慶応三年十一月十五日、戌の刻。坂本龍馬、暗殺さる。賊は、見廻組の由。
藍屋に悲報をもたらしたのは、秋斉さんから下された失踪前のお役目を頑なに守って、諜報活動を行っていた金吾さんだった。
その金吾さんは今、藍屋の二階で生死の境をさまよっている。
長州毛利屋敷を張り込むのが、失踪前の秋斉さんから下された金吾さんへのお役目だったところ、土佐山内屋敷辺りまで足を伸ばしていたのは、愚直に使命を全うすることを是とした彼の迷いだったのだろう。
誰のために働いているのか、守るべきものは何なのか、見失いかけていた彼は、心尽くす相手を秋斉さんに定めた。だからこそ、秋斉さんを激しく揺さぶり動かした坂本さんの宿舎に足が向いたのだ。
そこで、夜陰に紛れて進む人影を見、紛れようもなく漂う殺気を感じた。
六、七人はいたという一団は、二手に別れ、しばし近江屋を窺っていたのだという。
「止めねば、と思うたらしい」
紙のような顔色で横たわる金吾さんの枕辺で、又吉さんが言った。
傍らの佐平次さんが、阿呆がっと吐き捨てる。
「なぜ・・・なんでしょう。なぜ、金吾さんは坂本さんを」
秋斉さんを主と定め、秋斉さんのために働こうとするならば、都合よく現れた新手の暗殺者を手伝いこそすれ、とめる理由がわからない。
又吉さんはため息をついて、痛ましいものを見る表情で金吾さんを見やった。
不機嫌に唇を引き結んだ佐平次さんの顎が、ぐっと張る。
「金吾は、若がご不在の間も、あれやこれやの世情を拾うとった。拾うた世情を若に届けるのがコレのお役目で、バラバラのネタを整え、絵図を描くのは若のお役目。ずうっとそれできとったのにな。ここにきて、己の頭で考えたのや」
「お前がいらん知恵をつけたからやないか」
佐平次さんに詰られ、又吉さんは黙り込んだ。
まだ、私の求めた答えは得られなかったが、集め続けた様々な情報から、坂本さんがこれからの世に有用な人だと、金吾さんなりに判断したということだろう。
きゅぅっと胸に迫るものがあった。
立場、身分、あらゆるしがらみから離れ、はじめて金吾さん自身で導き出した答えの尊さと、結果の無残に。
「賊の一人に見覚えがあったのやそうや。見廻組与頭の佐々木只三郎」
知ってるかと問われ、名前だけと答えた。
見廻組は、新選組と同じく、守護職の下に組み入れられた、京の治安部隊だ。ただ、旗本の子弟で構成されているせいか、浪士の群れだった新選組とは何かと折り合いが悪いと聞く。
「『もし、』と声かけただけで斬られたらしい。乞食のなりをしとったのが悪かった。追い払うより切り捨てた方が面倒がないと踏まれたのやろう」
佐々木只三郎なる人は、小太刀の名手なのだという。抜き打ちに斬られて絶命しなかったのは、草である金吾さんなら。
それでも、出血しながら橋下まで逃れ、縫合を行ったものの朝まで寒さに晒され続けた彼が、島原まで辿り着けたのは執念のなせる業としか言いようがない。
「戻りたかったんやろう、どうしても」
やりきれなさを拳にして、膝の上で握り締めた。
沸々とする憤りをぶつけるには、金吾さんの仇の輪郭はぼんやりとしすぎている。
佐々木只三郎なる人にも、その人なりの仁があり、義があるのだろう。
何かが少しでも狂えば、斬る側と斬られる側は容易く入れ替わる。
人が人を人とも思わぬ、そんな世を正したいと願った坂本さんは、もういない。
虚ろに眺めた窓障子の向こうでは、一旦は止んだ雨が、再び降り始めていた。
金吾さんは、午(ひる)を待たずに息を引き取った。
「カシラに会えたら、早う戻るよう言うとくわ」最後の息を吸う間際言い残したそれが、遺言となった。
遺体は一晩泊め置かれた後、ひっそりと島原を出された。
夢を売る商いの性格上、置屋から葬儀を出すわけにはいかないらしい。
そもそもが「草」の死に葬儀など行われない。生も死も、闇から闇へ葬り去られるのが常だけれど、荼毘に付された金吾さんの骨は、水戸徳川家縁の寺にて供養されることになった。
「幸せもんやな」
そう呟いた又吉さんに、一瞬頭をもたげた反感は、一向に去ろうとしない暗雲に吸い込まれ紛れていった。
続く
初出2017/11/17