知識を持ち合わせていない以上、有用に活用出来そうもなかった。やはりこう言う事はその道の人に聞くのが早いか、と次は古隈動物病院に出向く。柚希さんも同じ獣医の2人の親御さんも真剣に話を聞いてくれ、薄い色から徐々に慣らしていってみる治療を施してくれる事になった。しかし、何もかも上手くいかなかった。何一つ心の奥底の深い傷を埋める事は出来ないまま、無為に三週間程が過ぎ去って行った。
 定期的に通う事になった古隈動物病院から帰宅し、一息ついた。今日も成果は無かった。過剰なまでの青色、特に藍色に対する拒絶は緩和されないままだ。ため息が自然と漏れる。非力の二文字が目に浮かぶ様だ。長時間の診察に疲れたのか、藍之右は帰宅途中のケージの中で早々に眠りに落ちていた。藍之右が眠ってしまうと、部屋の中は吐き気を催す程の静けさが襲う。耐え切れずに、目的も無くテレビを付けた。少しのタイムラグの後に映し出されたのは、緊急記者会見の様だった。画面右上に目立つ赤々とした色で速報!と見出しされている。何やら学者然とした男性達が熱心にマイクに向かって喋っていた。風貌からアメリカ辺りの人らしい。しゃべっている言葉も英語の様で、日本語の字幕のテロップが付いていた。喋る度に記者陣のカメラのシャッターを切る音とフラッシュが画面を踊る。チャンネルを変えてみてもどれもその会見の生中継だった。しばらく眺めていたが、難しい言葉の羅列で良く分からない。辛うじて分かったのが、新種の生物が生まれた事、それが地球上のどの生物由来ではない、と言う2点だけだった。多分凄い偉業なのだろう。これだけニュースになると言うのはそう言う事だ。けれど、俺が知りたい事ではなかった。テレビを消してしまおうか悩んだが、そのままにしてベッドの上に重力に従い倒れこんだ。衝撃で埃が舞う。そう言えば、この布団ももう大分干してないな。今度晴れたら干そうか。そう思ったが、すぐに考えるのをやめ枕に顔を埋めた。晴れは、青空何か嫌いだ……。
ふと気づくと、三週間前に見た夢と同じ場所に立っていた。恐らくこれも夢なのだろう。夢の中で夢と自覚するのは初めてで、何か不思議な気分だ。真っ黒に濁った水と眩む様な青い空の世界。目の前には藍之右。あの時と同じ様に空を見上げている。少し歩けば手が届く距離。しかし、黒いもやが包む光景がフラッシュバックし、足を踏み出せなかった。黒い水の中にあいつのトラウマの元凶が沈んでいる。俺が無闇に動けば、それをほじくり返してしまうのだ。俺のせいで……。
「………ろは……い。よ………のをま…り……くしむ……ろ」
 歯噛みをしてその場にいた俺の側で突如聞こえた声に、俺は辺りを見回す。とても微かで、あまり聞き取れなかったが、確かに聞こえた。
「誰かいるのか?」
 叫んでみるが、その声は虚空を虚しく漂って消えた。
「誰でもいい、俺じゃ無理なんだ。誰か、あいつを助けてくれ」
すがる思いでもう一度叫ぶ。何者かも知らない、けれど誰かを頼る以外にもう出来る事はないのだ。
「本当にそうかい?」
「え?」
 今度は背後からはっきりと聞こえた優しげな声。振り返り見ても黒い海が広がるばかりだったが、そこに何かの気配を感じた。暖かい何かがそこにはいる。
「お願いだ、助けてくれ」
 その気配に向かいもう一度請う。気配は、笑う様に少しだけ揺れた。
「彼は君に助けてもらいたいはずさ」
「でも、俺にはどうしていいのか……」
「大丈夫、君はきっと出来る。考えなくてもいい、その力が備わっている」
 俺が言葉を続ける事を遮る様に、気配は諭し優しく語りかける口調で言った。
「彼は今戦っている。心の拠り所の君がくじけてちゃ駄目じゃないか。さあ、やってごらん?」
 最後に、大丈夫出来るよ。と付け加え、気配は空中に吸い込まれる様に消えていった。とっさにあんたは誰だ? と問う事も出来なかった。俺に、出来る? 振り返り、藍之右の側まで歩を進める。何か円筒状の物を踏みつけたが、軽い感触と共に砕けてしまった。一歩一歩と踏み出す度に、足元で砕けていく。藍之右の真後ろで最後の一つを踏み潰し、止まった。じっと空を見つめるその姿をそっと抱き上げる。その体は驚くほど冷ややかさと、小刻みな震えが両手を通して伝わって来た。
「大丈夫、俺がいるから」
 俺にはこうする事しか思いつかなかった。ただ、怯えるこいつに安心感を与え様と俺の精一杯の感情を伝える事しか。
 ふと、藍之右の震えが止まりほんのりと暖かくなっていった。今までずっと空を見つめていた瞳が俺を見据える。目と目が合い、俺は久々に心から笑った。不安が、恐怖が、全てが溶けて無くなる。その瞬間、俺と藍之右を藍色の光が包んでいく。あの空の様な、透き通る様な鮮やかな光だった。
「今日6月25日の天気は、県内局所的に強い雨が……」
 女性アナウンサーのはきはきとした声が天気予報を伝える声で目を覚ました。付けっ放しだったテレビからは朝のニュースが流れている。左上に表示されるデジタル時計は6時28分を示していた。まだ焦点の合わない目をこすり、意識をはっきりさせる。また転寝してしまった様だ。最近は、意図しないタイミングで寝てしまう事が多かった。転寝した次の日は酷く気分が悪い事が常だったのだが、今日は何だかとても目覚めの良い朝だった。昨日までの鬱々とした気分はどこ吹く風、とても晴れやかな気分だ。不思議な夢のせいだろうか?
