黒漆の杯に、月の光が映える。
僅かに掲げれば、銀白のさざなみが立つ。
飲み干す。
口当たりのいい諸白は、喉をするりと抜ける甘さとは裏腹に、胃の腑をカッと熱くする。
空になった杯を、また満たす。
角度を変えた月が軒へ姿を隠すまで、言葉ではなく、眼差しですらなく、杯を交し合うこと数度。
こうして袖と袖が重なり合う距離にいても、私は私で、彼は彼。
同じ酒を飲んではいても、飲み下す思いはそれぞれ違うはず。
人は、みな一人だ。
恋人でも、夫婦でも、親子でも、二人は一人にはなれない。
ほんの少しの苦味はあれど、そこに寂しさはなかった。
土方さんの湯呑は、凍てた庭で月を映し、私の湯呑は火の落ちた台所で、静かに棚に納まっている。別の場所にあっても、二つが対であることに変わりはないのだ。
私たちも、あの湯呑のように生きていけばいい。
「お前―――置屋に戻るのか」
儀式めいた、ひりつくような月見の後、納まった床の中で、土方さんが言った。
私は、瞼を閉じると衛士らの死顔が浮かび上がり、悪夢とそれに伴ううわ言が土方さんを刺すのを嫌って寝付けずにいた。
眠れないのは、土方さんも同じだったらしい。
それも当然か。
平然と眠れる人ならば、今夜ここでこうしていない。
はい、と答えた。
そうか、と応えたきり、天井を見つめて黙り込んだ土方さんを、有明行灯が仄かに照らす。
「俺が打たれるべき飛礫(つぶて)だってぇのに」
苦労をかける。
言われて、花里ちゃんのことかと思い当たった。
凍った錐をねじ込まれるような痛みが胸へと走り、漏れそうになった呻きを奥歯で磨り潰す。
明日、置屋に戻ったら、花里ちゃんはどうするだろう。
泣くだろうか。喚くだろうか。土方さんの言うように、飛礫をもって打ってくれればいい、と思う。そうできないよりは、してくれた方が。
吐き出せず凝った思いは、人を鬼にする―――いつだったか、秋斉さんが漏らした言葉だ。
「大事ないです」
私を詰り、打つことで、花里ちゃんが踏みとどまれるのなら。
「花里ちゃんを、夕霧太夫にはさせません」
こちらへ向き直った土方さんに、微笑んで見せた。
大事無いです、と繰り返す。
「藍屋ですから。みな、いますから」
土方さんは、たっぷり時間をかけて私の顔を眺め、やがて、「さくら」と小さく名を呼んだ。
「抱いてもいいか」
酷く掠れた声を聞きなおす間もなく、続きがきた。
「お前を、抱きてぇ」
刹那、体の中を走り抜けていた歓喜を、どう説明していいのかわからない。
返事よりもまず、身を寄せた。
こんなときに、と呻く土方さんに、こんなときだから、と応える声は、既に彼の口内だった。
交わりは、いつになく慌しく、呆気なく、それでいてかつてを上回る高みへ私を連れて行った。
焼ききれて、真っ白になった思考で、強く互いの生を感じた。
生きている。私も、土方さんも。
―――生きてこそ、ですよ
余韻に震える脳裏に蘇った伊東さんの言葉を、随分と皮肉だと感じるよりも先に、私たちは二人とも眠りの沼へ突き飛ばされていった。
※初出2018/01/10