市役所に用事があり朝イチの涼しい時間に行ったついでに、ロビーで開催中の平和ポスター展を見てきました。





被爆前の街の様子の地名表記は漢字でしたが


被爆後の様子はカタカナ表記


悲しくなりました。
福島第一原発事故後に風評加害を続ける活動家達が福島をカタカナ表記にしていることも含め、穢れや忌み地扱いするためにそういうことをするのをやめて欲しいと。
広島や長崎の人たちがずっと苦しんでいたことを、市役所の総合政策部企画課がやるとは…。

おそらく悪気はないのでしょう。
でも、生まれ育った地を、故郷を、わざわざカタカナ表記にされる人たちの気持ちを想像することもなかったのでしょうか?
SNSではさんざん言われてることなのに。
10年ほど前の被爆アート展のような時も同様の表記があり感想や意見の投書をしてきましたが、今回も同様に投書してきました。


数日前からX(旧Twitter)で、活動家二世の若い人が風評加害で暴れているのが流れてきます。
彼は彼なりの正義を貫いているので、それが誰かを差別したり傷つけているという認識はないのでしょう。

今日の長崎平和記念式典の日に、被爆した人たちが「ずっとそれを言うことができなかった」という打ち明け話しのポストをいくつか目にしました。
私の父親もそうでした。
「ピカの毒はうつる」という不確かなことで家族が差別されるのを避けるためにずっと言わなかったと。

13年前にTwitterで、私の父親が長崎で被爆したこと、それでも私はいわゆる原爆症ではないことをツイートした時に、反核反原発平和活動家の人たちから「被爆したのに子供を作った父親は無知な人でなし」と言われました。
彼らには悪気はない、ホウシャノーによる遺伝子汚染というリスクを考え弁えろという正義感だとは思います。正義ではなくて正義感…お気持ちですよね。

正義感にコーティングされた独善の塊でしかない無自覚な差別を向けられた時にその怖さを思い知りました。
被爆地のカタカナ表記って、そういうことなのです。


令和6年8月9日    合掌。

お題のネタ投稿です。

今日のほっこりエピソード

ほっこり心が温まるという表現すら回避したくなるような酷暑が続いております。



それでも明け方とか


夕暮れ時は微かに、本当に微かに猛暑の終わりが近いと感じられるような空気感。


だといいのですが。


SNSを眺めていると、このクソ暑いのに熱い議論のようなものが目に入ります。
テーマや内容は何年も同じところをぐるぐる回っているだけのモノから、目についたモノに怒り正義の拳をブンブン振り回しているモノとか。

ある方が折に触れ言っていることなのですが
「拳が届く距離でも言えることなのか、考えてから投稿ボタンを押せ」
これに尽きると思うのですが、世の中には愛の鞭とか正義の鉄槌とか、〇〇撲滅とかの勇ましい言動を好む方々も少なくないのでしょうね。


そういう最終的な審判は御神仏に委ねてしまえばいいのに…と思いますが。


国や地方の政治行政に関することも、目にしない日はありません。
特に反〇〇というやつ。
その気に入らない〇〇を引きずり降ろしたり撤回させたところで、次の〇〇に満足するかといえば、また暇に任せあら探しに精を出し反〇〇で徒党を組もうとするだけです。
「体制、主流派に反発すること」
が目的というか生き甲斐なのでしょうから。


親に反発することを自己主張だと思い込む思春期のマインドのまま、個人的には1ミリもかかわり合いになりたくありませんが。


ネットリテラシーというより、義務教育で身に付けておくはずのことだと思うのですが。

はい、あたくしはツマラナイ大人でございます。

 

 

 

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非医療看護系の一般の人が内海聡的とか山田正彦的なとんちきを鵜呑みにするのは、気持ち的にわからなくもない。



しかし普通に医療機関に勤務している専門職の人だったら、奴らのとんちきにしゃぶり尽くされた挙げ句に放り出された人の末路に出会ったことがないのかな?という疑問。あたくし程度のスキルでも複数のケースに遭遇してるというのに。



人は見たいように見て認識するんですね。