 ざあ、と地面を激しく雨粒が叩く音が聞こえる。バケツをひっくり返した様、と言うのは正にこの事だろう。ベランダに付いている排水溝が雨量に耐え切れず、ごぼごぼとうめき声をあげていた。これはちょっと振り過ぎじゃないか? 外をちらりと見やっても、雨の密度が濃すぎて白くぼやけ、遠くまで見渡せなかった。この様子じゃしばらく外には出られそうにないな。今日が講義日じゃなくて本当に良かった。
 7時を過ぎた頃、藍之右がのそりと起き上がったのが遠くに見えた。心なしかすっきりした顔つきにも見える。もしや、と思ったが流石にそれはないだろう、と嗤った。でもまあ、そういう思い込みも悪くないかな、とちょっとだけ思うのだった。
「よーし、飯にすっか!」
 その問いかけに、藍之右は大きく1度鳴いて答えた。

 朝食後、久々にスケッチブックを取り出した。あの一件以来ずっと手付かずだった絵を完成させなければと思ったのだ。期日まであと1週間を切っているし、どうせ外に出られそうにもないし。時間の有効活用だ、と気合を入れる。決めた構図を別の綺麗な紙の上に清書していく。雑然とした線の塊がしっかりとした藍之右の形になっていった。時々、構ってもらいたそうに俺の周りをうろつく藍之右を見て、細部の修正をする。静かな部屋の中、雨の音と鉛筆が紙をこする音だけが充満していた。
 その静寂の均衡を破ったのは、携帯のバイブレーションだった。3回程鳴り響いた後、振動は止まった。掛布団に埋まっていた携帯を引っ張り出すと、片手で開く。メールが1通受信されていた。優志からだった。”テレビ見てみて下さい!凄い事起こってますよ!”興奮冷めやらぬ、と言う感じだ。一旦鉛筆を置き、テレビのリモコンに手を伸ばす。
「……ん下さい、現在私は国会議事堂前の広場に来ているのですが、一夜にしてこの大きな時計が出現していたのです!」
 電源が付くと同時に、リポーターの女性が終始まくしたてる勢いで言葉を吐き出していた。絽ポーターの背後には、真っ白で高さ3mは有ろうかと言う大きな装飾時計が映し出されている。文字盤は銀製だろうか、日光の反射で銀色の美しい光を放ち、神聖さすら感じた。複雑かつ繊細な彫刻が施されていて、俺は目を奪われてしまった。リポーターがまだ何かずっと喋り続けていたが、音として知覚する事はなかった。それ程、その時計は美しかったのだ。優志にメールを返信するのも忘れ、テレビ画面に映るその光景を、映像が切り替わるまで見続けていた。映像がスタジオに切り替わり、引き戻される様に俺の意識は部屋に戻った。今のは何だったのだろうか? 懐かしい様な、悲しい様な、神々しい様な。そんな感情が複雑に入り混じった感じだった。
 6月25日、突如世界各国の首都に出現した真っ白な装飾時計。これが全ての契機だった事に、この時点で気付く由もなかった。

 6月28日、豪雨はついに4日目に入った。25日から俺の住む一鈴町だけに降り続く雨は、一切衰える事なく、降り続いている。あまりの強さに、殆ど外界からの接触が閉ざされていた。テレビの共同アンテナが折れてしまったらしく、この集合住宅全体のテレビは砂嵐を映すのみとなって2日になる。唯一の情報源の携帯も、大雨洪水警報を馬鹿みたいに繰り返すだけだった。ここら一帯の排水能力の限界をとうに越しており、見える範囲の道路全てが水に沈んでいた。若干の高台に建っているため、1階の部屋もまだ浸水はしていない様だけれど、それも時間の問題かもしれない。すでに同じ階の何人かは自主避難をしているらしいが、この雨の中藍之右を連れて移動するのはかなり困難だった。まあ、どちらにせよ公共交通機関がすでに麻痺しているのだから実家に帰るのも難しかったのだが。俺は考えるのを止め、キャンバスの前に向かった。清書を済ませ、その上に絵筆で油絵の具をのせていく。締め切りの30日に提出しに行けるかも怪しかったが、部屋から出られない以上、こうして絵を描くしかなかった。平面だった藍之右に、少しずつ奥行と温かみが付与されていく。
 バチン、と家中の電気が一斉に落ちる。まだ日中だとは言え、分厚い雨雲が覆っていては部屋の中は少々薄暗かった。ブレーカーでも落ちたのだろうか、と見に行ってみてもブレーカーはきちんと入ったままになっている。どうやらどこかの送電線がとうとうやられてしまった様だ。いよいよ無人島の様になってしまった。ガスと水道が止まってしまうのも時間の問題かもしれない。急に暗くなった事に少し動揺したのか、藍之右が足元に寄って来る。そっと抱きかかえるのと、機械的な雑音がするのはほぼ同時だった。数秒耳鳴りの様な音が聞こえた後に、人の声が響き渡る。女性の様だった。
「一鈴町の皆様にお伝え致します。現在降り続く雨の影響により、甚大な被害が及ぶ危険性が高まってきたため、一鈴町全域に避難勧告が発令されました。なお、混乱による二次災害を防ぐため、地域別に今から指定する箇所にお集まり頂き、バスによる一斉避難を行います」
 拡声器から届いたのは、避難勧告に関するものだった。とうとうこんな事態にまでなってしまったのか。延々と地域名と集合場所の指示が流れていく。自分のいる地区は町役場に近い事もあってか、町役場が指定されていた。1万人弱の小さな町ではあったが、一斉に避難するとなると、大変な事だろう。
 最小限の生活必需品を選別しカバンに詰める。部屋中を駆けずり回り忘れ物がないかの確認をする。
「おっと」
