◇大学生時代~結婚


 私は小学校に入る前に家が火事で全焼したり、中学校の時、倒産したりした。なによりも父親が病弱で家は、決して裕福ではなかった。それで中学生の頃から働いて稼ぎたいと思っていた。長くできる仕事として学校の先生と看護婦を考えた。試験を受け、どちらも合格したが教員を選んだ。そして愛媛大学教育学部に入学した。

 入学式の日、いろいろなサークルの勧誘があった。ESSや合宿、ダンス等。その中でYMCA【Young  Man  Christian Association】と書かれた看板が目に止まった。子どもの頃、日曜学校【教会学校】に行っていたからか。私はYMCAに入った。

 その中に町田【旧姓細川】延子さんという人がいた。私より一つ上。私は教育学部だが、町田さんは、法学部。彼女の学年は女性は、二人。町田さんは、その人だった。【町田さんは、頭がいいんだなあ】と、私は羨ましく思った。その町田さんに最近聞いた話だけど、町田さんは、YMCAのCが何か知らなかったとか。それを聞いて私は町田さんをますます好きになった。因みに法学部で町田さんと一緒に勉強したもう一人の女性は、司法試験を受けて弁護士になっているとか。

 YMCAの顧問の先生は、沢田允明といい、理学部の生物の先生だった。教育学部で教わった先生のことは、ほとんど覚えていないが、沢田先生のことは、しっかり心に残っている。私が4年生になるとき、先生は1年間アメリカに行くことになった。

 【留守宅を守ってほしい】と言われ、先生のお宅の2階に下宿させてもらった。下宿代がいらず、ありがたかった。私は、そこで卒業論文【ペスタロッチの教育思想】を書いた。

 沢田先生は、私達に【教会に行くように】と言った。私は先生にすすめられて日本キリスト教団松山城東教会に行きはじめた。牧師は、岡田美須子先生、細くてひょろひょろしてらして、静かな先生だった。

 ある日曜日、岡田先生の説教を聞いていて、まるで私に語られているように思われた。罪―原罪の話だったように思う。私は、先生が講壇から下りてらっしゃるのを待って【先生、私、洗礼を受けたいです】と、言った。先生は、【マ、落ち着いて、少し勉強しながら考えましょう】て言われた。小学校のとき、わからないのに【はい】【はい】と、手を挙げていたのと同じだ。

 私の故郷は四国。愛媛県伊予三島市【今は、合併して四国中央市】寒川町(さんがわちょう)である。山の中腹に長谷寺というお寺がある。お寺の境内から街が見下ろせる。いくつかの製紙工場から煙が出ている。天気のよい日は、その煙がまっすぐ。その向こうに瀬戸内海。船が行き来している。

 夏になって大学に行っている小学校の同級生が帰省し、長谷寺に集まった!お寺の光ちゃん【光子さん】も同級生だ。その中に高石道明さんもいた。

 お寺からの帰り道、道明さんと私の家は、同じ方向だったので二人いっしよに帰った。歩きながら大学で何をしているか話したように思う。道明さんは、大学のオーケストラに入り、チェロを弾いているとのことだった。私は何を話したのか。YMCAのことを話したんだと思う。 

 お互い手紙を交換しようということになった。私は、道明さんからの手紙を待った。手紙がくるとすぐに返事を書き、その返事を今日か今日かと待った。今は、スマホの時代。恋人同士、文通などしないのかもしれない。良き時代だったと思う。

 

 私達は、しばらく文通していたが、やはり会いたいと、デートすることになった。私は、道明さんの大学のある京都に行った。道明さんは、大学のオーケストラの部室に案内してくれて、チェロを弾いてくれた。私は、幸せな気分に酔った。外に出て、喫茶店に入る。そこで私は、ジャスミンティを頼んだ。私がジャスミンティを飲んだのは、この時が初めてだった。

 



 平和で幸せな時は、長く続かなかった。私達が文通し交際していることを両方の親が知る。道明さんのお母さんが、カンカンになった。その頃、いい大学を出れば、将来が保障されると考え、子どもの教育に力を入れる親が多かった。道明さんの親も私の親もそうだった。

 

 道明さんもその弟も、町の中学から県外の受験校に転校し、見事2人共、昔の帝国大学に合格したのである。

 道明さんには、外交官か弁護士になってもらわなければいけない。久美子さんとデートしたり、手紙を書いているひまはないというのである。

 

 道明さんのお母さんは、四国から京都にやってきた。道明さんは、【久美子さんに手紙を書いている時間があったら勉強しなさい】と、叱られた。下宿のおばさんにも協力を要請した。私は道明さんに手紙を出せなくなった。今のように携帯電話などなく、スマホで簡単に伝えあうことなどできない。

 

 道明さんは、【ぼくの友達の田村君のところに手紙を送ってほしい】と言い、田村さんの住所を教えてくれた。私は道明さんへの手紙をせっせと田村さんに送った。田村さんは、私の手紙を道明さんに届けてくれた。世の中には、人の好い人がいるものだ!あれから50年以上たった。田村さんとは今も交流がある。

 田村さんというキューピッドのおかげで恋は実り、私達は、結婚することになった。道明さんは、文部科学省の役人、私は東京都杉並区永福小学校の教員になっていた。
 結婚式は、金木犀の花が香る頃がいいと、10月24日に。1970年【昭和45年】だった。式は、日本キリスト教団信濃町教会。司式は池田伯牧師、披露宴は湯島会館【東京ガーデンパレス】、媒酌人は文部科学省の事務次官三角哲生、知子夫婦だった。私は、ガリ版で案内状を作った。

