小学校のころ、二階のベランダにツバメが巣をつくったときの出来事。


















孵ったばかりの雛鳥で、おそらく病気など持っていたのでしょう。

この当時は、「ひどい親鳥だな、ひどい兄弟だな」と思っていました。

けれども、巣から病気のツバメを排除することは、大きな自然の循環の中では道理に叶っていて、逆に巣に戻そうとした私は、生き延びるために必死にそうしている他の元気なツバメたちの邪魔をする悪人であったのかもと、最近気づきました。

私も小学校時代は、クラス女子全員にシカトされるといういじめを受けていましたが、排除に善も悪もないのかもと、今は思うことがあります。

自分の中に安らぎを見いだせば、孤独はむしろ大いなる福音ですらある。

そして、状況は常に変動するので、時を経るにつれ、より自分に近い友人や恋人に巡り会えたように思います。


親鳥が悪い、兄弟鳥が悪いと腹を立てている間に時間はすぎてゆく。自分がどうやっても及ぶことの出来ない分野というものがあるのだと知りました。

悲しんだりしていても、やはり時間はすぎてゆく。

自分にはどうしようもできない世界が存在する。
その悲しみややるせなさに長居しても自分を喜ばせることはできないんです。

親にせよ恋人にせよ神にせよ、やはり喜んでいる相手の顔がみたいと思うのが本当です。
どのような人間も望まれて幸せになるのが結構だと思います。

外の出来事に心をかき乱されることもありますが、至極冷静に達観すれば自分の肉体が蚊に刺されることよりもとるに足らないことだと知ることができます。

他人云々より、自分はどうしたいのか?今、なにをしたい?何を望む?どのような気分になりたい?
草原の風を感じたい?
スケートしたい?
ドーナツが食べたいのか?
ワンピース着たいのか?
手紙を書きたいのか?
絵を描きたいのか…?
ブログ書きたいのか…



アレコレ悩む時間があったら、自分のコーディネートについて考えた方が本当の意味で自分の人生を生きてることになります。


心は記憶を引きずりがちですが、肉体は常に移り変わっている。

昨日と同じ状態の細胞なんて一つもないんですから、これにならって心も望む方向へシフトしつつあることをわすれないようにしたいです。



クローバーまるクローバー