 机の下に、右目の喪失したヌイグルミを見つけた。これは忘れちゃいけないな。鞄の一番上に押し込め、口を閉じる。これで良し。部屋を出る際に、描きかけの絵が目に入った。描き上げてしまいたかったけれど、無事に戻って来られた時に、かな。まだ色の入っていない真っ白な両目が恨めしげに見つめている気がする。少し後ろめたい。最後に、後ろについて走り回っていた藍之右を拾い上げ、ケージに入れる。扉を閉め、ケージごと合羽代わりのゴミ袋に押し込む。準備完了。玄関を押し開く。窓越しに聞いていたよりも数倍酷い雨音が襲った。まるで滝壺に居る様な感覚に近い。水の壁が立ちはだかる。ビニール傘を持ち上げかけて、手を止めた。これは傘の意味などないだろう。一応合羽は引っ張り出したけど、これもどこまで役に立つか……。しばし1階の屋根の下で躊躇したが、こうしていても仕方がない。意を決し、雨の中へ飛び出した。激しい衝撃が全身を襲う。薄いビニールを纏っているおかげで、その下へ染み込み侵攻される事はなかったが、無防備になっていたひざから下はあっと言う間に濡れ鼠と化した。想像よりも格段に状況は悪い。坂道と言う坂道は川の様な流水に覆われ、少しでもくぼみがあれば水が溜まっていた。当たり前の様に、排水口やマンホールの上に水が存在している。水の支配下に置かれた道は、人間が歩くには困難を極め、何度も足を取られそうになりながらもどうにか歩を進める。普段なら5分そこらで着く町役場も、半分の道のりを進むだけでも優に15分は経過していた。水のなるべくないルートを選び選び歩くせいでまっすぐ進めないのだ。合羽のフード部分と顔の隙間に雨水が入り込み始め、とても気持ち悪い。少し不安だったが、ケージにはまだ水は行っていない様だった。ばりばりと水の弾く音が鳴り続けている。早く雨の当たらない場所に行ってしまいたい。
 それから更に15分悪戦苦闘し、町役場に着いたのは、町内放送があってから1時間経過した時だった。すでに大型のバスが3台止まっていて続々と集まる近隣住人が何やら手続きを受けながら乗車を開始していた。全員が全員、疲弊と不安を混ぜた様な表情をしている。知らない人が見たら強制収容所にでも送られるかの様に見えるだろう。ひとまず雨をしのげる屋根の下に入り一息つく。軒からそれこそ滝が発生していた。勢い良く流れ落ちる水に、地面が大きくえぐれている。フードを脱ぐと、外気が心地良かった。ケージのゴミ袋も取ってやりたかったが、屋根の下からバスまでのほんの少しの距離でもケージ内に浸水しかねなかったので、もう少しだけ藍之右には我慢してもらう事にした。避難漏れを防ぐためだろうか、住民名簿に丸を付けるだけの簡単な手続きを済ませる。ようやく暑苦しい合羽からもおさらば出来る、とバスに向かう。50人は軽く乗れそうな大型バスだったが、1台目はすでに満員、2台目もほぼ埋まっていた。自分の後ろには30人以上は待っていた様に思う。受付で全員ちゃんと乗れますと言っていたけれど、大丈夫だろうか。
「すみません」
 2台目のバスに乗り込もうと、ステップの1段目に足をかけた時、横から声をかけられた。合羽を着ていて良く分からなかったが、職員らしき中年の男性が俺の右手のケージを指差しこっちを見ている。
「それはペットでしょうか」
「え、あ、はい。仔犬です」
 一体、と疑問に思う間もなく、それは宣告された。
「誠に申し訳ありませんが、避難所の衛生面や非常食料の関係でペットを持ち込まれることは禁止されているのです」
 鼓膜を通じ脳へ送られた言葉を理解するのに、たっぷり10秒はかかった。連れていけない、だって?
「家族を置いてむざむざ死なせろって言うのですか?」
 自分でもビックリする位の大きな声だった。でも、そんなのって。
「そうは言っておりません、町役場最上階にペットの避難所を設けております。職員が交代で様子を見に来ますので」
 そういって男は指差す。その先には、動物を連れて舎内に入っていく人たちが見えた。猫、犬、鳥。色々な動物が連れられては、人だけが出て来る。なんで家族の一員を簡単に置いて来られるんだ。にわかに信じがたい光景に、頭がグルグルする。
「こいつは俺が側にいないと駄目なんです。俺はここに残ります」
 俺は、制止されたのも聞かず走りだす。フードが脱げてしまったがもう構わなかった。
 家に着いた時には、もう全身濡れていない所がない状態でこの上なく気持ち悪かったけれど、妙に清々しかった。これでいいんだと思う。ケージから出してやると、振られてしまったからか少しふらふらして藍之右が出て来た。手を差し伸べれば、ぺろぺろと指先を舐めてくれる。冷え切った指先に暖かい感触が心地良い。こいつがいれば俺は何でもいい。抱き上げ腕の中で撫でる。今この時が俺にとっては最高の時間だった。でも、と町役場の出来事を思い出した。町役場に置いていかれた彼らはきっと孤独に違いない。
「明日にでも、ご飯持って様子見に行こうか」
 藍之介は尻尾を嬉しそうに振った。こいつに初めて生きた友人が出来るかもしれない。それが分かったのだろう。
 こん、と床に固い物がぶつかる音が耳に届く。そこには絵具の瓶のらしきものが転がっていた。透明なガラス瓶に古びたラベルが貼ってあり、何やら英語の様な文字が書いてある。古くて読み取れないが、どうやら藍色の絵具らしい。こんな物持っていただろうか。ずっと前にポケットに入れて忘れていたのかもしれない。藍之右の目にその瓶の姿が入らぬ様注意しながら蓋をひねった。まるで薄ぼんやりと光っている様な柔らかい色合いの絵具だった。藍之右の右目と良く似た色だ。これを使ってあの絵を仕上げようか。
 立ち上がった俺の目に飛び込んだのは、奇跡の様な光景だった。ベランダのガラス戸の向こう、雨は降り続いていたのだけれど、そこには藍色の虹が大きく空に輝いていた。まだ一緒には見られないけれど、いつかはまた同じ光景に出会った日、これを並んで見られる事を願って、俺は筆を取った。

Next color is…

←①
あとがき→