 



 



 


 結婚式には、もちろんキューピッドの田村さんも来てくださった。田村さんは、満足気に微笑んでらした。大学のYMCAで一緒だった町田【旧姓細川】さんも。
 私は、教会の前を通る人ー誰でも礼拝堂に入って私達の結婚を祝福してほしいと思った。

 



 


 

 結婚式、披露宴には両方の職場の人、友人など大勢出席してくださった。一時カンカンだった道明さんのお母さんもお父さんと一緒に出席し、私達の結婚を喜んでくださった。

 


 

 

 披露宴でのスピーチは、ほとんど覚えていないが、結婚式で話してくださった池田牧師の説教は印象的だった。原稿用紙に7枚書いてくださり、それを結婚式後、私達にくださった。

 




◇小学生

 寒川小学校に入学する。校門への道は、坂になっていて両脇に桜の木が植わっていた。入学式の日、満開だった!先生が1年生を並ばせると、ひときわ背が高い子がいて、みんなより肩から上、とびだしていた。母が【あんな大きな子と一緒に勉強するんじぁ損じぁの~】と言ったのを覚えている。その背の高い子は、【高石道明】(たかいし・みちあき)と言った。その子と結婚して、私の夫となるとは!!

 1年生は2クラスだった。1年生から6年生で高石道明と同じクラスだったのは、4年生の時だけだった。4年生の国語の時間だった。教科書に【上り】【下り】という言葉が出てきて、先生が上り、下りというのは、どう意味かと聞かれた。わかっていてもわからなくても【はい】【はい】と言って手を挙げるのが私だった。先生に指されて私は、【上りは、川之江(かわのえ)に行くのを言います。下りは、新居浜(にいはま)へ行くのを言います】と、自信をもって答えた、その頃、私の家の前を瀬戸内バスが通っていて、バス停には、上り―川之江行き、下り―新居浜行きと書いてあった。先生は、困ったような顔をして、【間違ってはいないんだけど、誰か他に答えられる人は、いませんか?】と聞いた。手を挙げる人はいなかった。先生は【みちあきくん】と言って道明さんを指した。道明さんは、【上りは、都へ行くこと、下りは都から地方へ行くことです。今は、都は東京ですが、昔は京都でした。】と答えた。私は【知っているのなら手を挙げればいいのに】と思い、腹がたった。

◇幼少期

 私は昭和19年(1944年)9月19日に生まれました。父も同じ9月19日生まれです。名前は飛(ひ)鷹(だか)久美子。現在は高石久美子です。「飛」も「鷹」も画数が多くて、いつも原稿用紙のますから、はみ出してしまいました。

 生まれた所は四国。愛媛県伊予三島市(現在は合併して四国中央市)寒川町(さんがわちょう)です。どんな所にあるのか地図をご覧ください。前は瀬戸内海。後ろは法皇山脈で、平地の一番少ないところです。



 行商のおばさんが、朝、捕れた魚を乳母車のような車に乗せて、売りにきていました。ときには、台所に入って、魚をさばいてくれました。蛸がお鍋の中でみるみる赤くなり、踊り出すのにびっくりしました。

 「エリエール」というトイレット・ペーパーをご存知ですか。大王製紙がつくっています。大王製紙は四国中央市にあり、市の多くの人が働いています。工場の排水のせいで、おいしい魚が食べられなくなりました。

 大王製紙の前会長は井原意高(もとたか)。創業者井原伊勢の孫です。カジノで106億8000万の損失をしたそうです。その井原家の別荘が、現在の私の職場(長野県軽井沢の軽井沢幼稚園)の近くにあります。

 四国中央市では「やまじ風」が吹きます。「やまじ風」とは、愛媛県の東予地方限定で吹く〝局地風〟のこと。日本三大局地風の一つとか。

 「やまじ風」が吹くと、母は「今晩はお風呂を炊かない」と言っていました。火事が心配だからです。子どもの頃、お風呂は釜で、木を燃やして炊いていました。

 父は戦争に行きました。ビルマ(今のミャンマー)に行ったと聞いています。ある日、汚いおじいさんが家に来て、一緒に住みはじめました。それが戦争から帰ってきた父でした。
 私はずっと父になじみませんでした。戦争から帰った父は、海産物業を営み、母といっしょに一生懸命働いたようです。寒川町江之元に新築の家を建てました。

 私が6歳、弟は2歳の時でした。ある日の夜、「トントントン」「トントントン」、「ヒダカさん」「ヒダカさん」と激しく戸をたたく音と声がしました。冬。風の強い夜でした。
 母が起きて戸を開けました。するとどうでしょう。火の粉が飛びこんできて、家の中に舞いあがりました。ベリベリベリ。あっという間に家の中の家具が燃えはじめました。「くみこ、ひとりで海の方へ逃げていきな」。母にそう言われて、海にむかって、ひとりでドンドン走っていったのを覚えています。母が弟を背負ったのまでは知っていますが、そのあとどうしたのか。知るよしもありません。この夜、吹いた風は「やまじ風」ではなかったかと思います。

 

#自分史#愛媛#寒川町#文通