私の故郷、山形県寒河江市にある慈恩寺には、実に5組(グループ?)・30体(附けたり、も含めて)もの国指定・重要文化財があります。


そしてそのうちの12体が“秘仏”として内宮(本堂の中にある建物)に安置されていて、一般の人はもちろんのこと、管長(慈恩寺の代表者)以外は例え慈恩寺一山の僧侶であっても見ることは出来ません。


ちなみに一般の人でも見られる重要文化財とは、本堂の東側にあるお堂に安置されている“薬師三尊(薬師如来と日光菩薩・月光菩薩)”とその眷属である“十二神将”の十二体(但しそのうちの4体は江戸時代の作のために“附けたり”とされています)の計15体。これは普段でも拝観料(説明つきで500円)さえ払えば見られますし、毎年5月5日のお祭りの日にはお堂を開放していますのでタダで見られます。


だからと言って侮るなかれ。


この薬師三尊および十二神将はこの辺で彫られたのではなくすべて中央の作です。しかも寺伝では“安阿弥(あんなみ)”作となっております。この安阿弥(あんなみ)とは東大寺南大門にある金剛力士像を作った運慶・快慶の快慶の号であり、恐らく快慶かその一派(工房?)が作ったものでしょう。

*ちなみに、それに関連してこんな伝説があります・・・笈分如来【http://miyagitabi.com/izumiku/oiwakenyorai/】



特に十二神将はだいたい90センチ前後と小柄ながらその精密さと躍動感、そして迫力たるや素晴らしいものがあり、奈良・京都以外でこれだけの十二神将は無い!・・・と勝手に思っております。


この薬師三尊・十二神将に見られるように、慈恩寺のみ仏は平安後期から鎌倉期の中央の一流の仏師による作がほとんどです。


ただ、それだけに謎が多い仏像群でもあると思っております。


何故これだけの仏像が草深い出羽の国・寒河江の荘にある慈恩寺という寺にあるのか?そもそも何故こんなところに天皇の勅願所があるのか?


そもそも寒河江の荘がなぜ摂関家・藤原家の荘園であり、それが鎌倉幕府の重鎮・大江広元に与えられたのか?

寡聞にして明快な説明を聞いたことがありません。が、その話は後日に譲るとしてまずはみ仏たちの話です。



もう三十年以上も前、奈良国立博物館から来られた調査員の専門家の方があまりの秘仏の多さ、見事さに、

「まさかこんな所にこんなも素晴らしい仏像が秘仏として、それもこんなに沢山残っているとは思わなかった」

と驚いていたと聞きました。日本中アチコチの寺で秘仏を調査しているこの調査員の方の話だと、

「秘仏というのは住職以外は見られないのをイイ事に、何代か前の住職が病気したり遊興に使ったりして借金し、その挙句に秘仏を売り払ってしまい、調査に行ったらナニも無かった、なんて例が珍しくないんです。それなのにこんなにたくさん残っているなんて・・・」

という事のようです。



では何故、これだけたくさんのみ仏たちが秘仏として残されたか?



一般的に秘仏といえばご本尊とその脇侍(わきじ)ぐらいだと思うのですが、慈恩寺ではご本尊の弥勒菩薩像と脇侍である釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像の5体の他に、普賢菩薩あり文殊菩薩あり、さらにそれらの眷属あり・・・と、実にたくさんのみ仏たちが秘仏とされて守られてきました。



何故でしょうか?ここから先は完全に私の私見(想像?・空想?)なので証明は出来ないのですが・・・、



実はご本尊の弥勒菩薩像および釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像(これらは鎌倉時代後期の作であり、他の仏たちと違い材質が当地に多かったヒメコマツである点から、もしかしたら慈恩寺で作られたのかも?)と、かつて国宝で現在は重要文化財である木造阿弥陀如来坐像(寺伝では釈迦如来)以外は、破壊されているのです。



さすがに普賢菩薩と文殊菩薩は破壊されてはいませんが、その乗り物である象と獅子はかなり破壊されています。さらにそれぞれの脇侍に至っては一部を除いて両腕や手が無かったり顔が削がれていたりと悲惨なお姿になっています。


その他にも、秘仏ではなく県指定の有形文化財(県・市指定の文化財もたくさんあります)である木造菩薩像(平安時代後期)や木造如来像および両脇侍立像(平安時代後期)、木造二天王立像(鎌倉時代後期)、木造力士立像(鎌倉時代後期)、木造如来立像(鎌倉時代後期)など(その他・市の仏像などの一部)も腕や手が欠損しているものがかなりあります。


*なぜ○○菩薩像、○○如来像では無いかというと、如来・菩薩を判別するのに必要な手指の形=印相(いんそう、いんぞう)が手指の欠損により分からないからです。



これは恐らく、明治に入ってからの廃仏毀釈の影響があったのではないかと思います(それまでは神仏習合もしくは神仏混淆といって同一とされた)。


その時に慈恩寺でも仏教派と神道派の争いがあり、神道派の過激な過激な人たちが自分たちの覚悟を表すためにかどうかは分かりませんが、一部の仏像を破壊してしまうという行為に走ったのではないか?