 電車の車窓から見える遠景は、どんよりとした雲で仄暗く染められていた。比較的地方に位置するこの路線が緑に多く囲まれているからか、緑色の額縁に切り取られた様に曇り空と遠くのビル群が灰色の塊として一体化している。朝方から降り続いている雨は、変わらず強くもなく弱くもない勢いで降り注ぎ、窓ガラスに当たっては水の筋となって流れ落ちていった。そんな雨の日、特に今の梅雨時期の様な日のありきたりな風景を見つめながら、日生公(ひなせ こう)は手持無沙汰に安物のビニール傘の柄を握りなおしていた。
 毎日の様に揺られる通学電車。そこから見える風景も、天気や四季により多少の様変わりはしても見慣れるには充分な時間は経つ。今年ももう5月が終わろうとしている。
そりゃ、4年も通えばね。心の中で人知れず自分に突っ込みを入れた。昔はドキドキしながら通った念願の美大。そんな新鮮な気持ちも一年生の今の時期が過ぎるころには薄れ、4年になった今はもう欠片も残っていなかった。もちろん、美術は大好きだし学校自体も不満はないけど。ただ、ちょっとだけ大人になるにつれて心が擦れていってしまっただけだ。なーんて。とっくに成人した今でもやたら厨二臭いことを考えてしまう自分。まあ、嫌いではないけどね。日々芸術に取り組んでいる身としては、心が若々しいことは有益な事だと思う。……ちょっと違うかもしれないけど。電車はトンネルを通り抜け、気圧差の関係かがたんと音を立てた。そんなこんな考えているうちに電車が速度を落としていき、ゆっくりといつものホームへと滑り込んだ。慣性の法則の対象に自分も漏れることなく、止まる瞬間にぐらりと体が進行方向に揺れた。きっかり1時間15分の旅。あれ?  これはきっかりというのだろうか。
 完全に停止した後、一瞬の間を置いてややあって車体の扉が開いた。目的の一鈴(ひとすず)駅は初夏の暑さと梅雨の湿気が渦巻いている。お世辞にも居心地の良いとは言えない空気が流れ込み体中にまとわりついた。冷房の利いた車内を少し名残惜しみながらしぶしぶとコンクリート打ちっぱなしのホームに降り立った。

 いつもと変わらず何の変哲もない学校からの帰り道。空から舞い落ちる雨音を背景に、ビニール傘が雨にたたかれる音が聞こえる。とん、ととんと大きな雨粒が不規則にあたる音がアクセントとなり、一種の音楽の様なリズムにも思えた。雨の音に満ちた空気は、嫌いじゃない。
雨降る駅通りは物静かで、時々通る自動車以外に人の気配が無い。もともと半ばシャッター通りの閑散とした地域ではあったけれど、悪天であれば一層それが引き立っていた。横断歩道の赤信号に進行を妨げられても、目の前を通行する車両がほとんどないのだから意味はほぼ皆無だ。しばしの停滞後、門無き門番は青へと変わった。ぴよ、ぴよ、と盲人のために通行可能のサインが鳴る。この音も、また役割をきちんと果たしたのは遠い昔だろう。歩道を渡った先のコンビニで、同い年位であろう店員の女の子が大あくびをしているのを尻目に、道を左に折れる。駅通りだった周りの風景は、少し陰鬱な裏通りの雰囲気を漂わせ始めた。狭い路地の右手には、かつては純白だっただろう薄汚れた壁。所々にひび割れも見受けられる。左手には開店している所を見た事がない美容室。入口のガラス戸の上にある小さな窓はうっすらと隙間が開いているので人は住んでいる様だけれど、何とも言えない陰気臭さが有った。そんな事をぼんやりと考えながら、ゆっくりと歩を進める。半分無意識下の思考は心地良い。
美容室を通り過ぎようかという時、左足が何かを蹴飛ばし僅かに体のバランスが崩れた。
「……何?」
 裏路地らしく手入れの届いていない路肩の雑草の間から、茶色味を帯びた四角い物体が飛び出している。あまり考慮する事無く、それが段ボールである事が分かった。雨ざらしになっていた割にはしっかりしていたので放置されてあまり日数は経っていない様だ。
 少々訝しげに箱へと近づく。さっき蹴っ飛ばした感触から、中に何かが入っているらしい。そして、それは動いていた。
 肩にかけた鞄が濡れたアスファルトに付かない様にしゃがみこんで、草の下からそれを引きずり出す。砂埃でも付いていたのだろう、表面がざらっとした嫌な感触がする。閉ざされた上部を開くと、予想通りの結果にため息が零れた。捨て犬だ。まだ自立など出来ない小さな体は、夏も始まろうと言うのに小刻みに震えている。突然の衝撃と巨大な生物の襲来の恐怖によるものだろうか。それならまだ良いのだけれど、何か重篤な病気にかかっているのだったら一刻を争う事態だ。恐がらせない様にそっと手をお腹の下に滑り込ませて、ゆっくりと抱き上げた。
「……!」
 思わず息をのむ。予期していた重さに対して、腕に感じる重さは異常な軽さだった。仔犬だからとか、もうそういう問題では無い。箱の中をざっと見回しても、底にぼろきれは敷いて有れど、餌の類は雀の涙程も無かった。どれ位の期間ここに放置されていたのか分からないけれど、何日か餌を食べていないのならこの重さも納得がいく。
「全く、無責任な人間も居たもんだ」
 いや、そんな事言っている場合じゃないな。急いで何か買って来ないと。
 数分前に通り過ぎたコンビニへ引き返そうと踵を返したが、数歩歩いてふと足を止めた。
「さすがに動物を連れ込むのはあれか」
 もと居た場所まで戻ると、仔犬を静かに段ボール箱に下ろす。
「じっとして待ってなよ?」
 軽く頭を撫でたら、少し目を細めた後きれいな丸い瞳でこちらを見やり、鼻にかかる様なか細い鳴き声を短く一回だけ上げた。
「よしよし、いい子……ん?」
 一瞬何か不自然な感じを受けた。何が、と言われれば分からないのだけれど。なんか、こう違和感を。そんな様子を察知したのか、子犬は少し怯えたような、または少し不思議そうな顔をしてこちらの顔をじっと見つめ返している。怖い顔でもしていたのだろうか。
