昨日、AGAIN-STを見に行き、シンポジウムも聞いた。
まず驚いた(違和感を感じた)のは彫刻という範疇の広さだった。
昔ながらの漆に新漆とか工芸漆とかいうのがまとわりついてきて、
漆の定義が一般には不明瞭になったかのように。
と、本文を書く前に私のプロフィールを知っておいてもらわないと
いけないと思うので簡単に書く。
私は漆屋という仕事を通じて作家さんと呼ばれる方々とも
接する機会がある立場の人間だ。
そういう関係でAGAIN-STを見に行き、シンポジウムを聞いた。
大学は理系なので所謂、まともな美術教育は受けていない。
従って、現在の美術界における彫刻の定義が何であるかについて
見識も無ければ意見も無かった。
ただ、文系の人も含めて私のような人は世の中に多分沢山いて、
美術(彫刻)界とは比べものにならないくらいの人数がいて
社会の大多数を構成していると思う。
年代的には私たちより上の世代が高価な彫刻作品の
購買ユーザーたりえる世代だろう。
以下はそんな立場の1人の人間としての発言だという事を
あらかじめご理解頂きたい。
展示については上記の驚きも含めて面白かったという事になる。
但し、私のような素人は彫刻を見に行くという意識は捨てて行くべきだとは思う。
シンポジウムについては今回がこのAGAIN-STの初回であった事も
その原因であったとは思うが、その範疇の広さゆえ、全体像を捉えきれていない
素人の私にはテーマの『現状を何とかしたい』というところは伝わったが、
アーチスト達が本当に危惧しているところを完全には理解できなかった。
ただ、この部分は今後もAGAIN-STの活動を続ける中で素人にも判るレベルに
こなれた段階になったら私のような素人に改めて提示してもらえればいい。
そういう意味で芸術のフィールドである東京造形大学内で初回を行ったのは
正解であったろうと思う。
混迷期には思考の発散と収束(思考錯誤)を繰り返しながら
何らかの結論に収斂していくものだと思う。
そういう意味では現時点のAGAIN-STは発散中なのだろう。
そういう時期は異分子を受け入れてやっていかないと裾野は広がらない。
そういう意味でAGAIN-STの活動は正しいと思う。
今の時点で気になるところと言えば、AGAIN-STの活動の結論を
どこのレベルに持っていきたいと考えているのかが判らなかった点。
ここでいう『どこ』とは彫刻界なのか一般社会なのかという意味。
『現状を何とかしたい』という事をどこにまで求めているのかという点。
これが彫刻界なのであればAGAIN-STの活動を素人の私が論評したり
注視する必要はない。単純に芸術を楽しめばいい。
一般社会という事であるならば私にも発言権がある訳だ。
AGAIN-STの『現状を何とかしたい』が
私の漆工界に対する危機感と同じものであるのなら
対象は一般社会にまで及ぶと思う。
そしてそれは小中高の教育論にも及ぶと思う。
以下、とりあえず私にも発言権があるとして記述する。
AGAIN-STの『現状を何とかしたい』が一般社会にまで及ぶとすれば
まずは現状の彫刻という範疇の広さをどうにかする必要がある。
これは前述の(専門家による議論の)発散と収束の結果で構わないが、
その結果が私(=たぶん多くの人)の持つ旧来の(?)彫刻の定義と異なるならば
言葉の定義をしっかり(狭く捉えやすく)する必要がある気がする。
そして素人にも充分納得のいく説明をする必要がある。
言葉の定義が(個々人で勝手に捉えられるような)あやふやなものだと
議論がまとまりにくいからだ。
(彫刻とは異なる新しい言葉を定義してもよい。この場合も説明は必要。)
素人も含めて彫刻を議論するならそこから始めないと駄目だろうと思った。
所謂、素人に専門用語を優しく噛み砕いて理解させるところから。
まずはそこからだと思った。
追記
彫刻という先入観で展示を見た時の違和感は
彫刻という言葉の専門家と素人のイメージの相違から来たのだろうと思う。
私が単純に一般の人より遅れているだけならばいいのだが。
追記2(6/13)
現時点におけるAGAIN-STの展示は彫刻を意識していないのかなと思った。
彫刻というものの輪郭を今後はっきりとさせる為に今はあえて彫刻を意識せず
色々な事にトライして改めて彫刻の輪郭を形作っていく過程なのだろう。
室内撮影禁止かどうか判らなかったので
ガラス越しに。