そして仏教支持派(恐らくは管長あたり)が大切な仏様を守るため、さすがの神道支持派も手を出すことが出来なかった、秘仏としてご本尊が安置されている本堂の内宮に主な仏様たちをお入れした(安置)したのではないか?と想像します。



そう考えると私自身、納得できるのです。そしてもし仮に、実際にそうだったとしたら?



もともと秘仏として本堂の内宮に安置されていたのはご本尊の弥勒菩薩像とその脇侍である釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像の5体のみであり、他のみ仏やその脇侍たちは秘仏ではないことになります。


するとどうなるか?


もし・・・もし可能であるならばそれら諸仏を秘仏から外し、しかるべき施設に安置してはどうだろうか?


その際、木造騎獅文殊菩薩及脇侍像(4躯)・木造騎象普賢菩薩及十羅刹女像(5躯)それぞれをグループとし、その中心?に釈迦如来を安置する(私が聞いたところでは“法華曼荼羅仏像群”というらしく日本では仏像群としてはこの一例だけだそうです)。


さらに、薬師三尊の眷属である十二神将とは本来は時間(十二刻)と空間(十二の方角)とを護る神様なので、薬師三尊を中心にして“子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥”の十二の方角(子=北、卯=東、午=南、酉=西、その他は順番に)に安置すると良い。


その他の重要な仏像もそれぞれの場所を考慮して安置すれば、これは素晴らしい仏像群となると思うのですが・・・無理ですかね、やはり。 そもそも展示館が無いし、その計画も無いですからね~(笑)
何故に般若心経?と思われるかもしれませんが、実は私は20歳ぐらいの頃から宗教のみならず霊界・ニューエイジをはじめオカルト的な世界にまで興味を持ってイロイロと情報を集めて来ました。

そんな私の基本(己の生き方の指針)になったのが仏教。それも原始仏教と呼ばれる、古い形の仏教でした。

仏教については自分なりに理解しているつもりではありますが、でもまだ分からないところがあります。

その一つが、この般若心経。これだけ有名で一般的で、沢山の方に読まれているお経というのは他に無いと思いますが、ではその意味は?となるとほとんどの人が“そんな事は考えたことも無い”と答えるのではないでしょうか。

でも般若心経というのはまぎれもなく“漢文”であり、ちゃんと意味があるハズなんです。私自身、前々から翻訳して読んでみたいと思っていたのですが、なにぶん難しそうで手が出なかったのです。

それなら本なりサイトなりで誰かが解説した文章を読めばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、それだとちょっと問題があるのです。

外国語(古文でも同じ)を翻訳する場合、“翻訳”という作業の途中でどうしても翻訳者の考え・解釈というものが入ってきます。それが正しければ良いのですが、もし正しくなかった場合、読者はそのまま正しくない解釈を受け入れることになり、そしてそれが正しくないという事にも気がつかないという事になります。

それを避けたいと思うのならば、信用のおける翻訳者を選ぶか自分で原典に挑むしかありません。

仏教経典の原典で使用されている言語といえばパーリ語なんでしょうが、でもパーリ語の原典にお目にかかる機会など無いし、もしあっても文字すらも読めないのですから話になりません。

したがって私が参考にするのは“漢訳”の般若心経という事になります。ただし、若い頃に購入した般若心経関係の本が一冊だけある(新解釈“空”の宇宙論・糸川英夫著/青春出版社)のですが、こちらは英語訳を参考にしているので、部分的にそちらも参考にしていくことになると思います。



さていよいよ般若心経を読んでいきたいと思います。なお正式に仏教学を学んだわけではなく、あくまでも素人の私が考えた事なのでご了承下さい。

(全文)
  *仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
仏説摩訶般若波羅蜜多心経(了)



*以下、各文章ごとに読んでいきたいと思います(なお語句の説明は『佛教語大辞典・中村元著/東京書籍刊』によりました)


(A-01)観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

(B-01)
観自在菩薩は観世音菩薩、いわゆる観音様のこと。つまり、『観音様が、深い“般若波羅蜜多”を行(ぎょう)じた時』。

“行”とは“行った”、“行じた時”とは“行った時”となります。では何を“行った時”なか。それが“深”と“時”の間にある“般若波羅蜜多”です。それも“深”という文字が入るので、⇒深い般若波羅蜜多を行った時・・・となります。


ここで問題になるのは“般若波羅蜜多”とはいったい何なのか?という事。


佛教語大辞典には、

*般若波羅蜜多=完全な智恵。最高の智恵の完成。人間が真実の生命に目覚めた時に現れる根源的な叡智。

とあります。なんだか分かったようなワカラナイような感じですが、でもこのままでは意味が通りませんのでこの説明を元に私なりに解釈してみたいと思います。



観音様が行なったというのですが、ではいったい何を行ったのか?


