文学少年"H"

文学少年"H"

僕が読んだ本についての未熟な書評を書いています。

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『こころ』の出会いと縁

 

僕が高校のとき、国語の授業で夏目漱石の『こころ』を習いました。

この『こころ』は僕にとっては非常に縁の深い小説なんです。

高校の授業では第三章の「先生と遺書」というごく一部だけが掲載されていたのですが、この「先生と遺書」という章が、とてもおもしろく感じました。

高校二年生の僕にとって「近代文学」というジャンルは近寄りがたいものだったのですが、その門扉を一気に広げてくれたのがこの小説でした。

たぶん当時の僕はそのとき、新しい「おもしろい」という感情を手に入れたんだと思っています。

それまでに読んできた多くの本は、たとえば宮部みゆきさんだとか、東野圭吾さんだったりと、何かそこにドラマがないと僕の「おもしろい」センサーに反応しませんでした。というかそのおもしろさしか知らなかったんです・・・。

この『こころ』という作品から僕は、漠然としたもの、つまり殺人のトリックや因果関係を読み解いていくのとは違う、もっともっと大きい、人間というテーマ、世界というテーマにぶつかるおもしろさを求めていくようになったんです。

そして時は流れて数年後、僕はこの作品で卒業論文を書くことになりました。いやあ、縁深い。

 

内容について

 

学生である「私」が鎌倉の海水浴場で外国人と一緒にいる"先生"に興味を持つところからはじまります。

「私」は海辺で会った先生に対して次のように思いを巡らせます。

 

どうもどこかで見たことのある顔のように思われてならなかった。しかしどうしても、いつどこで会った人か思い出せずにしまった。

その時の私は屈託がないというよりむしろ無聊に苦しんでいた。

 

この人、どこかで見たことがあるなあ

という漠然な思いを持った「私」。

そして気にするような事柄もなく、むしろ退屈で仕方ない日々を送っていた。

だから、あくる日も先生がいそうな時刻に海辺の掛茶屋に出かけて行きます。

この出会いのシーンが意外と気に入ってるんです!

 

「私」と先生の出会いに何の目的性も見出せないんです。でも、無聊(退屈)に苦しむ「私」が先生に興味をもつ理由が僕にはよく分かるんです。

何の煩わしい事柄もなく、ただ茫漠と過ごす。僕は大学生の長い長い夏休みで同じ経験をしました。

大学生の夏休みって宿題はおろか、何にも縛られるものがないんです。(バイトなどを除けば・・・)

僕は大学の長い夏休みが苦手でした・・・。

毎日何もすることがなく、ただただダラダラと過ごす日々。

すると一種の気の迷いが起きるんです。

家庭菜園を始めてみたり、デッサンの練習をしてみたり、熱帯魚を飼ってみたり・・・。

とにかく、日々になんらかの“意味”を持たせないと、もう頭がもたないんですね。

 

個人的な考えですが、「私」が先生のことを「もしかしたら見たことがあるかもしれない」と好奇心をもって追いかけたのは、僕と同じで、茫漠な日常になんらかの意味付けをしたかったんじゃないかなと思うんです。

だから僕はすごく共感できちゃいました。

 

上と中はサラサラっと読み進めますが、やっぱりなんといってもこの作品は、下の「先生と遺書」ですよね。

この時期の作家、ことに漱石にとっては珍しく、ある種のミステリー性を帯びているので、内容は詳しく書きません。

とにかく、「私」とKとお嬢さんとの三角関係はおもしろいですね。

 

三角関係・自己本位について

『こころ』の三角関係に迫ると、人類普遍の原理がちらと見えてくるんです。

ラカンの有名な主張「欲望とは他者の欲望である」。これに通ずるんです。

 

※内容について詳しく書かないつもりでしたが、どうしても少し触れちゃいます・・・。注意して閲覧してくださいね。

 

当初、「私」は下宿先のお嬢さんに何の感情も抱いていませんでした。いや、正確にいうと気付いてなかったといった方がいいでしょう。

そこに友人であるKが転がり込んでくる。

Kはとても真面目で学業に対して、また自身の生活に対して非常にストイックな男だったので、初めはお嬢さんとも距離がありましたが、慣れてくると次第にお嬢さんと接近するようになります。

そして、ある日Kは「私」にお嬢さんへの恋心を告白するんです。

そこで先生の心に前々から巣食っていた嫉妬の念が爆発します。

つまり、先生のお嬢さんへの恋心が露呈するのです。

 

 

この構図、何かに似ていませんか?

 

 

 

保育園児のAくんの普段はあまり使っていないおもちゃを同年代のBくんが遊びに来て、そのおもちゃで遊び出す。するとAくんは「それ僕の!」と言って、おもちゃを取り返そうとしますよね?普段はあまり興味を示さないおもちゃなのに。

これって分かります?

 

ラカンの言葉に戻りますね。

「欲望とは他者の欲望である」

つまり、人は“他人が欲しがるものを欲しくなる”ということです。

『こころ』の場合、お嬢さんが欲しいという欲望は、Kという媒介者を通じて初めて先生に芽生えるのです。

保育園児の例で言えば、おもちゃの独占欲は、Bという媒介者を通じてAに芽生える。

説明が下手でごめんなさい(´・_・`)

 

でも、この理論、僕はすごく納得できるんですよ。

色んな日常の欲望に当てはめてみてください。

好きになる芸能人って、やっぱりみんなが好きって言ってるじゃないですか?

欲しい服って、みんなが欲しがってる服じゃないですか?

 

それでも、こう考える人もいると思います。

「じゃあKがお嬢さんを欲しいと思ったのは、誰を媒介にしたの?」

読んだ人は分かると思いますが、Kは自己に対して非常に厳しい人間です。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉は印象的ですよね。(Kの人物像や時代背景についてもおもしろいネタを持っているんですけど、また今度紹介しますね。)

このゴリゴリに学業や精神的な生活にストイックなKがお嬢さんに恋心を抱くことに、これだ!という気持ちのいい説明はできませんが、やっぱりこれは「私」を媒介していると思います。

いや、インチキなこと言いますね?

「私」を含める“世間”が媒介者なんです。

1人の人物に対する欲望ではなく、“恋”という漠然とした概念そのものを欲したのです。

そしてその欲望はたまたま同じ屋根の下に暮らすお嬢さんへと向けられたのです。

 

 

 

まあ、こんなに深読みしなくても、さっきも言ったように、この作品はミステリー性や、愛のドロドロ劇場的な展開があるので、十分に楽しめると思いますよ!

 

途中で挫折しそうになったら、上と中はサラサラっと流し読みしてもいいかもしれませんよ♪♪