 もう一度子犬の頭をわしゃわしゃと撫でると立ち上がった。今はそんなことよりもこいつの食べ物だ。しゃがんでいた際に圧迫され急速に遅くなっていた血流が、一気に流れてピリッと足に痛みが走る。それを振り切る様に少し早足で駅前のコンビニへと戻っていった。

「ありがとーございましたぁ。またお越しくださいませぇー」
 マニュアル通りであろう台詞をやる気のない間延びした声がなぞるのを聞き流しながら、今しがた購入した物がつまったコンビニ袋を手に自動ドアを足早にくぐる。冷房の利いた空間から生ぬるい外へと出た時の感覚に辟易としたが、進むスピードは緩めず仔犬の居た路地へと向かった。あのやせ細った体が力尽きる前に、一秒でも早く生きる糧を与えてやりたい。この後、自分が飼うことになるのかはまだ分からないけれど、長期的展望を見据えて冷徹になることは出来なかった。確かに無責任かもしれない、けど、目先の消えかかっている命を助けることをむざむざ放棄する事はどうしても許せない。いざとなれば、講義を削ってでも世話する時間を作ってあいつを飼ってやろう。あ、その前にうちのアパートはペット可物件だったっけ? 後で契約書を確認しないと……。
 グルグルと思考を巡らしながら、道を左に曲がる。開店休業中の美容室を通り過ぎ、元の場所へと戻って来た。少しばかり自分なんかよりももっと良い人に拾われていることを期待したけれど、たった十数分の間にそんな奇跡的な出会いはなかったらしく、段ボール箱を開けると言われた通りに仔犬が大人しくちょこんと座っていた。
「ほら、買ってきたぞー」
 段ボール箱の前にしゃがみ込んで、傘を肩にかけて固定し、空いた両手でコンビニ袋からごそごそと仔犬用ドッグフードの缶詰めと水のペットボトルを取り出した。物珍しいのか、それとも食べ物と認識しているのか、鼻をひくひくさせながらジッと俺の手の物を見つめている。プルトップ式の缶詰めの蓋を取って目の前に置いてやると、少し匂いを嗅いだ後おずおずと食べ始めた。時折こちらを見上げるしぐさをするのは、こいつなりに遠慮しているのだろうか。
「全部食べていいぞ」
 まだおぼつか無い様子で一生懸命咀嚼している姿を斜め上から見下ろしながら、そう声をかける。ピクリと耳を動かしはしたが、こちらを見る事はなかった。けれど、心なしか食べるスピードが少し上がった様な気がした。こっちの言葉が伝わっている、と思うのは希望的解釈かもしれないけれど、なんだか嬉しさに心が躍る。
「お、そうだった」
 もう1つだけコンビニの袋に残っていたものを取り出す。小さめのヨーグルト。白い容器に青い印字、デフォルメされた牛の絵が付いたありきたりなものだ。小学校の時によくデザートとして付いていた記憶がある。ぺりっと蓋をめくり、小さくてどうにも扱い辛いプラスチック製のスプーンを使って一気に掻き込む。甘さと若干の酸味を感じながら、ものの数秒で中身は食道を通過し胃袋へと収まっていった。ふう、満足満足。咥えたままのスプーンを舌先でいじれば、生き物のようにうねうねとうごめく。息つくのも程々に、俺は水のペットボトルに手を伸ばした。キャップを開け、空になったヨーグルトの容器に少し注ぐ。付着していたヨーグルトの残りと混ざり合い、透明だった水は乳白色に濁っていく。咥えていたスプーンを口から抜き、ぐるぐると水をかき混ぜれば、壁から剥がれた残骸が渦にもてあそばれながら漂った。路肩の排水溝に中身を全部流して、新たに水を注ぐ。そのまま缶詰めの横に置いてやれば即席の水飲み皿の完成だ。ヨーグルトを買ったのも無論この為だった。数秒後に水の存在を気付いた様で、残り少なくなった缶詰めから一旦顔を離すとよちよちと体の向きを変えて水を飲み始めた。余程のどが渇いていたのか、舌を器用に使いながら水を間断なく口の中へと送っている。
「まだこんなにちっちゃいのに、ちゃんと水の飲み方とか知ってるんだよなぁ」
 自分がいつから箸とかスプーンとかを今みたいに使える様になったのか記憶はないけれど、きっとこいつよりもずっとずっと遅かったと思う。何と言うか、野生って凄いよなぁ。
 孤独に生きることを強いられたこいつ。不自由なく暮らしていた俺。無責任な人間に腹が立つと共に、自分の幸せに何だかしんみりしてしまった。
 わんっ、という小さな鳴き声に思考が中断される。意識を眼前に戻せば空になった缶詰めとヨーグルトの容器、そしてゆっくり左右に揺れる尻尾とじっと俺の目を見る二つの瞳。どうやら食べ尽くしてしまったらしい。いやはや、成長期の食欲は素晴らしい。出会った時よりも数段元気そうな様子に、俺は心の底から安堵した。
「元気になったなー!」
 両手をお腹の方へと滑り込ませ抱きかかえる。まだ軽いことには変わりなかったけど、幾分かはましになっただろう。
「これからうち来るか?」
 親指を前足の脇の下に入れ、対面する形に持ち上げる。言葉の意味を知ってか知らずか、俺の問いかけに短く鳴いて答えた。OKってことでいいのかな?
 よーし、と腰を上げようとした時、また違和感を覚えた。さっきと同じ違和感。確かこんな感じに顔見た時に……。そう思って、持ち上げたままの状態でじっと仔犬の顔を見る。耳、口、鼻、左目そして右目。
「……お前っ!」
 俺は怒りで目の前が真っ赤になった。いくら抵抗できないからと言ってこの仕打ちはあまりに愚かで残虐だ。とりあえず、早く、早く病院に行かないと。まだ軽く雨が降っていたが、走るのに邪魔だったため傘をたたむ。空になった容器類を雑にコンビニ袋に放り込み、それを押し込めた鞄を乱暴に肩に担ぎ直して、しっかりと両腕で仔犬を抱きかかえた。一目散に動物病院へと駆け出す。水たまりに派手に踏み込んで、靴の中にジワリと水が染み込むが気になどしない。鞄が上下に激しく揺れ、体に当たる度に鈍い痛みを感じた。だが、それも気にしている余裕などなかった。早く、もっと早く。こいつの藍色に染まった右目を早く獣医に見せなければ……!

