こんばんは、カネごんです。

 

今日は一日中家にいたのですが

家にいながらmtgを行うことがあり

なんだか人とのつながりの形が

大きく変化してきているなと

そんなことを感じていました。

 

さて、今日は

前回の流れのまま

中島敦の

木乃伊について

お話できればと思います

 

このお話は

「古譚」という

中島敦のなかでも

もっとも有名な四部作のうちの

二作目となっています

 

時代としては紀元前500年ごろ、

暴君といわれたカンビュセス王が納めるペルシャが

エジプトを侵攻している場面でのお話になります

 

主人公はパリスカスという青年です

パリスカスは夢想的で

その様子から人々に嘲笑されていました

 

そんなパリスカスですが

エジプトへの侵攻が進んでいくにつれ

様子がおかしくなっていきます

 

エジプト人を捕虜としてとらえた時

彼は全くエジプト語を知らないのに

彼らの話す言葉を理解してしまいます

 

また、エジプトにあるオベリスクの前で

エジプトの歴史に詳しくないのに

低い声でオベリスクに関する歴史を語ってしまいます

 

次第にパリスカスは

陰鬱になっていき

癲癇病者のようになっていきます

 

あるとき

ペルシャ王カンビュセスは

エジプトの前王の木乃伊を探して掘り起こせと

命令を出します

 

パリスカスは

他の兵士が墓を掘り起こしている中

ひとりふらふらと

解けそうで解けない何かを探しています

 

ある墓に来た時

パリスカスは夢想し

気づいたら墓の中に入っていました

 

彼が木乃伊を見つけた時

その木乃伊から目が離せなくなってしまいます

 

そして彼の中で大きな変化が起こり

「俺は、かつて、この木乃伊だったんだな、たしかに」

と口に出します

 

すると過去の自分の記憶がどっと押し寄せてきます

 

そして前世の自分が

木乃伊を見つけてしまった時

 

彼は

前々世の自分を見ることになり

前々前世の自分を見ることを

想像してしまいます

 

翌日、他の兵士が彼を見つけた時には

彼は木乃伊を抱きかかえながら

発狂していました

 

 

これが内容になります

 

この作品に関する

考察については

また明日やろうと思います

おやすみなさい。

こんばんは、カネゴンです。

 

またしばらく更新が空いてしまいました

…あ、今回の空白はちゃんと理由があります

 

というのも、昨日まで

とある企業の3Daysインターンに参加していました

それが少し大変で

そちらの方に思考を専念したかったので

このブログは少しお休みさせていただきました。

 

というわけで今日は

昨日までしていたインターンで

少し感じたお話を

 

このインターンは

新規事業立案という

まぁベンチャー企業あるあるなインターンでした。

 

 

僕自身このタイプのインターンは初めてだったので、

少しワクワクしながら臨んだのですが

 

まず驚いたのが参加者の多様さで

自分がいかに狭い環境で生きてきたのか思い知らされました。

 

NPO法人を立ち上げた人

一度大学院に行ったけど留学して再度大学に入りなおしている人

スポーツが好きすぎてタレント活動をしている人

 

自分が今まで触れてこなかった人ばかりで

その人たちと話しているだけでもう

すごく新鮮で楽しいインターンでした。

 

 

新規事業を立案して感じたのは

自分のしたいことをする!ということと

それを事業として行うことは全くの別物で

 

その事業を誰が買うのか

本当にその事業は売れるのか

 

この部分を徹底的に考えるプロセスが大切で

それが想いをただ形にするものと

想いを事業にして広めていくものとの

圧倒的な違いだと痛感しました。

 

 

新規事業を進めていくにあたって

自分の思考の癖、弱み、強みを知ることも出来ました。

 

本当に濃い3日間でした。また頑張ります。

こんばんは、カネごんです。

 

今日は山月記について、後編です。

 

前回はあらすじだけお話したと思います。

プライドが高すぎて

虎になってしまうお話でしたね。

 

山月記について

最も大切なのは

なぜ李徴は虎になってしまったのか

この部分だと思います。

 

今日はこの部分についてお話していきたいと思います。

 

なぜ李徴は虎になってしまったのか。

この問題について考えるとき

この問題をさらに2分割する必要があります。

 

なぜ李徴は人以外のものになってしまったのか

そして

それがなぜ虎だったのか

 

ということです。

 

まずはなぜ選ばれた動物が虎だったのかについて。

 

李徴は自尊心の高い人間として描かれています

 

ちなみに本人もそれは自覚していたようで

李徴は自らのことを

「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」

と表現しています

 

自尊心をかみ砕くと

「おれはおまえらとはちがって偉いんだ!」

と思うことで

そこには自分の理想像が存在します

 

李徴にとってそれは

役人として平凡な仕事をこなすことではなく

 

詩人として大成することだったのでしょう

 

しかし現実は

詩人として大成するどころか

かつての同期の下で働く始末。

 

彼の理想像とは程遠いものだったのは想像に難くないでしょう

 

そして彼の理想と現実のギャップは大きく開いていきます

 

ここで考えたいのは、

なぜ李徴は詩人として大成できなかったのか

ということです

 

これは推測になってしまいますが

李徴は周りの目が気になってしまい

詩業に没頭できなかったのではないでしょうか

 

おそらくここで

自尊心が邪魔をしてしまったのだと思います

心のどこかでかっこつけてしまい

自分の失敗をみとめ

がむしゃらに詩に励もうとするほどには

熱中できなかったのかもしれません。

 

私はそう感じました

 

となれば彼の理想像は

詩人として大成することではなく

詩に没頭して取り組み、結果として大成すること

だったのではないでしょうか

 

周りの目なんて気にせず

自分のしたいことにひたむきに向き合える自分に

なりたかったのかもしれない

 

しかし彼にはそれが出来ませんでした。

 

古来より中国では

「悪心を持つこと」・「暴虐・粗暴な人」を

「虎」と表現したそうです

 

李徴にとって

この理想像は「虎」だったのでしょう

 

そして彼は次第に

理想と現実の乖離が大きくなってしまいます

 

その差を埋めるために

自分の体を虎に変えなければならないほどに

 

わたしはこれが

李徴が人から虎になってしまった

事の顛末だと考えます

 

私たちはこの小説から学ばなければいけません

 

私たちが虎にならないために

どうすればいいのか

 

それは

理想と現実のギャップを埋めることです

 

そのために必要なことはまず

自分で自分を正しく認識することではないでしょうか

他人からの評価も自分です

仕方ないと受け入れていくべきではないでしょうか

 

そしてもうひとつは

何かに打ち込むことが

大切なのではないでしょうか

 

僕にはこれといった趣味がありません

けれど、目の前のことに一生懸命になることならできるはずです

 

おもえば僕は

それこそかっこつけて

 

何かに没頭できる人生でありたいと思いながら

一生懸命に、がむしゃらに

何かに打ち込んだことがないように感じます

 

目の前のことにとりあえず一生懸命になって

自分のエネルギーを発散する場所を作る

 

これが山月記で

 

李徴が出来なかったことであり

 

僕たちに残されたメッセージなのではないでしょうか。