“深く”という言葉から私が連想したのは“禅定”でした。現代的に言いかえると“瞑想”になりますか。仏陀釈尊が悟りを開かれたのも菩提樹の下での禅定でしたので、この場合も禅定・瞑想状態に入って心の奥深くに進み、ついに人間の心の最奥・魂そのものに到達した時に得られる完全な智恵・最高の智恵であり根源的な叡智、そういった物を獲得したのではないか、と思います。


そしてその結果が『照見五蘊皆空、度一切苦厄』=“五蘊は皆空なり”と“照らして見”て、一切の苦厄を“度”した、と。


“五蘊”とは、この後に出てくる色・受・想・行・識の五つであり、“物質と精神とを五つに分類したもの”(佛教語大辞典)のこと、人間を含むこの世界の全てです。


つまり、観音様が深い禅定に入って完全な智恵・根源的な叡智を獲得なさった上でこの世界(五蘊)を見ると全てが“空”であると悟られて、一切の苦難や災厄を超越された、という意味になりますか。


さてここで問題になるのは“空”という言葉の意味です。

“空(くう)”=もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。縁起しているということ。単なる「無」(非存在)ではない。全ての現象は固定的実体がないという意味で、空(欠如している、存在しない)である(佛教語大辞典)

さてさてこれも、分かったようなワカラナイような。

この世界は“無=非存在”ではないが、でも固定的実体は無い。それは“事物の因縁によって生じたもの”であり、そしてそれが次々と切れ目無く“縁起している”から“ある”のであって、固定的実体は無い。つまり“空=欠如している・存在しない”のである、という事か?・・・ムズカシイ。


ここで“因縁”という言葉が出てきましたが、これは原始仏教で教えの根幹を成す“十二因縁”の“因縁”ですね。


十二因縁=無明・行・識・・名色・六処(ろくしょ)・触・(そく)・受(じゅ)・愛・・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし)


何故人は老い、死に行くのか?(老死)、それは生(生まれて来るから)があるからだ。ではなぜ生があるのか?それは有(存在)があるからだ・・・と、そのよって来る所を考えていくと、その根本には無明があるからである。つまり無明を無くせば行が無くなり、行を無くせば識が無くなり・・・、生を無くせば老死も無くなる、というのが(非常に簡単に言うと)十二因縁です(なお十二因縁の説明はここではしません。まだ自分で理解・納得していない部分があるので)。


つまり物事(結果=果)には必ず原因(因)があり、原因を引き起こすきっかけ(縁)がある、という事を示しているわけです。

それが因果、もしくは因縁果などと呼ばれる考えです。この考えをこの世界に当てはめると・・・、


人間を含めたこの世界が“結果”として“ある”のは、その結果を形作る原因(因)があるからであり、さらにその原因(因)を誘発するきっかけ(縁)があるから、この世界が“ある”のである。

この場合、そもそもの原因(因)、もしくはきっかけ(縁)が無かったらこの世界(結果=果)は無い!という事であり、この世界はそのぐらい不確かな存在でしかないのだ、という
事も言えるのです。分かりますでしょうか?


実はもっと簡単に、分かりやすく説明できるのです。


それは、夢の世界。

『インセプション』というハリウッド映画があります。レオナルド・ディカプリオや渡辺謙が出演している映画なんですが、その舞台となるのがターゲットの夢の中なんですね。


夢の中では、人でも車でも建物でも食べ物でも、なんでも普通に“ある”。実際に触れるし食べられるし話も出来る。でもターゲット、もしくは夢の中に入り込んでいる本人が目覚めたら一瞬にして無くなってしまう・・・そんな世界でした。


夢の中では実際に存在しているのに、実は固定的実体はない・・・これは般若心経で説く“空”の世界そのものではないか、と思ったりしました。


ただ、夢とは違うのですがこのモチーフ自体は日本の漫画で数十年も前からありました。私が覚えている限りでは、永井豪さんの“凄ノ王”の中に出てきます。


強力な超能力者である主人公“凄ノ王”の精神が作り上げた世界。その特殊な世界に普通の人々が入り込んで生きている・・・うろ覚えですがそんな感じだったと思います。


つまりこの世界も何らかの原因=因があり、それを誘発するきっかけ=縁があって、どこかに存在しているのだ、と。

ではその“どこか”とはいったいどこであり、またその“因”や“縁”は何か、というとそれは分からない。


もしかしたら・・・その“どこか”とは創造主または造物主と呼ばれる存在の心(心というか、創造主自体が意識エネルギーそのものの存在なのかもしれません)の中であり、創造主の意識が“因”となってこの世界を作り上げているのかもしれません。


いったい何のために?