しばらく駆け、大通りへと抜ける。焦る気持ちをあざ笑うかのように、前方の歩行者用信号は明滅し、赤へと変わった。人こそ少なかったが、国道であり主要道路であるここは交通量が多い。赤信号を気にせず、目の前を通り抜ける車の間を縫って対岸に渡るのは難しかった。経験上この信号が青へと変わるのに時間がかかるのは知っている。じんわりと着実に焦燥感が募っていく。立ち止まって数秒、走っている間は分からなかったが、心臓の鼓動が強く早くなっているのを感じる。胸の奥深くで全身へと血液を送り出す振動がうごめく。
「……きっつ」
心拍数と共に呼吸が荒くなっていくと、気管支が擦れる様に痛んだ。高校時代はバスケットボールをやっていた身。引退して幾年経ってはいたが、体力面には自信があったのだけど。たった数年のブランクで人の体というものはこうも変わるものらしい。ぜいぜいと荒げた息を吐きながら少しだけ切なさに奥歯を噛み締める。初夏の暑さと激しい運動のせいで体温は上昇し、とめどなく流れる汗が顎を伝わってアスファルトに落下していった。落ちる汗を目で追っても、雨振る最中では落下すると同時に紛れて見失ってしまう。
車が目の前を通り抜ける喧騒が聞こえ続けていたため、信号を見るまでもなく赤であることが分かりきっていた。ふう、とため息を吐く。心拍数も呼吸もある程度落ち着いてきたのだが、まだまだ信号は変わりそうもない。何も出来ない時間にもどかしさだけが心に淀む。もう一度仔犬を抱きかかえ、じっと右目を覗き込む。本来黒い瞳が青色から少し鮮やかな色彩を失った藍色になっている。じっとりと暗く、吸い込む様な藍色。これは恐らくカラースプレーの類による人工的な色だろう。だけど、もし、生まれながらにして藍色だったのならばこの色は心を奪って離さない綺麗な色だと思う。そう、思ってしまうのはこいつにとって不謹慎かもしれない。怒りと悲しみとやりきれない思いが渦巻いて、胸を締め付けて離さない。自動車のタイヤがアスファルトとこすれる走行音、水たまりを通過する水音、雨音、すべてのノイズが心のもやもやをより一層際立てていた。
随分と時間が流れた気がした。5分かそこらの短い時間だったとは頭でわかっていても、体感時間は比例してくれない。ようやく青い許可が光ったと視認すると同時に、弾かれる様にまた走り出した。落ち着いた心臓の鼓動が再びアグレッシブな速度へと加速する。この信号さえやり過ごせば、あとはノンストップのはずだ。目指す動物病院は顔馴染みの所だった。高校時代のバスケ部で一番仲の良かった後輩家族が開業している病院なので、ペットを飼った経験はなくとも、遊びに何回か行ったことがあったのだ。病院と居住スペースが一体になった比較的新しい動物病院だったように記憶しているが、大学進学と共にその後輩と遊ぶことはなくなってしまっていたので、様変わりしているのかどうかは定かではなかった。
いくつかの路地、角、交差点を抜け、自分の本来の帰路から大きくそれた頃、目的の病院の前にたどり着いた。古隈動物病院と書かれたそこは、最新の記憶と少し異なってはいたが見覚えのある風貌だった。ぽつんと置いてあった傘立てにビニール傘を入れ、大きく上下する肩と荒れる息を少し落ち着けた後、入り口のガラス戸を引く。センサー式の装置が反応したのか、入ると同時に電子的な音楽が鳴った。
「あ、公先輩!」
 懐かしい声が投げかけられる。探すことなく、声の主は目の前の受付カウンターの中でニコニコとたたずんでいた。下手をすれば中学生にも見える幼い顔は、未だ健在の様だ。
「おー久しぶり、優志」
 そこにいたのは高校時代の後輩、古隈優志(こくま ゆうじ)だった。自分の2つ下で、風の噂で進学したと聞いていたので今は大学2年生のはずだ。お洒落っ気が出たのだろう、バスケットをしていた頃は短めだった髪が、適度な長さまで伸ばされアシンメトリーの前髪がいい感じに顔にかかっている。こいつから繰り出される人懐っこい笑顔は高校時代からわんこみたいだと言われていた事を何となく思い出した。
「ご無沙汰ですね、かわいい男の子引き連れて今日はどうしたんですか?」
 受付から抜け出して、駆け寄ってくる様は確かに犬っぽくなくもない。柴犬といった感じだろうか。
「あぁ、そうだ。今日はこいつを診てもらいたくて来たんだ」
 促され、ここへ足を運んだ目的をずいと優志に突き出す。注意深く俺の腕から仔犬を受け取ると、手際よく全身を見回した。最初はきょとんとした感じで見ていた顔が、仔犬の顔をじっくりと見た後に険しく曇る。眉間にしわがより、さっきまでの柔和な顔は完全に失われていた。
「ご用件は大体把握しました。すぐ見てもらいますね」
 診察するんで、先輩は待合室のソファーに座って待ってて下さい。そう言われ俺は思わず、優志がか? と口を突いた。それを聞いた優志は一瞬驚いた様な顔をした後、笑いながら首をふった。
「流石に違います、診るのは姉ですよ」
 優志は大学に通う合間に受付を手伝っているのだと教えてくれた。それにしても、少し年の離れた柚希(ゆき)さんというお姉さんが居たのは知っていたが、獣医になっているのは初耳だ。離れていると言っても、まだ20代だったはずで、獣医になってそれ程時間が経っているとは考えにくい。それが表情に表れていたのだろう、確かにまだなりたてですけど腕は保証しますよ、安心して任せて下さい。と付け加えた。俺は素直にそれに従い、冷房の程よく利いた待合室へ入る。部屋の中央に鎮座している合成革で淡いパステルブルーのソファーに腰を下ろした。心配でうろついたところで何もならない。今は静かに待つ事だ。そう自分に言い聞かせる。全速力で走った故に、衣服の内側はじっとりと汗で湿り気を持っていた。座れば下着とくたびれたジーンズが太ももへと密着し、余り良い心地ではなかった。まあ、背もたれのないソファーだったので、背中に服が張り付かないのは救いだろうか。有ったとしても深々と座らなければ良いだけなのだが。
