ふうっ。
ため息がハモり、私と又吉さんは目を見交わして苦笑した。
遊女たちが出払った藍屋は、シンとしている。
述べられた布団に横たえられた秋斉さんは、相変わらず人形のようだ。
意識のない秋斉さんを藍屋に連れ帰るため、又吉さんが手配したのは、目を見張るほど豪華な駕籠だった。漆塗り、金箔張り。
町人ならば、どんなお大尽とて乗ることは叶わない、武家用の、それも相当な身分の人のものだ。
けれど、どこにも紋がない。
又吉さんが秋斉さんのために、どこから都合してきたのか。もしくは、誰から遣わされたものなのか。すぐに察することができたし、双方の思いが胸に迫り、しずしずと進む駕籠に付従いながら、私はずっと鼻をすすり続けた。
帰り着いた藍屋では、お座敷準備が佳境に入っており、猫よりマシだと借り出された又吉さんは、台所番が二階に上がるやなんて・・・と不満ありげにしていたが、総員が立場を越えて協力しあったひと時は、迫りくる新時代の象徴のようにも思えたのだった。
「あんた、もう寝(やす)んだらどないや」
「又吉さんこそ。お布団敷きましょうか」
「わては、よう寝ん」
肩の痛みのせいかと思ったら、秋斉さんの部屋だから、ということらしい。
「番頭さんがいいっておっしゃったんだから、気にすることないでしょう」
「番頭が許可するようなことでもないやろ。台所番が主の隣でやなんて」
世も末や、と首を振る。
「今は番頭さんが秋斉さんの名代なんだし、そもそも又吉さんはもう台所番じゃないでしょう。藍屋の台所番は、染次さんです」
「―――薄情なこと言うやないか」
口ではそう言いつつ、又吉さんはなんだか少し、喜んでいるようにも見える。
「染は、恙無う勤めとるんやな」
「ええ。秋斉さんがおいしいって言ってくれるお味噌汁を作るんだって、言ってましたよ」
又吉さんがそうかと頷き、私たちの視線は自然、秋斉さんへと吸い寄せられた。
まったく上下しない掛け布団だとか、ぴくりとも動かない瞼を見つめていると、つい不安になる。
「なんの真似や」
本当に息をしているか確かめたくて、口元に翳した手を、又吉さんに見咎められた。
「薬は、切れてるんですよね」
何度も同じ問いかけをせずにいられないのは、あまりにも秋斉さんから生命の反応が窺えないからだ。
菖蒲さんの見立て通り、目覚めないのが秋斉さんの内面の問題だとしたら、うなされるとか、寝汗をかくとか、もう少し心の内が窺える反応があってもいいのではないか。
「若は、尋常のお人やない」
ぽつり言われて、又吉さんの顔を見直した。
言葉通りの意味なのか、それとも何かの比喩なのか。
「お七様の文にもあったやろう。若のお母上は、八瀬の出や。彼の里の者は、鬼の裔やという。若にも鬼の血は流れとる」
「―――よく、わかりませんが」
ねばついた唾を飲み込み、私は応じた。
「秋斉さんに鬼の血が流れているのなら、その鬼は、いい鬼ですね」
いい鬼か、と又吉さんが笑う。
「そやな。悪鬼といい、邪鬼という。わざわざ『悪』や『邪』やと被せるということは、鬼自体は、悪いと決まったものではないのやろう。けんど、わてが言うのは、良い悪いやのうて。人を超えた者としての、鬼。並外れた力や才を持つ者としての、鬼や」
なるほど。
そういえば、現代でも、「とても」の代わりに「鬼のように」を強調として使う人がいた。
「鬼のように忙しい」とか、「鬼のように硬い」などという言葉を耳にするたび、鬼って忙しいのか?硬いのか?と内心突っ込んだものだ。
「秋斉さんは確かに、並外れてますよね。綺麗だし、頭もいいし・・・なにより、心が読めるのかっていうくらい人のことをよく観てる」
私の上げた秋斉さんの美点に頷いたものの、「姿が美しいいうんは、草にはむしろ厄介や。頭がええのも悪うはないが、むしろ悪いくらいの方がよう務まることもある。読心もな、若の場合は裏目に出勝ちや」
と、又吉さんは、ひとつひとつを否定した。
「若が、わてらの頭に選ばれたのはな、お血筋や智恵もさることながら、死んだふりがうまいからや」
「え」
一音発したきり言葉が出なくなる。
ご冗談をと目で訴えるも、又吉さんはにこりともしない。
「今の若を庭に寝かしたら、アリが行列で寄ってくる。若に限ってそないなことありえへんが、ノミやシラミがついてたなら、宿主が死んだ思うて離れていくやろう」
「そんなこと・・・・・・」
あるだろうかと、改めて秋斉さんを見る。
「信じられんか。ほな、胸の音、聞いてみぃ」
促され、恐々胸に耳を当ててみた。
心音は、ある。
けれど、遅い。あまりにも。
思うところがあって、めくった瞼に洋燈を近づけてみた。
瞳孔は閉じない。幾度か試してみても、ほぼ拡散したままだ。
「こんな・・・馬鹿な」
「どないしたらそないなことができるんか、それは若にもわからんらしい。けんど、芯から疲れ果てたとき、若はこうして休みはるんが常やった。己を一度殺し、新たに蘇るのやと言うてはった。」
「一度殺し、蘇る・・・・・・」
半分がた自失したまま繰り返す。
己を一度殺さねば回復できないほどの疲れを想像しようとしたが、できなかった。
「あんた、ほんまにまだ寝(やす)まんのか」
又吉さんが再びそう言ったのは、私の沈黙を疲れからだと見たからか、それとも話の口火だったのか。
いずれにせよ、寝る気はないという私の答えを誘い水に、又吉さんは語り始めた。
「藍丸」の物語を―――――
※おかしいな、私は歳三の物語が書きたくて粗野がを書き始めたはずなんだが・・・