自分自身が“知る”ために。そのために経験し、体験するためにこの世界を作り上げたのだとしたら、どうでしょうか。


でもどうやって?


“ヒト”として色んな経験・体験をするために。そのためにこの世界を作り、また生き物を作り、そして万物の霊長である“ヒト”、つまり人間を作り上げたのだ、と。


では人間とはいったい何なのだ?


これは私の中ではハッキリしています。人は創造主の分身(言葉の意味が難しいのですが)のようなものです。佛教では“人皆仏性あり”といい、神道では“人間とは神の御霊(みたま)を分け与えられた存在(わけみたま)である”といい、またキリスト教でもイエス・キリストを信じる者は「神の子ら」と呼ばれている・・・そうです。

つまり人間の根幹というか本性は造物主=神そのものであり、それが“魂”と呼ばれる部分だと思います。

さらに言うと、観音様が深い禅定に入って到達したのは“魂”の世界であり、それは“神”の世界そのものなのだと思います。だからこそ、それは“完全な智恵”であり“最高の智恵”、“人間が真実の生命に目覚めた時に現れる根源的な叡智”なのです。


ではいったい、造物主たる神は何を知るためにこのような事をするのでしょうか?


それは恐らく自分自身というものを知るために。でも、待てよ。創造主は全知全能ではないのか?なんでも知ってるのだろう?・・・ここまで来ると私の思考は停止してしまいます。

そして昔、若い頃に読んだあるヨガ行者の本に書かれていた文章を思い出すのです。曰く、

“神は戯れでこの世界を作られた”

と。戯れ?遊びですか?という事は、もしかしたらこの世界は我々人間が想像もつかないほど壮大なスケールの“RPG”なのか??などとついつい不謹慎な事を考えてしまうのであります。



閑話休題


つまり観音様は、人間の存在も含めたこの世の全ての物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がなく、実は存在しない(=空)、夢の中の世界のようなものであるという事を覚られて、一切の苦難や災厄を乗り越えられた・・・という意味に、私は解釈します。


そしてここまでの文章が般若心経の結論であり、もっとも大事な部分でもあります。


あとは後ほど、というか、いつかそのうちに・・・。
他人の心なんて分からないもの。だって自分の心さえも分からないんだから。


アレが食べたい、コレが食べたい・・・
眠い・・・
エッ○したい・・・


必要以上な身体の欲求に振り回される自分の『心』。その結果、苦しみが生じる。



オレがこうしたんだから、オマエはこうすべきだ・・・
アイツがこうしたから、オレはこうなってしまったんだ・・・
私はこうだから、あなたもこうあるべきだ・・・


自己中心的な考えで相手を判断してしまう『心』。そしてその考えが、結果的に自分を、そして相手を苦しめることになる。






でも、そんな『心』とは別に、自分の中に冷静に自分を見つめるもう一つの『こころ』がある。

そしてそれに気がついた時に、人はまた別の見方をするようになる。



この欲求は、自分にとって本当に必要な欲求なのだろうか?




オレがこうした・・・
アイツがこうした・・・
私がこうだ・・・


その行為は、それ以上でもなく、またそれ以下でもない。

ただ『行った』に過ぎない。そこに不必要に『意味』を与え、自分を正当化しようとする『心』。


自分の中の『こころ』に気がつくと、そんな自分自身の自己中心的な『心』に気がつく。





前の車が遅い!イライラする!!・・・

でも、前の車はただ『遅い』だけであり、本来はそこにそれ以上の意味などない。

そこに『オレは急いでいるのに、なんでこんなに遅いんだ!』『オレはもっとスピードを出したいのに邪魔をしている!』という『オレ』という『心』が入り、勝手にイライラして苦しむ自分。


自分の中の『こころ』が目覚めると、そんな自分勝手な『心』に気がつく。




なんだ、けっきょく自分自身で苦しみの原因を作り、勝手に苦しんでいるだけだったんだ。





青年期、自分の中に巨大な『龍』が棲んでいると思っていた。どうしようもない、爆発しそうな苛立ち、とてつもないマグマのような巨大な『龍』が。



その『龍』は、よほど大人しくなったもののまだ私の心の中に棲んでいる。


もしかしたら、その『龍』が、自分の中の自己中心的な『心』だったのかもしれない。




それが分かった今、この『龍』を飼いならし、永遠の眠りにつかせよう。


自分自身の冷静な『こころ』によって、その都度、何度も何度も、繰り返し繰り返し反省しながら。


それがなかなか難しい・・・。時間がかかるだろうが、でも、必ずやり遂げよう。



・・・以上、独り言でした。まだまだ未熟者。修行の身です。