こっ、こっ、と待合室入り口横に置かれた古めかしい振り子時計が時間を刻む。意味もなく揺れる振り子を眺めていたが、意識は待合室を出たすぐ正面の診察に注がれていた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。10分そこらな気もするし、数時間も経っている気もした。今までに親戚含め一度も大きな手術を経験していないので、誰かを病院の待合室で待つ何て事は一度も無いがこんな感じなのかもしれない。振り子時計の針は4時過ぎ辺りを示している。ここに着いた時間を把握していなかったので、答えにはならなかったが電車を降りてから2時間程経っていたらしい事は分かった。普段ならとっくに家にたどり着いて、部屋着に着替えてだらだらしている頃だ。しかし、今はそんなことはどうでもいい。どれだけ時間がかかっても構わないから、あの目が無事快方へと向かって欲しかった。自分は動物に関して詳しくないし、ペットだって飼った事もない。片目が見えない事が仔犬にとってどれ位の支障になるのかは予想も出来なかった。そっと右手で右目を覆い隠してみる。視界の右端が見えなくなった。当たり前だけど、改めて実感する。意外と視界は狭くならなかった気がした。そのままできょろきょろと辺りを見回してみても、あまり違いは分からない。犬も人間と同じ風な目の付き方はしているから、もしかするとそんなに生活に問題を来さないかもしれない。だけど、どちらにせよ両目が見える事に不都合はないのだから、綺麗に治る事に越した事はないだろう。そっと手を外すとほぼ同じタイミングで振り子時計の長針が一目盛進んだ。びいん、と独特なバネの音が響く。うちにある電池式の目覚まし時計とは全然違うな、と何となく思った。
 もうしばらくかかるのだろうか、と座り直した時ふいに待合室の扉が開いた。視線が弾かれた様に扉の方へ向かう。顔をのぞかせたのは優志だった。
「先輩、診察室にどうぞ」
 その声色は穏やかな様であり、感情を押し殺した事務的な様でもあった。とりあえず、優志の様子からはどうだったのか推し量ることは出来なかった。無意識の内に緊張した体を何とか動かして優志の後について診察室へと足を踏み入れる。患者(というのが正しいのかは置いといて)の為だろうか、待合室よりも冷房の設定温度が高めになっているみたいだ。全体的に白を基調とした部屋にステンレス製らしい診察台が存在感を放っていた。その上で大人しく仔犬がお座りをしている。
「どうぞ、そこにお座り下さい」
 診察台横の白衣を着た女性が手で灰色のキャスター付きの丸椅子を指した。優志のお姉さんの柚希さんだ。セミロングの髪が後ろでまとめられ、毛先が緩く巻かれている。ほっそりとした綺麗な手とまだ十代と言われても信じてしまいそうな幼い感じが印象的だった。柚希さんといい、優志といい、童顔は血筋なのかもしれない。ちらりと二人を見比べようと視線を泳がせたが、その時にはすでに優志は背を向けて診察室から出ていくところだったので、それは叶わなかった。
 椅子に腰かけると、きぃ、と恨めし気に軋む。俺が座ったのを確認して、柚希さんは口を開いた。表情が少しだけ怖い気がするのは気のせいだろうか。
「一つだけお伺いします」
 はっきりとした透き通る様な声だった。そして、何とも言えない威圧感も含んでいた。俺は思わず背筋を伸ばして次の言葉を待つ姿勢を作る。今から教師の説教を食らう生徒の気分だ。
「このワンちゃんの右目に心当たりは?」
「いえ……。こいつはさっき捨てられてるの見つけて、俺もびっくりして急いでここに来たんです」
 おずおずと答えると、柚希さんは打って変わって和らいだ表情になった。
「そうですか、じゃあ、その捨てた前の飼い主による様ですね」
 何となく話の流れがつかめないまま、はあ、とだけ答える。柚希さんの声も先程までの張りつめた感じはどこへやら、表情と同じように柔らかい。その変化だけは感じ取れたので緊張は自然と解れていった。
「もし、これをしたのがあなただったら、このままこの子を引き渡しても良いものかと思ってたんですよ」
 そうか、状況的にもそれが一番考えやすい。さっきの質問はそれの確認だったのか。
「あの、それで、こいつの右目は治るんでしょうか……?」
 しばらくその問いに柚希さんは答えなかった。何だか苦しそうな表情を浮かべ診察台の上の仔犬をじっと見つめている。当の本人はそんな事お構いなしに何やら熱心に台の端っこに鼻先を擦り付けて匂いを嗅いでいた。何も知らずに無邪気に居る姿を見て無性に悲しくなる。沈黙に耐え切れず、あの、ともう一度声を発しようとした時に柚希さんが再び話し始めた。
「この子の右目は藍色のカラースプレーの様なものが吹きかけられていました。一応目の洗浄は行ってみましたが、時間もかなり経過している様で完全に乾いて固まってしまっています。もう少し早い段階で処置出来ていたら良かったのですが……」
 そこで一度柚希さんは歯切れ悪く言葉を切る。言葉は無かったけれど、その間と雰囲気から俺は残酷な結末を悟った。少しは覚悟していたはずだったが、いざ直面すると胃に氷の塊が放り込まれた様な気持ち悪さを感じる。ぞわぞわする様な、締め付けられる様な、そんな感じだった。
「……恐らく右目の視力の回復は見込めないと思います」
 俺の様子を察したのだろう、ひどく気を使っている声に聞こえた。が、その声はどこか遠くで、ぼんやりと響いた様に俺の耳には届いたのだった。

「また何かありましたらいらっしゃって下さい」
 入口まで見送ってくれながら柚希さんと優志は同時に同じ事を言うと、二人は顔を見合わせ少し恥ずかしそうに笑う。気分が沈んでいたはずだったが、そんな微笑ましい光景につられて自然と顔がほころんだ。こういう姉弟っていいなって思う。診察の後、仔犬を飼うつもりだという旨を伝えると、犬を飼う上での注意点やコツの伝授と狂犬病の予防注射などの諸々を一通りやってくれた。本当に丁寧に一から十までの事をやってもらったので、余程の事がない限りはしばらくここにはお世話にならない事になりそうだ。
「急に来たのに何から何までありがとうございました。ケージまでもらっちゃって……」
 軽く頭を下げた後に、手元の取手付きの薄茶色をした仔犬用ケージに目を落とした。仔犬を抱えて歩いて帰るのはあれだろうと、柚希さんが用意してくれたのだ。最初は診察料しか払っていない身で厚かましいと思って断ったのだが、ずっと抱えていると負担になりかねないのもあったし、何より仔犬自身がかなりのご満悦具合だったのでありがたく貰っていく事にした。
「いいんですよ、別に売り物ってものでもないですし路頭に迷いそうだった小さい命を助けてくれたお礼です」
柚希さんはニッコリと微笑んだ。そう言われるとこそばゆい感じがしたが悪い気はしない。最後にもう一度だけ頭を下げると、ケージ片手に入口のガラス戸を押し開いて外に踏み出した。入ってきた時と同じ電子音が俺を送り出す。まだ空はどんよりと灰色の気配だったが、雨自体はもうあがってしまっていた。不必要になった傘を少し疎ましく思いながらケージを持った方とは反対の手で傘立てから取る。いつもの帰路に向かって道を戻っていこうと歩き始めた時、再び電子音が背後から聞こえた。振り返ると優志が立っていた。
「またいつか遊びましょうね!」
「おう」
短く返事を返してやれば嬉しそうににかっと笑った。再び歩き出した背後で優志が大きく手を振っていたのが嬉しい半面、内心気恥ずかしかった。
 築10年の比較的綺麗な3階建ての集合住宅、2階一番奥の我が城にたどり着いたのは、6時を少し回った辺りだった。一旦ケージを玄関入ってすぐの所に置き、雨にすっかりやられてしまった上着と靴下、ジーパンを洗濯籠に放り込む。籠の中にはさほど衣類が溜まっていなかったので洗濯機を回すのは後日にすることにした。中がぐっちゃぐちゃになっている履き潰したスニーカーはベランダの壁に立てかける。乾く事はあまり期待出来ないが。シンクに溜まった洗い物を見ない振りしつつ、ケージを取りに玄関へ戻るともぞもぞと動く気配があったので取りあえず開けてやった。お気に入りではあった様だが、流石に1時間も閉じ込められると外が恋しいらしく開けると同時に勢い良く小さい体が飛び出す。1m程駆けたと思ったら、はたと立ち止まり床に鼻をこすり付ける様にして匂いを嗅ぎ始めた。2、3分そうしていると思っていたら今度はきょろきょろと周りを見回しあっちこっちに歩き回る。お世辞にも整頓された部屋とは言えないが、恐らくお気に召してくれたのだと思う。こいつの寝床をどこに設営しようか思慮していると、黒い点々がフローリングにランダムに付いているのに気が付いた。うむ、寝床よりも先に風呂、かな。
「そりゃっ」
 走り回る新たな家族をひょいと捕まえると手狭な風呂場に連行した。よくよく見ると狐の様な色の体が埃まみれだ。左手で抱えながら赤い蛇口をひねる。景気良く噴き出したシャワーの水に手をあて、温度を確認する。最初は低かった温度が徐々に上がり始め、熱いかなと感じ始めると、次に青い蛇口を少しひねった。上昇し続けていた温度に歯止めがかかる。が、まだ少し熱い。ここに住んでかなり経つが、どうにもこのお湯と水を混ぜて温度調節するシャワーの扱いが苦手で、丁度良い温度にすぐ出来ない。もう少し青い蛇口をひねると今度はぬるくなり過ぎてしまった。ああ、全く。悪態をつきつつ数度の調節の末、ようやく良い感じの温度で安定した。腕の中で興味有り気にシャワーを見ていたのでどうやら水に対する恐怖はないらしい。床に下ろし、左手でシャワーの勢いを殺しつつかけても暴れなかったので、初めてのバスタイムは実に楽なものだった。濡れた体をタオルで拭く間も、ほぼ成すがままで扱い易い事この上ない。良い事だと思うのだが、ちょっとだけ無防備過ぎるかな、と心配になる位だった。
「よーし、オッケー。綺麗になったぞー」
 拭いたとは言え、まだしっとりとしている毛並みのせいで若干貧相には見えたが、数時間前のあの時よりも格段に健康そうだ。狐色も鮮やかに映えている。本人にも分かるのか、尻尾が上機嫌に左右に揺れていた。
 はてさて、寝床はどうするかな。雑巾片手に床の足跡を消しながら思考する。日当たりの良い窓際かそれともすぐに目の届くベッドがいいか。もともと家の広さ的に選択肢はあまりないのだが。
「おーい、おま……」
 考えあぐねて、意味も無く問いかけ様とした時、重要な事に気が付いた。まだ名前を付けていなかったのだ。呼ばれたと思ったのか、てとてと寄って来た顔をじっと見る。藍色の右目が目に止まった。
「藍……、とか?」
 いいかも、と少し思ったが、病院でも言われ風呂場でも再確認したが、こいつは雄だ。藍だと少し雌っぽい気がする。藍色、藍、右目、藍、右。ぐるぐると漢字が頭の中で渦巻いて、ふと閃いた。
「あいのすけ……。藍色の右って書いて藍之右だ!」
 我ながら良い名前だと思った。藍之右は、ぽかんとした感じだったが、段々自分の名前だと言う事が分かっていくだろう。頭と首の中間辺りを人差し指と中指で掻いてやる。目を細めてそれを受け入れてくれる姿は何とも愛おしい。しばらくそうした後、手を離して解放する。藍之右はしばらくウロウロした後にまっすぐケージに戻って行った。本当にお気に入りらしい。しばらく寝床はあのケージで良いだろうか。
 時刻は、19時30分。そろそろ夕飯でもと立ち上がった。手の雑巾をシンク脇に放り投げる。勢い余って調味料の小瓶を2、3倒したが、まあ気にしない事にした。
 夕食の準備は30分もかからなかった。冷凍していた豚バラ肉と冷蔵庫に少しずつ残っていた野菜類を炒めただけだ。でも、これで冷蔵庫の中身を使い切ってしまったので、週末に買い出しに行かなくてはならない。そのついでに日用品と藍之右の物も一緒に買ってしまおう。何を買うか、あれやこれや考えてみたが、覚えきれないと判断し中断した。
 テレビを付けると、ニュースが流れ出した。20時5分前のこの時間帯はどこもつなぎのニュースかCMしかやっていないため、特にチャンネルをいじる事はせずにおいた。スーツをビシッと決めた中年男性アナウンサーが、県内で起こった事故やアメリカで人工生物を作る研究、政治家の不祥事などを淡々と伝えていくのを箸で豚肉と野菜を口に運びながら聞き流す。寄せ集めながら中々美味しかった。
 他愛もないバラエティ番組や人気絶頂な俳優と女優のドラマなどを見終わり、部屋の契約書にペット不可でない事を確認した頃には、23時を回っていた。とうに食べ終わっていた皿をシンクに置く。置いたと言うよりも、隙間を見つけて差し込んだという表現の方が正しいかもしれない。こうやって食器類を溜め込むのは良くないと分かっていてもこの時間からやり始める気にはなれないのだ。明日こそ帰ってすぐに洗ってしまおうと心に誓うが、その誓いは明日にはまた持ち越されてしまうのだった。これも週末に片付けよう……。現状を受け止めるのを止め、歯を磨きに洗面所へ移動した。ケージの中で藍之右が静かに丸くなって寝ている。初日は環境の変化にストレスを感じるかもしれません、と聞かされていたがどうやらその心配は要らなかったみたいだ。おやすみ、と一言つぶやいてケージの扉をゆっくり閉めた。これから新たな生活が始まる。そう思うだけで住み慣れた部屋が違った世界の様に見えた。

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※Attention※
・実在する方のコテハンをモデルとしてお話を書いています。苦手な方はご注意ください。
・上記理由により、登場キャラクターに対する中傷その他はお止め下さい。
・文章等の転載は禁止です。

七色シリーズ

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】 1.インモラル・インディゴ①  あとがき

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【Side Stories】
0.Controllers in behind the scenes